無意識の気遣いと本音

「ただいま……ってあれ?」

 いつもより幾分か遅く帰宅した充紀は、ダイニングに辿り着くや否や目を丸くした。

「あ、お帰り充紀くん。今日は遅かったね」

 充紀に気付いた和也が、ニコリといつもより幾分か落ち着いた微笑みを浮かべる。いつも馬鹿みたいに元気な彼が、そんな年相応な反応を見せるだけでも十分おかしなことではあるのだが……。

「晩御飯、あっためるね」

 今日は手早くて簡単だから、ハンバーグにしたんだ~、などと呑気そうに言い、座っていた椅子から立ち上がった和也は、半ば踊るような足取りでキッチンへと向かう。

 ちなみに共同生活を始めてからそろそろ一年が経とうとしているが、食事を作る当番などについては、特に決めたわけではない。しかし三人の中でアパートにいる時間が比較的一番長い和也が、自然とその役目を担いつつあった。本人いわく、「勉強してるわけでも稼ぎ頭なわけでもないから、これくらいはやらないと」ということらしい。

 冷蔵庫から食材を取り出す和也を何とはなしに眺めつつ、その背中に向け、充紀はとりあえず一番大きな疑問点を提示してみた。

「今日、淳は? もう授業終わって帰ってきてるはずだろ?」

「あぁ、いつもならそうだね」

 ラップ掛けした一人分の皿をオーブンレンジに入れ、炊飯器の方へと向かいながら、和也は振り返らずに答える。

「今日は、大学の友達のところに泊まるんだって。ほら、淳って結構人見知りな方じゃん? 最初はちゃんとやれるか不安だ、って本人も言ってたけど……一年も経ちゃ、いい加減慣れるんだろうね。毎日それなりに楽しんでるみたいだよ」

 若いから、順応性も高いんだねぇ。

 ふふっ、と穏やかに笑う彼は、いつもの調子とはまるで違う。大きな子供のような普段と違って、なんだか今日は……。

「お前、お母さんみたい」

「何だよそれ」

 思った通りのことを言ってやれば、しゃもじを片手に振り返った和也はむぅ、と拗ねたように軽く唇を尖らせる。

「淳がオレの子供ってこと? そもそも性別違うじゃん……ってかさ、それじゃあ充紀くんは何になるの。もしかしてお父さん?」

 あ、それ案外的を射てるかもね。

 プッ、と吹き出す和也に、いつものように呆れた視線を投げかけ「アホか」と突っ込みを入れる。ごくいつもの光景のはずだった。

 はずだった、のだが……。

 充紀が一人、何かの違和感を拭い去れずにモヤモヤしていると、チーン! という音が部屋に響いた。どうやら、温めが終わったらしい。先ほどまではあまり意識していなかったが、ひくひくと鼻を動かしてみれば、デミグラスソースのいい香りが漂ってきているのが分かった。腹の虫が、正直に音を上げる。

「はい、どうぞ」

 オーブンレンジから取り出したふっくらとしたハンバーグと、充紀専用の茶碗によそわれた温かいご飯、そして充紀専用であるシックな黒色の長い箸が、それぞれテーブルに置かれる。先ほどからずっと立ち尽くしていた充紀は、そこでようやく椅子を引き、腰を下ろした。

 こうして共同生活を始めるまでは、こんな風に誰かに作ってもらった料理を食べるなんてことは久しくなかった。もちろんそういうことをしてくれるような恋人がいたこともあるが、それもここ数年は御無沙汰というか。

 だから結局、自分で作るしかなかったのだが……。

 少々センチメンタルな気分に浸りつつ、頂きます、と軽く手を合わせ、ハンバーグを一口大に箸で切る。

「ん、美味い」

「よかった」

 正直に感想を言えば、様子を見ていた和也が安堵したように微笑んだ。

「オレも、せっかくだし何かつまむかなぁ」

「腹減ってんの?」

「いや、別に。さっきがっつり食べたし。……あ、そうだ。冷蔵庫の牛乳プリン食べよ」

 淳ちゃんいないから今日は奮発したんだよねぇ~、などと聞かせたいんだか聞かせたくないんだかわからないような独り言を漏らしながら、和也は冷蔵庫を開け、牛乳プリンと付属のスプーンを取り出す。そして充紀が食事しているテーブルまでやってくると、充紀が座っている場所のちょうど向かいの椅子を引き、腰を下ろした。

