2年目
新しい管理人
「のわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
――バァンッ!
断末魔とともに、ドアが勢いよく開く。
アパートの外へと飛び出してきたのは、血相を変えた充紀だ。いつも冷静で頼れるはずの彼からは想像がつかないほどにうろたえたその姿は、言っては何だが非常に情けない。
「無理無理無理無理っ!!」
どうやら、虫が出たらしい。
ちょうど暖かく過ごしやすい気候になってきた季節なので、鳴りを潜めていた虫たちが繁殖し出しているようだ。その一部が、彼の住むアパートにも入ってきたのだろう。
今、アパートには仕事休みの充紀以外他に誰もいないので、充紀は一人きり。つまり、助けを呼ぼうにも呼べない状態というわけだ。
とりあえず天敵――虫がこれ以上追ってこないようにドアを閉めると、充紀はほとぼりが冷めるまで……というか、同居人である他の二人のどちらかが帰ってくるまで、どこかで時間を潰そうと考えた。
今しがた閉めたドアに凭れかかり、息を整える。
今回部屋に出たのは、茶色い六角形のあの虫だ。飛ぶとやたら埃が舞うし、捕まえようとしたら嫌な臭いを放つし、おそらく充紀でなくとも好きな者はいないだろう。
……そうだ。窓、開けときゃよかったんだ。
部屋を出てから、充紀は今更その事実に気付いた。が、もう遅い。
それに、窓を開けっ放しで外に出るのはあまりに不用心だし、むしろさらに虫が中へと入ってくる可能性もある。そうなったら、もう充紀には太刀打ちできない。
だからまぁ、これでよかったんだ。
必死に自分に言い聞かせると、充紀は詰めていた息を大きく吐く。そうして、未だ早鐘を打つ心臓に手を当てた。
「……あの、大丈夫ですか?」
うつむいて中腰の状態になっていた充紀の頭上から、不意に声が降ってきた。柔らかな、妙齢の女性の声だ。
あぁ、近くの住人が通りかかったのか……まったく、恥ずかしいところを見せてしまったな。
「すみません、ちょっと気分が悪くなっちゃって」
苦笑を浮かべつつ、充紀はゆっくりと顔を上げた。そんな充紀に、なおもその人は心配そうに声を掛けてくれる。
「季節の変わり目ですからね。……大丈夫ですか」
「えぇ、ご心配いただき恐縮です」
目の前に差し出された、女性らしくほっそりとした手。そこまでしてもらうには及ばないと、やんわり遠慮しつつ、充紀は改めて声を掛けてきた人の顔をしっかりと見る。
「もう、大丈夫ですか……ら」
そして……固まった。
目の前で充紀を心配そうに見ていたのは、彼と同い年くらいの優しげな女性。柔らかな栗色の長い髪が、白く整った顔の輪郭をふんわりと囲んでいる。
まさかこんなところにいるはずがないと思っていた、思いがけないその見覚えのある姿に、充紀は表情をこわばらせた。相手の方も同様に、長い睫毛に彩られた垂れ目がちの瞳を、驚いたように大きく見開きながら充紀を凝視している。
最初に口を開いたのは、女性の方だった。
「みき、くん……」
懐かしい呼び名に、胸がじくりと痛む。
戸惑ったような、それでいて柔らかな声色に呼応するように、充紀もまた、よく知っている目の前の女性を呼んだ。
「
◆◆◆
「オガムシはただ臭いだけやのに、何もそこまで怖がることないじゃん」
その後、三十分ほどで帰ってきた淳が、充紀にとって脅威であった部屋の虫を無事退治してくれた。臭くなっているといけないからと、念のために消臭スプレーをかけておく。
相変わらず落ち着いた淳を、充紀は情けない気持ちでおずおずと眺めていた。くっそ、年下なのに自分よりかっこよく見えるとはどういうことだ。
「仕方ないだろ……ってか、オガムシって何」
「何言っとんの。さっきおった虫のことやざ」
「あぁ、カメムシでしょ? 淳のところでは、そう言うんだね」
淳のすぐ後に、大きなギターケースを抱えて帰ってきた和也が、淳を見守るように微笑む。
そんな和也と、憮然とした充紀を交互に見て、淳はポツリと言った。
「……え、これ方言?」
「今気づいたの?」
「うん」
きょとんとする淳を見て、和也は仕方ないな、とでも言うように、静かに目を細める。
近頃和也はこのように、本来の性格であるという落ち着いた一面を見せることが多くなってきた。しかし、あの騒がしい姿ばかりを見てきた淳はまだ少し慣れず、くすぐったいというか妙な気分になってしまう。
「どうしたの、淳?」
「……何でも、ないよ」
早く慣れないとな、と思いながら、淳は心配そうに見つめてくる和也に向けて曖昧に微笑む。
ちょうどその時、まるでタイミングを計ったかのように、チャイムが軽やかな音を奏でた。
「はぁい」
間延びした声を上げ、和也が出て行く。
