夢を追う男の意見

 学と別れ、淳はすっきりした気持ちでアパートに向かっていた。腕時計を見れば、既に四時前を指している。

 住むところを決めていないという彼に、アパートに泊まっていくことを勧めたのだけれど、『淳はともかく、他に知らん人がおるのは、落ち着かん』とすげなく断られてしまった。

 アパートの階段を、さして履き古していない革靴をカンカン、と軽快に鳴らしながら一段ずつ踏みしめ、部屋へ向かう。

 和也が、そろそろ帰っている頃だろうか。

 今日はバイトの後、少しストリートライブをやってから返ってくると言っていたから、今の時刻ならもうアパートに戻っているかもしれない。

 ドア前まで辿り着くと、鍵穴に鍵を差し込み、ドアを開ける。玄関から中に向かって試しに「ただいまー」と声を掛ければ、「おかえりー」と奇妙なこだまのように声が返ってきた。

 やっぱり、いた。

 ふふ、と零れる笑みをそのままに、革靴を脱ぐ。慣れないものを履いたせいで知らないうちに疲れが溜まっていたのか、開放感に包まれた両足は少しばかり痺れていた。

「お帰り、淳。遅かったね」

 リビングでギターの手入れをしていたらしい和也が、振り向きざまにふわりと微笑む。不意に懐かしさみたいなものが込み上げてきて、何だか泣きたいような気持ちになったけれど、ぐっと堪えた。

 緩めていたネクタイを、しゅるり、と解く。脱いだスーツの上着と、解いたネクタイをハンガーに掛けると、後ろの方から淳の所作を眺めていたらしい和也がふ、と笑みを零した。

「何か、新鮮だね」

 脱いだスーツの上着をハンガーに掛けるのは、いつも充紀くんがやってることだからさ。

 淳も成長したねぇ、なんて言って呑気に笑うから、振り返った淳はつい口を挟んでしまった。

「いつかは俺も、みっくんみたいになれるのかな」

 ――ねぇ、どう思う?

 目を合わせると、和也は不意に眉を下げた。耐えきれなかったのか、ふい、と先に逸らされる。

 淳は思わず、おずおずと声を掛けた。

「……和くん?」

「前から、思ってたけど」

 充紀くんとも話してたんだけどさ、と前置きし、和也は言いにくそうに頬をぽりぽりと掻きながら言葉を続ける。

「……淳、なんか悩んでることあるでしょ」

 今度は、淳が目を逸らす番だった。

「ほら。最近、様子おかしいもん」

 追従するように続けられた和也の台詞に、淳は言葉を詰まらせる。

 二人が自分の異変に気づいているだろうとは何となくわかっていたけれど、面と向かって言われてしまうとなんだかいたたまれないものがある。今から、そのことについて相談しようと思っていたのに。

「そうだよって言ったら、聞いてくれるんか?」

 わざと、もったいぶったような言い草になってしまう。

 和也は少しだけ目を見開いたあと……へにゃり、と思わず見ているこちらが拍子抜けしてしまうような、くったりとした笑みを浮かべた。

「話してくれるのなら、聞くよ」

「でも、上手く話せんかもしれん」

「いいよ、それでも」

 自分のペースで、ゆっくり話してくれれば、それでいい。

 歌う時のような、伸びやかで澄んだ柔らかい声に、淳は背中をそっと押されたような気持ちになった。

 ふぅ、と一つ息を吐き、口を開く。

「和くんはさ……今、自分のやりたいことを、やってるじゃん?」

「そうだね。大変だけど、毎日すごく充実してる」

「……俺ね、そう言える和くんが、羨ましいんだ」

 好きなことなら、たくさんある。現在大学で学んでいる歴史は昔から興味があって、深く知ることはとても楽しいし、知識を得たり自分で何かを発見したりするのも、やりがいがある。

 この街に来たことを、磯ノ浜大学に進んだことを、後悔してはいない。

 けど……。

「俺だって、やりたいことをやってるつもり。そのために……っていうだけじゃなくて、ホンマは他にも理由があるんやけど、ともかく俺はここに来た。でもね……それを将来に繋げるための、方法がわからない」

 自分にとって、『好きなこと』と『将来の夢』は同じではなかった。

 『好きなこと』はあくまで『好きなこと』であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。そこから将来につなげようなどとは、考えたこともなかった。ましてやそれを、仕事にしようだなんてこと。