 ぴぃっ、と音を立てながら蓋を開け、ぷるりとした白いプリンを一口分スプーンですくう。それを口に運ぶまでの間、ずっと和也は無言だった。

 咀嚼しながら、徐々に表情をとろけさせる。

「ん~、美味しい。幸せだぁ」

 幸せそうなおっとりした笑みに、こちらまで表情が緩んでしまう。目を細めながらじっと見ていると、ふと顔を上げた和也と目が合った。

「やだなぁ、あんまり見ないでよ」

 照れているのだろうか、それとも先ほどから箸が止まっている充紀を案じているのだろうか。やっぱりいつもと違う笑い方で、和也は微笑んだ。

「ふぅん……和也って、そっちが素なんだな」

 いつもアホみたいにうるさいのに、とまるで独り言のように言えば、和也がハッとしたような表情をした。どうしたものかというように幾度か目を泳がせた後、充紀の顔を見ていられなかったのか、食べかけの牛乳プリンへ視線を落とす。

 やがてしばしの沈黙の後、ゆっくりと上げられた顔。その表情は、なんとも曖昧な微笑みに満ちていた。それは、充紀の指摘に反論する言葉もなく、まるで観念したかのようでもあった。

 その微笑みに向けて、充紀はぴしり、と指を指す。

「普段俺たちに見せていたキャラも、作ったものだったんだな。素のお前は、さっきから俺の目の前にいる、その物静かな男だ。そうだろう?」

 戸惑いからか、それとも見つけてもらえたことに対する歓喜からか、僅かに開かれた和也の唇がふるり、と小刻みに震えた。

「……よく、わかったね」

「当たり前だ。お前より、何年も長く生きてるんだから」

 ニヤリと笑んでやれば、つられたように頬をほころばせる。

「さすが年長者」

「うっせぇ」

 ふふ、と小さく笑う和也に、何となくホッとした。いつも見ていたような騒がしい彼ではないのだけれど……本当の姿を見ることができて、嬉しかったのかもしれない。

「でもさ」

 ふと、和也が思いついたように言う。これだけは言っておかなくちゃ、という前置きと共に、新たな言葉が紡がれた。

「今回こうやって気を抜いちゃったせいで、充紀くんには見つかっちゃったけど……オレは、これからもあのキャラをやめない。だって充紀くんはともかく、淳なんてオレに輪を掛けて喋らないもん。それに……充紀くんも淳もきっと毎日疲れてるだろうから、ちょっとでも元気になってもらえたらって。……普段ほとんど何もしてないし、オレってそういう奴だから」

「……淳の両親が来た時のこと、覚えてるか」

 充紀の方から言葉を発したのが、意外だったのだろうか。それとも、何故今そんな話を、と思っているのだろうか。和也は目を見開いて、とっさに充紀を見た。

 その丸い目を見据えながら、充紀は真剣な――年長者の厳しささえも孕んだ声色で続ける。

「あの時お前、親に甘えてる淳を見て言ったじゃん。『俺たちにも、あんな風に心を許してくれるようになったらいい』って。……そういうお前はどうなの? お前から淳に素の姿を見せないで、甘えないで、淳が本当の姿を俺たちに見せてくれると思うわけ?」

 和也が寂しそうに目を伏せる。咎められた子供のように、しゅんと落ち込んだのが分かった。

 ……あぁ、その仔犬みたいな雰囲気は、素なんだな。

 目を和ませ、充紀は今度は柔らかな声を出した。

「もちろん、いつもそうしろとは言わない。お前があんな風に元気よくはしゃいでくれるのには、確かに俺も救われてる。淳だって同じだろう。けど、無理してまでそういうキャラを演じるのはさ、違うんじゃないか。黙りたいときだってあるだろ。今みたいに静かに、落ち着いて過ごしたいときだってあるだろ。そういう時は、おとなしくそうしてくれたらいい。ちょっと調子狂うかもしれないけど、俺はちゃんと受け入れるし、淳だって話せばきっと分かってくれる。あいつは案外物分かりのいい奴だから」

「……そうかな」

「そうだよ。だから、お前の好きなようにやれ。けど、無理はするな。俺が言えるのは、それだけだ」

 じゃあ、この話は終わり、な。

 にっこりと満面の笑みを作れば、和也もつられたように微笑む。その目もとは、少し潤んでいるように見えた。

 三人は一緒に暮らしている仲間であり、家族のようなもの。生活を――オフモードの時を共有する関係だからこそ、素をどんどんさらけ出してほしいし、自分だって同じだけのことをしたいと思う。そうして互いのいいところも嫌なところも、少しずつ受け入れていきたいし、受け入れてもらいたい。

 さすがに何もかも、全てをさらけ出すというのは無理かもしれないけれど、それでも自分たちが楽でいられる程度には……。

 明日淳が戻ってきたら、三人で話をしよう。互いに対して言いたいことを、これでもかというくらいみんなで言い合うのだ。

 頬を緩めながら再び牛乳プリンを口にする和也の姿をそれとなしに眺めながら、充紀もまた食べかけの夕食に箸をつけた。

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