『ごめんね』の傷
会社の喫煙室で一人、充紀はぼんやりと考え込んでいた。
春先にふと現れた、一人の女性のことについて。
まさか、あんなところで彼女と……昔の恋人と、再会するなんて思わなかった。しかも、自分が住むアパートの管理人だなんて。
『……久しぶりだね、みきくん』
彼女――野坂浩美は久しぶりに顔を合わせることとなったあの時、中途半端な姿勢でドアに凭れかかっていた充紀に向かって微笑んだ。それは決して、懐かしい人に思いがけず会った時の嬉しそうなものではなく、どこか寂しそうにも見える儚げな笑顔だった。
関わる者全てを癒すような雰囲気も、優しい顔つきも、柔らかい声も、最後に別れた時から何一つ変わっていない。変わったと言えば、若かったあの頃よりも年を取ったということくらいか。
『……あぁ』
充紀はそんな彼女を見ることができず、ついぶっきらぼうな受け答え方になってしまう。
『何で、ここにいるんだ?』
『ごめんね』
別に責めたわけではないし、そんなことをする理由もないのに、何故か浩美は謝ってきた。眉がハの字に下がったと同時に、目もとの特徴的な泣きぼくろがクシャリと歪む。
『あのね。わたし今、アパートの管理会社にいて……それで、今年からこのアパートの管理を任されることになったから、引っ越して来たの。住み込みで働くことになったから』
『……そう、か』
『みきくんは、どうしてここに?』
『どうしてもこうしても、決まってるじゃないか。住んでるからだよ。俺は、このアパートの住人なんだ』
『そうなんだ。転勤?』
『あぁ。去年、この街の支社に来た』
『へぇ……偶然だね』
『まったくだよ』
全く、嫌な偶然もあるものだ。
……なんて言ったら、彼女はまたあの悲しそうな瞳で静かに微笑むのだろう。涙を流すことも、恨み言を口にすることも、決してしないまま。
彼女は、泣かない。弱音を吐くこともしない。儚げでたおやかな見た目とは裏腹に、結構したたかで頑固なのだ。
野坂浩美という女は、出会った時からそういう性質だった。
充紀は彼女のそういうところを、好ましいと思った。だからこそ、当時の充紀は浩美を恋人として選んだのだ。
けれど、同時に……。
『……わたしのこと、まだ恨んでいる?』
充紀が胸に溜まったモヤモヤをぶつけようと口にする前に、浩美の方からポツリとそう切り出してきた。拍子抜けして、つい開こうとした口を所在なくぽっかりと開けたまま固まってしまう。
開いたままの口を塞ぐ前に、幾度か言葉を発そうと動かしてみたけれど、頭の中に浮かんだもののうち、どの言葉も実際に口にすることはできなかった。
何を言っても、浩美はただ眉を下げながら『ごめんね』と笑うだけのような気がして。
こちらがどれだけのことを望んでも、浩美はその胸の内を少しも打ち明けてくれないような気がして。
十年以上経った今も、きっと教えてくれないのだろう。
忘れもしない――充紀の就職が決まった、あの日の夕方。半同棲状態だったはずの浩美が、いきなり彼の前から姿を消した理由を。
だから充紀は、顔を逸らしたまま冷たく言ったのだ。
『別に、今更だよ』
浩美はやっぱり、悲しそうにひっそりと笑った。
『……じゃあ、わたし仕事があるから』
『あぁ』
浩美が足早に立ち去った後も、充紀はその場から動けなかった。
大学から戻ってきた淳が、中途半端な姿勢でドア前に佇む彼の姿を見つけ、目を丸くしながら声を掛けてくるその瞬間まで。
「はぁ……」
喫煙室を出て、仕事に戻ってからも、胸に蓄積された嫌な気持ちは消えなかった。一時の感情に左右され、大きなミスをするなどということは、この年になったらさすがにない。けれど、それでもいつもより調子が悪かったのは事実だ。
今日のノルマをどうにか達成し、アパートへ戻る途中、充紀は何度も深い溜息を吐いた。
この微妙な気持ちに名前を付けるとするならば、一体何なのだろう。
十年越しの風化した恋心? それとも、心の傷が化膿した結果生み出された、恨み辛み?
別に、彼女のことがあったから今まで恋愛ができなかったとか、そういうわけではない……はずだ。充紀がこの年まで結婚をしていないのは、ただ単にタイミングが悪かったから。
心のどこかで、妙なわだかまりを感じていたことは認めるけれど。
とにかく充紀は、自分が浩美に対して抱えるこの微妙な感情を、今すぐ誰かに洗いざらいぶちまけてしまいたかった。
……でも、誰に?
同居人たちなら……あの二人なら、きっと聞いてくれるだろう。けれどそれは、年長者としてのプライドが許さない。まぁ、既にヘタレたところを何度も見せているのだから、今更プライドも何もないのだけれど。
「……でも、年下にそういうことまで頼るのはなぁ」
何か、違う気がするんだよなぁ。アドバイスするならともかく。
結局どうすることもできず、重苦しい気持ちのまま携帯を手に取る。そこで、ちょうど先にアパートに戻っている淳から、メッセージが二通来ていることに気づいた。
『みっくん、お仕事お疲れ様。帰り時間分かったら教えてね』
『今日は、和くんが腕によりをかけて作ったボルシチがあるよ』
後者のメッセージには、美味しそうに湯気を立てるボルシチの画像が添付されていた。画面越しからでも伝わるほのぼのとした雰囲気に、思わず笑みが零れる。
美味そうだなぁ……と思いながら見ていると、更に新着メッセージが一件やってきた。差出人は、またもや淳。
今度は何だろう、と訝しく思いつつも開くと、おおよそ淳らしくないハイテンションな文章が並んでいた。
『三人で食べたいから、帰れるなら早く帰ってきてね!!』
最後に添えられた『by和也』の文字で、ようやく充紀は納得する。おそらく、淳の携帯から和也が送信したのだろう。彼らが賑やかな言い合いをしている情景が、目に浮かぶようだ。
いつもの風景に心を和ませると同時に、胸の辺りがちくりと痛んだ。
――あの日以来、和也も淳もまるで何事もなかったかのようにいつも通りだった。新しい管理人と充紀との間にあった奇妙な一件など、存在しなかったかのように。
管理人としての浩美とは、二人ともそれなりにうまくやっているらしい。すれ違ったら会釈したり、ちょっとした世間話をしたりしているところをたまに見かける。
けれど二人は、どこかで充紀に気を遣っているのだろう。充紀の前で、浩美に関する話を振って来ることは一切なかった。
年下二人に気遣われていることに改めて気づき、充紀は思わず自嘲気味に笑う。
「ホント、何やってんだか。俺は」
あれほど二人に『気を遣うな』とか、『言いたいことを言え』とか説教垂れてたくせに。自分がまず、言いたいことの半分も言えてないじゃないか。
おそらく二人は、充紀が自分から言い出すのを待っているのだろう。それまではきっと、何も言ってこないつもりなのだ。
「……こんな俺の泣き言も、あいつらは聞いてくれるのかな」
こんな弱い自分でも、彼らは受け止めてくれるのだろうか。
期待と不安の入り混じった心情を抱えながら、それでもまだ心の整理がついていないからと、また逃げの姿勢に入ろうとする自分もいる。
……けど、ともかく今は。
「早く帰らないと、あいつら拗ねるかもな」
心に渦巻く負の感情を全て振り払い、充紀は苦笑しつつ足を速めた。
今日も部屋に入ればいつもみたいに、同居人たちの温かい笑顔と『おかえり』の言葉が迎えてくれるはずだ……と、そう信じて。
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