充紀、風邪を引く

 大学から、一人暮らしをしているワンルームマンションへ向かう。

 部屋の一室では、去年から半同棲状態となっている年下の恋人が、一足先に授業を終えて待っているはずだった。

 時間が時間だから、そろそろ夕食を作ってくれているだろう。彼女の手料理は、世界中のどんな豪華な料理よりも絶品だから、今から楽しみだ。

 特に今日は、自分にとって特別な日だった。無事、就職が決まったのだ。

 彼女は自分より年下だから、自分が卒業してもまだ当分社会人にはなれない。けれど彼女が大学を卒業し、自分も仕事が落ち着いたら、その時には結婚して一緒に暮らすつもりだった。

 このことを打ち明けたら、彼女はどれほど喜んでくれるだろう。

 期待に胸を膨らませながら、自らの部屋の前に立つと、ドアノブを回す。開いているはずのそれは、ガチッ、と音を立てて止まった。

 ――鍵が、掛かっている?

 不思議に思いながらも、鞄から鍵を取り出し、開ける。

 中にいるはずの彼女にただいまと声を掛け、その名を呼びながら入っていくが、返事がない。どういうわけか、その気配もなかった。

 今日は来ていないのか、とほんの少し落胆を覚えつつも、とにかく一段落ついたら連絡を入れてみようと考えた。ともかく、簡単にでも夕食の準備をしなければ。

 冷蔵庫に何かあっただろうかと思いながら、台所へ向かう。

 一見、部屋の様子に変わりはなかった。

 が、時間が経つにつれてだんだんと気付いてきた。たった一つ、これまでと明確に違う点があることに。

 洗面所のコップに二つ並べて入れてあったはずの歯ブラシが、一本消えている。

 ソファに置かれていたはずの、若草色の柔らかいクッションがなくなっている。

 自分なら決して使わないはずの、女物の一回り小さな食器が、全てなくなっている。

 まさかと思い、寝室へ向かってみる。

 案の定、自分が使うものと一緒に置いてあったはずのものは跡形もなく消えてしまっていた。

 女物のパジャマも。大きなぬいぐるみも。携帯の充電器も。

 彼女がこのアパートに持ち込んでいたはずのものが、全て消えていたのだ。まるで、今まで過ごしてきた二人の時間は、初めから存在しなかったのだとでも言うように。

 その事実にようやく気付き、混乱しながら彼女へ電話を掛ける。

 ……が。

『この電話番号は、現在使われておりません』

 ならばとメールを送ってみても、宛先不明で帰ってくるだけ。

 共通の友人に電話して聞いてみたけれど、みんな口を揃えて知らないと言う。口裏を合わせたのか、本当に知らないのか、真偽のほどはわからないし、確かめようもないのだが……。

 すぐに部屋を飛び出し、彼女が住んでいるはずのアパートを訪ねた。けれど、まだ帰っていないのか留守だった。

 どういうことなのか、何が起こっているのか、すぐには理解できなかった。今すぐにでも、彼女に会ってその目的を確かめたかった。

 何で、どうして。

 つい昨日まで、自分たちは恋人同士だったはずではなかったのか。

 それなのにどうして、いきなりこんな……。

 その日は諦めて帰宅することにした。翌日以降、大学で会ったら確かめてみればいいやと考えたのだ。

 けれど、読みが甘かった。

 翌日も、そのまた翌日も、大学で彼女を捕まえることは叶わなかった。

 彼女は自分の前に姿を見せないばかりか、まるでこれまで二人の間には何もなかったかのように、あっさり他人同士のようになってしまったのだ。

 彼女から、別れを切り出されたわけではない。もちろん、自分からそういうことを言ったわけでもない。

 それなのに、何故。


 ――どうすることもできないまま、すっかり途方に暮れてしまい、ただ彼女の名を繰り返すことしかできなかった。


    ◆◆◆


 ふと、目が覚める。

 ずいぶん、昔の夢を見た気がした。詳細は思い出せないけれど、まるで名残のようにチクチクと胸が痛んでいる。

 全身に気持ち悪さを感じた。じっとりと、汗をかいている。

 窓の外は、もう明るかった。夜が明けたのだ。

 そろそろ起きて仕事の支度をしなければと、充紀はほぼ働かない頭で考えた。起き上がろうとして、酷く眩暈がすることに気付く。

 ――何だ?

