秋の夜長のひと騒動

 十月中旬、ちょうど秋真っ盛りの頃。

「う、うわ……うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 丑三つ時、とある一室から唐突に聞こえてきた叫び声に、自室で深い眠りについていた和也は驚いて目を覚ました。

「な、何!?」

 ベッドの柵に掛けていたカーディガンを羽織り、慌てて部屋を出る和也。廊下へ足を進めると、同じく叫び声で目を覚ましたらしい淳が、パジャマの袖で眠そうに目を擦りながら隣の部屋から出てきた。

「今の声って……充紀くんだよね」

「んぅ……珍しなぁ。何かあったんやろか」

 寝起きで脳みそがきちんと働いていないからか、いつもより淳の喋り方は訛りがきつく、舌っ足らずだ。そんな彼を可愛らしく思いつつも、そんなことを考えている場合ではないと、和也は未だ夢見心地にぼぅっとしている淳を引き連れ、叫び声の主――この部屋で一番年上である充紀の部屋へと急いで直行した。

 コンコン、とドアを叩く。返事はない。ただ、ドアの向こうから聞こえてくる妙に荒れた呼吸音だけが、中に主がいることを二人に知らせた。

「充紀くん? 入るよ」

 中から鍵がかかっていないのをいいことに、和也は無遠慮にガチャリとドアを開ける。充紀が動揺したように、ヒッ、と小さく声を上げたのが分かった。

 部屋はほんのりと薄暗い。秋の夜長とはいえ、窓の外から漏れる月明かりが部屋の中を淡く照らしているため、真っ暗で何も見えないということは幸いなかった。

 それでも念のため、電気をつける。パチリ、という音に、また充紀は耳聡く反応したようだった。

 直後、目の前に広がった光景に、和也も、そして完全に寝ぼけまなこであったはずの淳も、思わずといったように目を丸くした。

「み、充紀くん……?」

「何、やってんの? みっくん……」

 部屋の主――充紀は、自室奥に鎮座しているベッドの頭に小さくなって身を隠し、ガタガタと震えていた。その視線は怯えたように一点を見つめつつも、時折助けを求めるかのごとく入り口付近に立ち尽くす二人をチラチラと見ている。

 そして、その視線の先にいたのは――……。

「「……ゴキブリ?」」

「馬鹿っ、その名を口にするんじゃない!!」

 まるで二人の呼び声に反応したかのように、カサカサッ、と黒いモノが視界の先を動く。あああああっ、と取り乱した声が、再び充紀の口から零れた。

「は、早く退治してくれ!! 頼むからっ!!」

 普段のしっかりした姿からは想像もできないほどに、すっかり骨の抜けた情けない姿を晒す充紀。まぁ、彼がちょっぴり情けないのは今に始まったことではないが……。

 呆気に取られる和也に対し、ようやく目が覚めたらしい淳は普段通り淡々とした様子で、腕を組みながら「しょうがないなぁ」と呟いた。

「ちょっと待ってて」

 言い残し、部屋を出て行く。

 沈黙が降りる中、改めて充紀を見る。可哀想に、三十二のオッサンがすっかり涙目になってしまっている。

 バレないように小さく溜息を吐くと、和也は茶化すように尋ねた。

「ねぇ。……充紀くんってさ、もしかして虫とか駄目な人?」

 途端、うっ、と息を詰まらせ、気まずそうにおずおずと目を逸らす充紀。

 ……なるほど、図星か。

「ふぅん……これは、いいこと知っちゃったなぁ」

「お前、俺を脅す気かっ」

「別に、脅すつもりはないけどぉ」

 たまには、いいオモチャになってもらってもいいかなぁって。

 ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら近づいてくる和也を、充紀は涙目のままじろりと睨む。が、そこにいつものような威厳もなければ、頼れるお兄さんの姿も全くと言っていいほどない。

 有り体に言えば、まったくもって怖くない。

 そうこうしているうちに、淳が戻ってきた。手には、新聞紙を丸めたものが握られている。「言っとくけどこれ、廃品回収に出すためにまとめようとしてた一週間前の新聞だからね」とどうでもいい脚注をつけ、淳はそのままスタスタと部屋の中に入ってきた。

 ゴキブリ――もとい、例の黒光りする虫は、さっきまでの間にもかさかさと歩行を進め、ちょうど壁を伝っているところだった。退治するまでは安心できないのだろう、充紀はまだガタガタと震えている。

