もうひとつの家族

 十二月に入り、だんだん寒さも厳しくなってきた、ある昼下がりのこと。

 三人が住むアパートに、来客を知らせるチャイムが明るく鳴り響いた。唯一仕事休みで中にいた充紀が、暖房による眠気でぼぅっとする頭を振りながら、ゆっくりとした足取りで玄関へ向かう。

 まず、覗き穴をそっと覗いてみる。

 ドアの前には、五十代くらいの夫婦と思しき男女の姿があった。充紀には見覚えがないため、恐らく現在ストリートライブに出掛けている和也か、大学に出掛けている淳か、どちらかの知り合いだろうと思う。それでも用心に越したことはないので、開ける前に一応の確認を入れてみることにした。

「どちら様ですか」

 すると、その声に反応したように男女はひそひそと何やら話を始めた。それから、女性の方がおずおずと口を開く。

「あのぉ、ここに百瀬淳って子が住んどるはずなんですがねぇ」

 おっとりと伸びるような語尾と、強い訛りが特徴的な言葉遣いだった。注意深く聞いていなければ、何を言っているか分からなくなってしまいそうなほどだ。しかしこの独特なイントネーション、どっかで聞いたような。

 とりあえず、こちらの動揺を悟られるのはまずいと考えた充紀は、できるだけ穏やかな声を保ちながら答えた。

「淳君は、今大学に行ってます。……あぁ、でももうそろそろ帰ってくる頃だと思うんですけど」

「あら、そうなんけ。……あんた、どうする?」

「確かにこの部屋や言うてたさけぇ、帰ってくるまで待たしてもらおっさ」

「んー、でも迷惑やないかねぇ」

「大丈夫やろ。淳の同居人やで、そんな悪い人やないはずや。えぇ人らやって、淳も言うてたやないか」

「まぁ、せやけどなぁ。とりあえず、いっぺん聞いてみるわ」

 いつの間にやら充紀を置き去りにして始まっていた夫婦――と思しき男女の会話がひと通り終わると、女性がもう一度遠慮がちに尋ねてきた。

「……あのぉ、確か淳の他に二人住んでなるっちゅう風に伺っとるんやけども、今二人ともおんなるんか?」

「いえ。もう一人の方も外出中でして、今ここにいるのは俺だけです」

「ほんなら、ちょお、中で待たしてもうてえぇかの?」

「あ、はい。どうぞ」

 そうして、チェーンを外したちょうどその時だった。

「あれ、言うてたら淳帰ってきたわ」

 男性の方が、不意にそんな声を上げた。直後、バタバタという騒がしい足音と焦ったような淳の声が聞こえてくる。

「ちょお、二人とも何でおんの!? 来るんなら連絡しねって言うたが!!」

 いつも自分たちに話して聞かせているようなものより、さらに強い訛りに満ちた喋り方。それは、男女が話しているものと全く同じだった。

 そうだ。この二人の喋り方についてさっき、どこかで聞いたことがあるイントネーションだと思ったのは、淳の喋り方――彼らよりもずいぶん標準語寄りで、比較的聞き取りやすいものではあるが――とよく似ているからだ。