 それはむしろ、考えられなかったことだった。

 だって、自分は――……。

「現実を、見てしまうんだね。どうしても」

 考えていたことを見事に言い当てられ、淳は敗北宣言のごとくこくり、と小さくうなずく。うつむいた彼に、和也は落ち着いた笑みを向けた。

「まぁ、淳ちゃんなら仕方ないかなぁ」

「……そうかもね。俺、一人っ子やから」

 独り言のように呟きながら、座り込む和也の隣に腰を下ろす。

「和くんはさ」

 隣の顔から何となく目を逸らしながら、尋ねる。

「好きなことを仕事にするって、どういうことやと思う?」

「そうだね……」

 自分のこれまでの遍歴を辿るように、和也はしばし考えるような仕草をする。

 昔から歌うことが好きだったという彼は、それを仕事に生かすため現在全力で頑張っている。毎日充実していて、とても楽しそうなのは――本人も言っていたが――傍から見ていても十分すぎるほど伝わってくることだ。

 経済的には苦しいかもしれないけど、そういう暮らし方もありなのかな、と時々思う。

 しかし育ててくれた両親のためにも、出来る限り安定した職を選びたいというのが淳の本心だった。

 ――あぁ、ついまた現実を見てしまう。

 一人っ子かつ長男であるという、責任感がそうさせているのだろうか。

「オレの場合なんだけど、さ」

 和也が、ふいに口を開いた。淳は慌てて、ぐるぐると廻っていた思考を中断させる。

 和也は前を向いたまま、懐かしむような眼差しをどこかへ投げかけていた。その横顔を眺めながら、淳は彼の言葉を待つ。

「オレが歌うことを仕事にしようと思う気持ちは、ホントに当たり前みたいに、ずっとオレの傍にあった。だから、好きなことを仕事にするっていうのは、オレにとって当然のことでさ……『好きなこと』と『将来の夢』が違うものだっていう認識は、そもそもなかった」

 だから、淳にとってこの意見は、参考にならないかもしれない。

 これは、あくまでオレが思っていることだけど……そう前置きして、和也は顔をゆっくりこちら側へ向ける。絡められた視線をそのままに、淳の迷いがちに揺れる瞳をじっと見据えた。

「もしかして……淳は『仕事』を、『自分に出来る範囲内のこと』だと考えてるんじゃないかな」

 そうかもしれない、と淳は思った。

 どうしても現実を見てしまう自分には、将来の夢というものがそもそもなかった。将来のことを考える時、『何になりたいか』ではなくて、『自分には何ができるか』を念頭に置いていたような気がする。

「でもさ、淳。『自分にできること』と『自分がやっていて楽しいこと』は必ずしも一致しないと思う。たとえ自分にできることだったとしても、それをやってて楽しいとか、充足感を得られるとか、そう思えないとさ。せっかく内定もらっても、続けられないんじゃない?」

 ――ただ目の前のノルマをこなしていくだけの乾ききった日々。

 ――いつしか人生における楽しみなんて、これっぽっちも見いだせなくなっていた。

 本人いわく二ヶ月程度だったという社会人時代を振り返り、『つまらなかった』と苦笑を浮かべた学を、ふと思い出す。

 彼もまた、働いているうちに『出来ること』と『やっていて楽しいこと』が異なることに気付いて、苦悩したのだろうか。それで、今もまだ自分探しを続けているのだろうか。

「だからまぁ……一概には言えないけど」

 何も言えずにいる淳に、和也はふんわりと柔らかい、包み込むような微笑みを浮かべる。それは暗に『大丈夫だよ』と語りかけてきているようにも思えて、淳は涙が出そうになった。

「淳は、歴史が好きなんだっけ」

「うん」

「だったらさ、とりあえずそういう方面から見てみたら? 自分にできるかどうかとか、そういうことはとりあえず置いといて。興味のある分野、好きな分野を見て、とりあえず調べてみなよ。そこから知れることとか、広がる可能性とか、あるかもしれないだろ?」

 な? と優しい声色を掛けられ、次いで軽く頭をポンポン、と叩かれる。

「とりあえず、オレが言えるのはそれだけ。あとは、充紀くんに聞いてもらいな。オレより人生経験長いし、オレとはまた違う意見も聞けるだろうから」

「……うん、」

 掠れるような小さな声で、ありがと、と絞り出すように呟く。

 照れたように笑った和也は、「バッカだなぁ」と弾むような声で言って、わしゃわしゃと淳の頭を撫で回した。

「ちょっと、やめてよぉ」

「いいじゃん別にっ。減るもんじゃないしさ」

 散々淳の髪形をめちゃくちゃにした後、再びその頭をポンポン、と優しく叩いて、和也は立ち上がった。「夕飯の支度しないと」と言う和也の後を、慌てて追う。

「俺も手伝うからね」

「はいはい」

 明るく、それでいて落ち着いた和也のいつもと同じ雰囲気に、内心ホッとする。

 普段はあんなんだけど、やっぱりこの人は年上なんだな……。

「どしたの、淳ちゃん?」

 ふと立ち止まった淳に気付いたのか、前方にいた和也が振り返り首を傾げる。

「んーん、何でもないよ」

 にっこりと満面の笑みを向ければ、和也は「変な淳ちゃん」と言って、もう一度ふんわりと微笑んだ。

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