 ぐらぐらする頭を必死に押さえながら、それでもどうにか起き上がりベッドから出ようと試みる。そこで、タイミングよく充紀の部屋のドアがガチャリと開いた。

「あっ、充紀くん! 寝てなきゃ駄目だってば」

 濡れたタオルを手にした和也が、慌てたように駆け寄ってくる。訳が分からないまま、半ば無理矢理ベッドに寝かされて、充紀は不服気に尋ねた。

「何でだよ」

 そこで、ふと気づく。自分の声が、やたらと掠れていることに。

 充紀の声に、ほらぁ、と和也が反応する。寝てなさいとでも言うように、額に濡れたタオルを半ば投げつけられるようにして置かれた。突然感じた冷たさに、充紀は思わず背をのけぞらせる。

 再びドアが開いた。お盆を持った淳が、苦笑を浮かべて入ってくる。

「みっくんさぁ、熱あるよ。しかも多分、相当高い」

「おでこ触ったら、ホントに火傷しちゃうかと思うくらい熱かったもんね」

「そうそう」

 和也とうなずき合いながら、淳が充紀の枕元へやって来る。サイドテーブルにお盆を置くと、そこに乗っていたらしい体温計を差し出してきた。

「ほら、一応測ってみて」

 渋々受け取り、脇に挟む。今日は仕事休まないといけないかな……と思いながら、和也と淳の会話に耳を傾けつつ大人しく待った。

 ピピッ、という音を合図に、脇から体温計を出す。自分で見る前に、和也に取り上げられた。和也と、彼の肩ごしに体温計を見た淳が、ほぼ同時に顔をしかめる。

「三十九度……」

「今日は、会社休みなさい」

「……はい」

 案の定だった。

 鬼のような形相で威嚇してくる二人の前で、充紀は会社に欠勤の電話を掛ける羽目になった。二人の手を借りて起き上がり、枕元に置いておいた携帯電話を取る。

 電話の相手――営業部長には既にルームシェアのことを話していたので、同居人たちに外出禁止を命じられました、と告げると豪快に笑った。

『まるでお母さんみたいだな。分かった分かった、三十九度もあるんなら無理して来ることはない。熱が下がるまでゆっくり休め』

 礼を言って電話を切ると、すぐさま淳によってお粥を口に突っ込まれる。熱い、と文句を言ったところ、「我慢して」と何故か逆に怒られた。おい、こちとら病人だぞ。

 それから和也に薬と水を手渡され、今度はおとなしく飲んだ。

 そういえば、お粥を食べたのも薬を飲んだのもずいぶん久しぶりだ。子供の頃は、風邪を引いたらよく母親にこうやって介抱されたっけ……と昔を懐かしく思い出した(さすがに子供の頃は、無理矢理ベッドに寝かされたりお粥を口に突っ込まれたりするような手荒な真似などされなかったが)。

 ふと時計を横目で見ると、とっくに出社していなければいけない時間だった。けれど今日は会社に行かなくていいんだな、と思うと、熱でしんどいにもかかわらず何故か安心した気持ちになってしまった。

 ベッドに身体を沈めると、不意に眠気が襲う。微睡みながら、淳と和也が枕元で話しているのをなんとなく聞いた。

「俺、そろそろ大学行く準備しんと。今日は一限からだし」

「オレも、あと一時間くらいでバイト行くんだけど……充紀くん、一人で大丈夫? オレ、休んだ方がいい?」

「大丈夫……」

 和也の問いかけに、ポツリと答える。

「分かった。じゃあ、お昼ご飯だけ作ってサイドテーブルに置いとくから、食べてね。薬、ちゃんと飲むんだよ」

「ん……」

 そこからは、あまり記憶がない。ぼうっとする頭で、何となく和也の言っていることを理解した……気がした。

 童心に返ったような気持ちで、充紀は深い眠りの中に意識を沈めた。


「――充紀くん、やっぱり管理人さんと何かあったんだね」

「そりゃあ、あんまり詮索しない方がいいのは分かっとるけど」

「あんなに『浩美、浩美』って、うなされてるのを聞いちゃったら……」

「おせっかいって分かってても、何かしなくちゃ、って思うよね」

「うん、でもどうしたらいいんだろう……――」


    ◆◆◆


 ――浩美。

 何度名前を呼んでも、なよやかな背中は決して振り返らない。しなる竹のように芯の強い彼女は、前を見据えたままこちらを見ようともしない。

 どんどん、その姿は遠くなっていく。必死に伸ばした手は、むなしく空を切るだけだ。

 それでも何かを求めるように、ずっと手を伸ばしていたら、不意に掌が柔らかなものに包まれた。じんわりと、確かな体温を感じる。

 誰のものかは分からない。ただ、懐かしさと確かな現実味を感じた。ふわり、と甘い匂いが鼻を掠める。

 包み込むように自分の手を握ってくる誰かの優しい手を、縋るように握り返していたら、何故だかとてもホッとして……泣きそうになった。

 ――ここに、いるよ。

 切なく締め付けられる胸に染みわたるように、その人のものと思しき声がする。懐かしくて悲しくて、柔らかく耳を擽る声。

 ――ごめんね。

 その声も、喋り方も、彼女にどこか似ていた気がした。

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