「どちら様でしょう」
『あの、初めまして』
女性のたおやかな声が、インターフォンの向こうから聞こえてくる。その瞬間、充紀があからさまに表情をこわばらせたことを、淳は見逃さなかった。
『わたし、今年度より新しくこのアパートの管理人をさせて頂くことになりました、
「あぁ、新しい管理人さんでしたか」
『はい。今、アパートの住人さんたちの部屋を、順番に挨拶回りに尋ねているところでして……』
「それは、わざわざすみません。今開けますね」
淳が「だぁれ?」と小さく問えば、「管理人さんだって。女の人……」と小声で答えながら、和也がチェーンを外す。
「ほら、二人ともおいで。挨拶しとかなくちゃでしょ」
和也の手招きに、淳は恐る恐る、充紀は渋々といったように従った。二人が玄関まで来たのを確認し、和也がドアを開ける。
そこには、二十代後半から三十代前半と思しき女性が立っていた。大きな垂れ目と、左目下の泣きぼくろが特徴的で、全体的にふんわりと優しい雰囲気を纏っている。
野坂浩美と名乗ったその女性は、アパートの一部屋に三人もの男性が揃っているのを見て、珍しそうに首を傾げた。
「あの……この部屋に住んでいらっしゃるのは、三人のうちどの方でしょう?」
どうやら、ここがルームシェア用の部屋であることを知らないらしい。まぁ、管理人とはいえ新しく来たばかりだと言うのだから、仕方ないだろう。
こういう時にいつも率先して口を開くはずの充紀は、何故か気まずげな表情で黙ったままだった。なので代わりに、和也が答える。
「三人とも、住人ですよ。ここはルームシェア用の部屋なので」
「あぁ、そうだったんですか。……ごめんなさい」
ぺこり、と浩美が一礼する。それにつられたかのように和也が、そして和也の動作を真似るように淳が、同じく一礼した。
「まだ来たばかりだったら、仕方ないですよ」
「このアパート、今ルームシェアのキャンペーンやってるらしくて。だから、俺たちの他にも何組か同じようにルームシェアしてる人たちがいるんじゃないですかね」
「そうですか……」
和也と淳が順に説明すると、浩美はさらに申し訳ないというように、眉をハの字にして苦笑した。
「訪問してから五部屋目なんですが、ルームシェアの部屋はここが初めてだったので驚きました。でも、これからまた出ていらっしゃるかもしれないんですね。教えて頂き、ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして。あ、オレ五十嵐和也っていいます」
「百瀬淳です。これからも分かんないことあったら、何でも聞いてください」
二人は一度顔を見合わせると、同時にっこり笑う。ホッとしたように、浩美も笑った。
「ありがとうございます。……あの、よろしければこれ、皆さんで食べてください。お近づきの印ってことで」
「あ、すみません。ありがとうございます」
「お言葉に甘えて、頂きますね」
すっかり安心した様子の浩美と、和也と淳が三人で話している間、充紀は一言も口を開かなかった。まるで気配を消すように、ひっそりとその場に立ち尽くしている。
そんな彼に今気づいたのか、それとも今までわざと気づかない振りをしていたのかは分からないが、そこで和也がようやく充紀へ声を掛けた。
「どうしたの、充紀くん。さっきから一言も喋ってないけど」
「あぁ……みっくん、そういえばおったんやな。全然喋らないから、どっか出掛けちゃったんかと思った」
「さすがにそんなわけないでしょ、淳ちゃん。お客さんいる前で……んで、どうしたの。充紀くん。変だよ、今日」
「いや……」
淳の茶化すような声掛けにも、和也が心配そうに尋ねてくるのにも、充紀はうまく答えられなかった。代わりに視線だけで答えるように、新しい管理人である目の前の女性――浩美に目をやる。
浩美もまた、曖昧な笑みを作りながら、目を伏せた。
「……何でも、」
「篠宮さんとは、実は知り合いなんです」
充紀が何でもない、と答えようとするのを遮るように、ポツリと浩美が言った。え、と二人が目を丸くするのを横目で見つつ、充紀が苦虫を噛み潰したような表情で続ける。
「大学の、後輩だったんだ。……それだけだよ」
充紀の煮え切らない答えからも、彼の言葉を聞いた浩美が浮かべた切なそうな表情からも、明らかに二人の関係性が『それだけ』ではないことがうかがえた。
けれど、あまり詮索しない方がいいのかもしれない。
和也と淳は互いに目配せし合うと、淡い笑みを浮かべながら、納得したようにそれぞれ「そっか」とだけ言ったのだった。
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