学の現在と淳の過去

「なぁ、がっくんは今何しとるの?」

 少し前を歩く学に、何気なく問いかける。電車に乗っていた時は気付かなかったけれど、よく見たら彼は使い古された大きなキャリーバッグのようなものを手にしていた。

 彼が歩くたびに、タイヤがガラガラ、と音を立てる。

「んー? まぁ、色々」

 振り向かないまま、学は適当な調子で答えた。

「喋りでなんとなくわかると思うけど、いろんなとこ転々としとんで」

「まぁ、そうだろね」

 自由な彼らしい、と淳は思う。しかし同時に、ふと疑問が過ぎった。

 学は進学した自分と違い、確か高校卒業後は地元で就職したはずだ。それなのに、色んな場所を転々としているとは、どういうことだろう。

 まさか、充紀のような転勤族というわけでもあるまい。サラリーマンにしては、彼の身なりはあまりに軽すぎた。

「……仕事は、半年もせんくらいで辞めてもぉた」

 淳の疑問に答えるかのように、学がポツリと呟いた。

「なんか、あからん……」

 言いかけて、いったん言葉を切る。

 きっとまた、どこかの方言を無意識に口にしようとしたのだろう。さすがに通じないだろうと気付き頭を掻いた学は、淳が分かりやすいように言い直してくれた。

「……つまらなくて、さ」

 地元から一歩も出られることのないまま、ただ目の前のノルマをこなしていくだけの乾ききった日々。家に帰っても、疲れて寝るだけで。いつしか人生における楽しみなんて、これっぽっちも見いだせなくなっていた。

「そんな毎日に、嫌気のしゃしてしまっちね。ストレス溜めるやけ溜めて、爆発した時にはもう、辞表出してしもうちょったが」

「そう、だったんだ」

 何となく納得して、淳は一つうなずく。

 彼は昔から、そういう人だった。集団行動とか人付き合いとか、何かに縛られることが嫌いで、いつもマイペースで。教師や先輩の命令に歯向かっては、いつも案の定と言わんばかりの返り討ちに遭う。それでも、自分を見失うことは決してない。

 ひとところにいることを嫌い、常に何らかの変化を求め続ける。けれども、自分の中にある根本だけは、決して揺るがない。

 そんな彼に、自分はどれほど憧れと尊敬の眼差しを向けていたことか。

 ――どんなに足掻いても、彼の真似なんて自分には絶対出来ないって、分かっていても。

「んでさ、働いてた頃の給料が少しあったから、それを元手にして……まず地元さ出た。気ぃ向くままに、そごらあだりでバイトして。ある程度金貯まったら辞めて、またどっか別んとこ行って。そんな気ままな生活続けて……あぁ、もう三年以上になるんじゃね」

「今は、どこに住んどんの」

「住むとこなんてなか。どうせアパート借りる金もないし、借りてもすぐ引き払わなならんくなるでの。その辺の漫画喫茶とか、公園とか……基本的には、ホームレスみたいな生活しちょる。知り合いさおったら、ちょっとの間泊めてもらうこともあんねんけど」

「……そっか」

 そりゃそうだよね……と、淳はもう一度うなずいた。

 相変わらず、彼の言葉には奇妙な説得力がある。というより、彼の言葉にいちいち説得させられてしまう自分が、相変わらず幼稚なままということなのだろうか。

「……で?」

 唐突に、学がこちらを振り向いた。いきなりのことに、思わず足を止めてしまう。同じように足を止めた学は、片側だけ口角を吊り上げた。

「おれが、こんだけ話したんやざ。お前も、ちょっこしの身の上話くらいはしてくらはるんやろな?」

「……分かったよ」

 そういえば、本題は自分のことだった……思い出した淳は、曖昧に苦笑を浮かべる。その時ほんの少しだけ、嬉しい気持ちになっている自分に気付いた。

 つまり、学は聞いてくれるということだ。

 親にもかつての同級生たちにも、学友にも同居人にも……誰にも言ったことのないことだけれど、上手く話せるだろうか。

 少し自信がなかったけれど、学の顔を見たら、するりと言葉が出てきた。

「俺さ……正直、わかんないんだよね」

「あぁ……」

 訳知り顔で、学がうなずく。

「お前、高校の時からそげなこと言っちょったばいね」

「うん」

 高校時代、二人ともまだ故郷にいた時にも、こんな話をした。

 当時の淳は、進学にするか就職にするか、悩めるギリギリのところまで迷っていて……。

「あんとき俺、逃げたやんか?」

 わざと茶化すように、淳が告げる。学が眉をしかめたことには気づいていたけれど、止められそうになかった。

「今の学校を選んだのは、単純に歴史が好きだったから。でも……」

 ふぅ、と一つ吐いた溜息は、無意識に震えていた。

 学は、黙っていた。うつむいているから、その表情は分からない。

 しっかり自我を保っていなければ、涙が零れ落ちそうになる。そうなることだけは避けようと、淳は必死の気持ちで言葉を絞り出した。

「……俺、初めは……地元で就職、しようとしてた、やろ」

 百瀬家の長男として、一人息子として。自分は本来なら、家を継がなければいけない立場だった。両親を田舎に残して、一人違う場所で暮らすなんて、あの時は考えてすらいなかった。