 では、この二人の男女は……。

 半ば確信に近いものを抱きながら、充紀がドアを開ける。

「みっくん……」

「こんにちは」

 困り果てたような淳の声を聞きながら、充紀はドアの前に立っていた初老の男女もとい一組の夫婦に向け、にっこりと笑んでみせた。

「淳君の、ご両親ですね」


    ◆◆◆


 その後、間もなくして帰宅した和也を交え、アパート内では(約一名を除き)ほのぼのとした会話が繰り広げられていた。

「そっかそっかぁ、淳ちゃんのご両親でしたか。初めまして、オレは五十嵐和也っていいます。淳ちゃんの同居人です。以後、お見知り置きを~」

「いつも淳が言うてる、『和くん』いうのはあんたのことなんやねぇ。よう喋る明るいお兄ちゃんやて、いつも淳に聞いとるんよ」

「そうなんですか~、それは光栄です」

 初対面である淳の両親相手にも、人懐こい笑みを浮かべる和也。さすが、彼の対人スキルの高さは並ではないのだと改めて思い知らされる。

「んで、俺が篠宮充紀です」

「なるほど、あんたが『みっくん』か。やっぱり三人の中で一番年上や言うだけあって、しっかりしとんなるの」

「いえ、それほどでも」

「ホント、それほどでもないんですよ~。お二人とも、聞いてください。充紀くんったらねぇ、虫が大の苦手なんです」

「こら、和也!!」

「あれ、そうなんけ?」

「それやったら一回、うちの田舎来ね。山に近いで、虫なんかその辺ブンブン飛んどるわいな」

「ひっ……」

「あははっ、いいじゃん充紀くん。行ってきなって」

「ぜーったい、やだ!!」

 いつの間にか始まった充紀と和也の応酬を、淳の両親は楽しそうに笑いながら見ている。

「楽しい同居人さんたちやの。見とって安心したわ」

「淳は一人っ子やで、どうしても甘えたがりなんよ。面倒かけるかもしれんけど……というかもうかけとるかもしれんけど、堪忍したってください」

「ちょっと、やめてよ……」

 母親が深々と頭を下げるのを、恥ずかしそうにむぅ、といつもより子供っぽい表情でむくれながら止める淳。何だか微笑ましい気持ちになって、充紀は思わず笑みを零した。

「だいたい、俺がこの時間帯おるかどうかすら把握してないくせして、いきなり抜き打ちみたいな感じで来んといてよ。こっちかて、心の準備っちゅうもんがあるんやでさぁ」

「なぁにが、心の準備や。つい数か月前まで一緒に暮らしてたやないか」

「大体、引越しの日かて『一人じゃないんやで、着いて来んでも大丈夫や』なんて言うて、付き添わせてくれへんかったし。息子がどんなふうに暮らしてるんか、気になるのは親として当然じゃろ」

「もう子供やあらへんのやで、大丈夫や言うてるやろ。それに、電話なら定期的にしとるし。それにもうすぐ年末やで、実家帰るしさぁ……てか第一、夏休みに帰ったばっかりやん」

「けど心配なんよぉ。お前も、そろそろ親が恋しくなってるやろうし」

「そんなことあらへんわ」

「照れんでもいいんやで、淳」

「照れとらん!」

 三人でいる時は――そりゃあ、たまには年上である充紀や和也に甘えてくることもあるけれど――最年少にもかかわらず比較的しっかりしている淳。しかし両親を前にすると、途端に年相応の少年っぽい一面を見せる。一人っ子だと言っていたし、きっとここに来るまでの十八年間、数えきれないくらい彼らに甘え続けてきたのだろう。

 でも、いつかは……。

「いつかは俺たちにもさ、あんな風に心を許してくれるようになったらいいね」

 百瀬家の三人がじゃれ合う姿を眺めていた充紀の隣で、こそっと和也が耳打ちしてきた。全く……今自分が考えていたことと全く同じことを、まるでこちらの考えを見透かしたかのごとくしれっと口に出しやがって。

 それでも、その通りなのだから仕方がない。充紀は和也の方を見ないまま――けれどきっと、和也も充紀と同じく優しい表情をしているのであろう――肯定の言葉を発した。

「そうだな」

 いつか、そうなってくれればいい。

 自分たちには血の繋がりなんてもちろんないし、突如始まったこの生活がいつまで続くかもわからない。幕開けすることになったあの日のように、ある日突然ピリオドを打たれてしまうかもしれないのだ。