 淳が丸めた新聞紙を振りかぶろうとしたところで、虫は危険を察知したのかいきなり羽を広げた。ぶぅん、と嫌な羽音を立てて飛び立つ。よほど衝撃的だったのか、充紀が「ぐああああああああっ」とまるでダメージを受けた敵キャラみたいな声を上げた。

「みっくん、大げさ」

 淳が思わずといったように小さく笑う。一番年上と年下が一気に逆転したなぁ、と和也はほのぼのと感じていた。まぁ、当人たちにとっては――特に充紀にとっては――そんなことを言っている場合ではないに決まっているのだけれど。

「はいはい、落ち着いて」

 いまだ怯えたように、日本語かどうかも危うい言葉を断続的に口にする充紀に対し、淳は至極落ち着いている。ぶぅん、と羽音を立て、虫は反対側の壁へ止まった。

「次は、必ず仕留めるから」

 そろそろと、虫の止まったところへ足音も立てずに近づいていく淳。

「多分みっくんにとってはかなり厳しい光景になるだろうから、目逸らすかなんかしといたほうがいいよ」

 確かに、これから淳がしようとしていることは、大の虫嫌いらしい充紀にとってはかなり刺激の強い類だろう。

「あ、あぁ」

 充紀は言われた通り、顔を逸らそうとした。その一瞬前に、すぐ傍まで来ていた和也が何の前触れもなく両手を伸ばした。

「っ!?」

 慌てたように暴れる充紀の両目を塞ぎながら、和也は楽しそうに囁く。

「これで、見えないでしょ?」

 悪戯に満ちた声。近所に一人はいたであろう、典型的な悪ガキの姿を思い起こさせる。……あれ、コイツもう二十五だよな?

 親切なのか、単に面白がっているのか。まぁ間違いなく後者であろうが、見なくていいのは確かにありがたい。それでもやはり、念には念を入れておかなければ。

 和也の手に覆われた両目を、充紀はおずおずと閉じた。


 ――パァンッ!!


 鋭い音が響く。充紀の身体が、大げさにビクッ、と震えた。

「おぉ……盛大にやったね、淳ちゃん」

「和くん、これメスだ……」

「あーあ。しかも性質の悪いことに、産卵期……さすがのオレでも、ちょっと気持ち悪いや」

 頭上で繰り広げられる会話を聞きながら、想像してしまったのだろうか。充紀の顔から、徐々に血の気が引いていく。

「まぁ、躊躇してる場合じゃないからさっさと片付けるよ。和くん、もうちょっとの間だけみっくんの目塞いでて」

「りょーかいっ」

 バタバタッ、と足音が遠ざかっていく。少しの間があって、再び同じ足跡が近づいてきた。充紀はさらに、固く目を閉じる。

 そして……。

「もういいよ、和くん。みっくんの拘束解いてあげて」

 心持ち優しげな淳の声とともに、暗かった視界が明るくなった。充紀は恐る恐る、閉じていた目を開ける。

 部屋はもう、いつもの通りになっていた。先ほどまで床や壁を這っていた、あの忌々しい黒い虫の姿は、どこにもない。

 その事実に、充紀はホッと胸をなでおろした。

「それにしても、みっくんに意外な弱点発見だね」

 淳が穏やかに笑う。虫がいた気配を消そうとしてくれているのか、先ほど持って来たらしい部屋用の消臭スプレーを振りまいていた。

「からかいの材料が増えたねっ」

 にしし、と和也が怪しい笑い声を上げる。淳は天使のようなのに、和也はそれとはまるで正反対の、悪魔……いや、デビルマンって言った方がむしろぴったりだろうか?

「さ、寝る準備しよ。これで、みっくんも安心でしょ?」

 やっぱり、淳は優しい子だ。そう、充紀が油断しかけた時……。

「ねぇ。今度三人揃って休みのときは、山へキャンプに行こうね」

 そう言って子供っぽく、無邪気に笑った淳。

「おぉ、それいいね。淳ちゃんナイスアイデア」

 相変わらずの笑みとともに、淳へピースサインを向ける和也。

「……やっぱり、お前ら二人とも悪魔だわ」

「「えぇっ、何で?」」

 揃って首を傾げる二人を、充紀は苦々しげに見つめていた。

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