 だから、一度は地元に残って就職する道を選んだのだ。

「俺も、がっくんとか他の子たちと一緒に、就職試験受けるために勉強したり、面接練習したりした。二人ともが試験終わるまで、俺らずっと一緒に頑張ってたよな」

「うん」

「んで、がっくんは見事に内定もらった」

「すぐ辞めたけどな」

「せやね……けど」

 ……けど、俺は。

「俺は……落ちてもうた」

 もともとそんなに興味のある職種ではなかったし、あまり真剣に取り組んでいなかったから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。『もともと、そこに行く運命やなかったってことや』と、両親や担任の教師には逆に慰められた。

 けれど、悔しくなかったと言えば、もちろん嘘になる。

「で……あの後、どうするかってなって」

「お前、成績よかったし、どこでも行けたじゃろ」

「担任も、そう言っとった。でも、担任が紹介してくれるような進学校には、いまいち興味がなくて……結局、歴史が得意やった俺に、仲良うしとった社会の先生が、今の学校を勧めてくれてな。そこに願書出した。まるで付け焼刃みたいに」

 あの時、自分がどれほど惨めな気持ちだったか。きっと担任にも、友人たちにも、両親にも……誰にも、分からなかっただろう。

 自分でも、そんなことは口にしなかったのだから。

「そんで俺は、ここに来た」

 期待に応えられなかった、惨めで情けない自分を、わざと着飾って……進学だなんてもっともな理由を付けて、地元から逃げてきたのだ。

「今の生活が不満かって聞かれたら、俺は間違いなく首を横に振る。……なぁ、がっくん。俺な、今ルームシェアしてるんよ。同居人二人とも年上やけどいい人たちやし、色んな出会いもあって、すごい楽しい日々を送っとる」

「充実してるんだな」

「うん、おかげさまで充実しとるよ。……今のところは、だけど」

「ほいだら……次は、大学卒業してから、どげんしたらえぇかを悩んどるっちゅうことか」

「そゆこと」

 大学四回生である自分には、あまり時間がない。それは分かっているのだけれど、どうしても一歩が踏み出せずにいる。

 結局高校の時みたいに、また自分はどこかに逃げ道を見出そうとするのだろうか。

 ここに来たら、少しは変われるかと思ったのに。

「俺は……いつになったら、変われるんかな」

 いつになったら、自分を見出すことが出来るのだろうか。

「あー……」

 弱ったように、学が頭を掻く。淳に対して掛ける言葉を、なんとか選ぼうとしているようだ。

 ――あぁ、また学のことを困らせている。

 いくつになっても不甲斐ない自分自身に、嫌気がさした。

「……なぁ、淳」

「何」

 ポツリと告げられる言葉に、淳はうつむいていた顔を上げる。学を見る今の自分は、縋るような情けない表情をしていることだろう。

「同居人らって、確かお前より年上や言うてたが」

 続けられたのは、一見関係なさそうな話題。目をぱちくりさせた淳は、小さく首を傾げた。

「そうやよ。それが?」

 頭を掻いていた手を下げて、学が淳を見返す。真面目な表情で、ゆっくりと口を開くと、言葉の続きをまるで言い聞かせるかのように告げた。

「年上の意見を、参考にしてみるってのは?」

「……え?」

 それは、淳がこれまで意図的に避けてきたことだった。

 もちろん、充紀や和也に相談してみようかと考えたことも、一度や二度ではない。人生の先輩である彼らは、きっと同じ想いを経験しているはずだから、参考になるような話が聞けるだろう。

 それでも、それだけは決してできないと、自分に何度も言い聞かせた。

 口が渇いていくのを感じながら、喘ぐように口を開く。

「でも、俺は」

「誰かに頼ることは、別に悪いことやなか」

 淳の反発など予想通りだとでも言うように、学がきっぱりと言い切る。強い眼差しに、思わず次の言葉が飛び出そうになっていた口を反射的につぐんだ。

「お前は高校ん時、ほとんど誰にも相談ばせぇへんかったの。おれは、それがようなかったんちゃうかと思うねん。プライドさ高いお前のことやけん、色々と独りで抱え込むことが多かっただろ。誰にも助け求められへんで、一人で潰れることを恐れて、結局逃げた……まぁ、おれはお前が逃げたなんて思うちょらへんけど」

「……」

「今、おれの前でいろいろ言うたみたいに……思い切って、全部打ち明けてみんしゃい。えぇ人らなんじゃろ? 絶対、助けてくれるよ」

「……そう、かな」

「せや。おれを信じね」

 八重歯を見せて、にやりと笑う旧友は、誰よりも頼もしく見えて……淳はその時、少しだけ気が楽になったような気がした。

「そっか、頼ることは悪くないんか」

「あぁ、全然悪ぅない」

「……ありがと」

 礼の言葉と共に安堵の笑みを浮かべてみせれば、ちょっとぶっきらぼうで照れ屋な学は、頬を赤らめつつそっぽを向いた。

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