 けれど、それでも今は一緒に住んでいるのだから。それだけで自分たちは、『家族』のようなものであると認められるはずだから。

 充紀自身にもまだ、和也たちに決して言えないことがある。

 それでも、いつかは心を開けたら。何もかもを打ち明け合い、一緒に悩み、苦しみ、解決できるような関係性になれたら。

 そしたら、こうやって三人が出会ったこともきっと無駄なことなんかじゃなかったと、あとになって懐かしく振り返れる日が来るに違いない。

 そんな自らのあまりにクサすぎる考えに、我ながら年を取ったものだと充紀は小さく笑った。

「……さて」

 気を取り直すように、充紀はこの部屋にいる人間皆に聞こえるようにはっきりと口を開いた。

「お二人とも、もう今日は遅いですし泊まっていってください」

「えぇんか?」

「えぇっ。部屋あるの?」

「俺の部屋を使ってもらえばいいだろ。まぁ、ちょっと狭いが……」

「みっくんは?」

「俺は、リビングで寝るから」

「そんな、」

「大丈夫、心配するな淳。どうせ明日も仕事だし、リビングにいた方がむしろ効率いいんだよ」

「……」

 それでもなお不満そうに口を尖らせる淳をなだめるようにして、充紀はその頭をポンッと軽く叩いた。

 文句を言おうと口を開いたところで、母親が嬉々として言葉を重ねる。

「ほな、今日はせっかくやで私が料理作ろうかね」

「あ、オレ手伝います」

「おおきになぁ。ほな、ちょっと買い出し行こか」

 和也は腕まくりした淳の母親と共に、のんびりと立ち上がった。それを見て、充紀も淳を促しながら腰を浮かす。

「じゃあ、二人が買い出し行ってる間に、俺らは食器とか準備しようぜ。なぁ、淳」

「……しゃあないなぁ」

 不満そうに、けれど少し嬉しそうに淳が答える。

「じゃあ、行ってくるねぇ」

「「行ってらっしゃーい」」

 和也と淳の母親が出て行った後、充紀は「よっこらせ」と小さく掛け声を上げて立ち上がる。「年寄り」という淳のからかいが聞こえたので、小さく「うっせ」と答えておいた。

 自らも、と立ち上がりかける淳の父親を、やんわりと制す。

「お父さんは、どうかゆっくりなさってください」

「えぇんか、手伝わんで」

「長旅でお疲れでしょう。本当はお母さんにもお休みいただきたかったんですが……」

「あれは、根っからの主婦やでな。動いてる方が楽なんや。あんまり気ぃ使ってもらわんでもえぇよ」

「そうですか?」

「あぁ。久しぶりに、淳に料理作ってやりたいんやろうし」

「そう……ですね。じゃあ、できるだけ俺らも手伝うようにしますんで」

「おぉきんなぁ。何から何まで」

「いいえ。こちらこそ、わざわざご足労いただいてありがとうございます」

 充紀が、淳の父親と代わりばんこに礼をし合っていると、いつの間にやら先にダイニングへ入っていたらしい淳が待ちきれないように声を掛けてきた。

「みっくーん、いつまで話してんの。早よせな、母さんら帰ってくんでぇ」

「はいはい。……じゃあ、ごゆっくりくつろいでってください」

「おぉきんね。ほんなら、お言葉に甘えてゆっくりさせてもらうわ」

「はい」

「みっくん早く!」

「今行く」

 淳に急かされ、バタバタと忙しなくダイニングへ姿を消していく充紀の後姿を、淳の父親は微笑ましそうに見つめていた。


    ◆◆◆


「淳は、いつもこのアパートで楽しゅうやっとるみたいやなぁ。安心したわ」

「今度は、大学の方行ってみようかねぇ」

「もうやめね……」

 翌日の早朝、アパートの玄関先。

 帰り際、両親が楽しそうに顔を見合わせながら語り合うのに、淳は表情を引きつらせながら答えた。どうやら、抜き打ちで訪ねてこられたことが少なからず恥ずかしかったようだ。

「みっくん、和くん、世話になったね」

「いえいえ、何のお構いもできませんで」

「またいらしてくださいね」

 出勤前でスーツに着替えている充紀と、私服に着替えた和也、そして自らの両親がやたらとぺこぺこし合う大人特有の不思議な光景を、淳はしばらく奇妙な気持ちで見つめていた。

 まるで、どちらも自分の家族みたいで……。

 まぁ、両親は言わずもがな血の繋がった家族であるのだが、何故か充紀と和也が並んでいると、もう一人ずつお父さんとお母さんがいるみたいに見えたのだ。

 一緒に暮らし始めてまだ日が浅いはずだし、互いについて知らないことだってまだたくさんあるというのに、不意にこんな感覚が生まれたのは一体どうしてなのだろう。

「――おい、淳」

「えっ、何」

 ぼうっと考え事をしていたせいで、話を聞いていなかったらしい。淳が慌ててそちらを見ると、充紀が呆れたような視線をよこしてきた。傍らの和也も、しょうがないなといったような笑みを浮かべている。

「お父さんとお母さん、駅まで送ってくから」

「淳も一緒に行くだろ? ほら、早く支度しておいで」

 どうやら、和也の運転で両親を駅に送っていったあと、そのまま充紀を会社まで、淳を大学まで送るという話をしていたらしい。不覚にも、まったく聞いていなかった。

 不貞腐れつつ、淳は口を開いた。

「……はぁい」

 両親にするような、子供みたいに甘ったれた返事。それを聞いた両親は、プッと吹き出した。

「これからも、どうかよろしゅう頼みます」

「バシバシ鍛えたってください」

 奥へ引っ込もうとした淳が、思わずといったように顔をしかめる。充紀と和也は互いに顔を見合わせると、少しばかり意地悪な笑みを浮かべながら、元気良くうなずいた。

「「任せてください!」」

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