管理人・浩美の来訪
日曜の昼下がり、のどかな雰囲気を纏ったアパートの空間に、間延びしたチャイムの音が鳴り響く。
「はぁい」
大学が休みでちょうどアパートにいた淳が、ぱたぱたと玄関へ駆けて行った。ドア向こうから聞こえるのんびりとした声に、ふわりと表情を緩める。
『こんにちは、野坂です』
「あ、浩美さんこんにちはー。今開けますね」
がちゃり、と鍵を回し、チェーンを外す。ドアノブを回し開けると、淳より少し背丈の低い、おっとりした雰囲気の女性――管理人の野坂浩美が立っていた。
外は晴れているらしい。差し込む太陽の光が、会釈する浩美の首元――おそらく、身に着けているペンダントのトップであろう――をキラリ、と一瞬照らす。
コンパクトな紙袋から、浩美は煮物の入ったいくつかのパックを取り出した。ニコリと微笑みながら、淳へ差し出す。
「これ、良かったらみんなで分けて食べて。ちょっと、作りすぎちゃったの」
「わぁ、美味しそうですね。いつもありがとうございます」
「いいのよ」
嬉々としながら、淳は玄関のサイドに置かれた棚へとそれを乗せる。そんな彼の様子を見ながら、浩美が尋ねた。
「ところで淳くん、今日は一人?」
「はい。みっくんは仕事だし、和くんも今日は事務所に行くって」
「和也くんは、確かミュージシャンだっけ?」
「そうです。本人いわく、売れる見込みはさっぱりないらしいですけどね」
「ふふ、謙遜ね。わたし、和也くんの歌聴いてみたいわ。普段から良い声をしているから、きっと歌も上手いのよね」
「そうですかね……俺も聞いたことがないので、是非一度聞いてみたいんですが。本人に言っておきますよ。きっと浩美さんになら、喜んで歌ってくれると思いますし」
「あら、そうかしら」
ふふ、と穏やかに笑う浩美には、いつもながら癒される。のんびりと落ち着きたい時にはちょうどいい相手だ。
「……ところで」
ふと、浩美が思い出したようにそう言った。その微妙な表情で、淳は彼女が何を言いたいのかをなんとなく察してしまう。
声を潜め、彼女は続けた。
「みきくん……いえ、充紀さんの風邪は、治った?」
やっぱり、と淳は思う。
充紀が風邪で高熱を出したのは、もう一週間ほど前のこと。時期が悪かったのか妙に治りが遅く、それから二、三日ほど彼は会社を休み寝込んでいた。
今日にはもう既に熱も下がっていたので、医者から処方された薬を飲みつつ、心配性な和也から「あまり無理しちゃダメだからね」と釘を刺され仕事に出て行ったが……。
「あぁ……一週間も経てばもうね、ある程度体調も戻ってきてはおるみたいです。夏風邪は治りが遅いで、まだ薬を飲んで出勤していますけど」
「……そう」
「あの時は、無理言ってすみませんでした。管理人としてのお仕事もあったでしょうに、俺や和くんがどうしても出掛けなあかんかったからって、わざわざみっくんに付き添ってもらって」
「いいのよ」
答える声には、先ほどまでの穏やかさも、少しばかりの覇気もなかった。ふ、とやりきれなさそうに目を伏せ、小さく呟く。
「……あの人が高熱で朦朧としてて、よかったわ」
まともな状態だったら、きっとわたしは拒まれていたでしょうから。
寂しそうな、今にも消え入りそうな声と言葉に、淳は顔をしかめる。事情は知らないが、彼女の捨てられた小犬のような表情を見ていたら、胸がきゅっと引き絞られるように痛んだ。
まるで、彼女の気持ちが心に流れ込んでくるようで……。
「……拒みはしないはずです、なんて簡単なことは言えません。俺にも和くんにも、みっくんが抱えているものが何なのか、分かりませんから」
彼は、教えてくれませんでしたから。
――決して踏み込んではいけないし、踏み込ませてもくれない、充紀の封じられた過去と内面。
それでも、淳には……そしておそらく和也にも、何となくであるが分かっていた。充紀が今でも抱え続ける苦悩の理由が、この女性に――浩美に、あるのだということを。
「みきくんは、言ってないのね……」
聞こえるか聞こえないかくらいの、か細い声。しかし先ほどから彼女の言葉に注意深く耳を傾けていた淳には、しっかりと聞こえていた。
「みっくんは、少しもそのことに触れません。俺たちも、無理に聞こうだなんて思ってはいません。……それでも、もしいつかみっくんが話してくれる日が来たら、その時は余すところなく全てを聞くつもりでいます。その覚悟は、出来ているつもりです」
「……」
「だから、あなたにも今は何も聞きません。あなたは、みっくんの……篠宮充紀と旧知の仲であると、ただそれだけやと俺は解釈します。その奥にどんな過去や想いを抱えているかなんて、詮索するつもりはありません」
――だけど、
不意に声のトーンを落とすと、浩美の細い肩がびくり、と震えた。淳を見上げる瞳は、まるで自らの犯した罪を懺悔するかのように揺れ、どこか怯えるような光を放っていた。
その微かに潤んだ、色素の薄い瞳を見据え、淳は続ける。
「一つだけ、浩美さんに知っていてほしいことがあります」
「……な、に」
「充紀くんが、ちょうど熱で朦朧としていた時のことです」
不意に浩美の後ろから、淳以外の声がして、浩美は身体をこわばらせた。恐る恐るというように振り向き、驚いたように口を開く。
「和也くん……」
「和くん、お帰り」
淳が声を掛けると、声の主――和也はいつもの人懐っこい笑みではなく、落ち着き払った真面目な表情を浮かべ、淳に向けてこくりとうなずいてみせた。
浩美とドアの間をすり抜けアパートへ足を踏み入れると、和也は持っていたギターケースと鞄をフローリングに置く。そして玄関のちょうど段差になっているところに腰を下ろし、立ち尽くす浩美を見上げた。
淳もまた、立ったままの状態で浩美を見る。浩美はただ身を縮こまらせ、耐えるようにうつむいていた。
「充紀くんは、うなされていました。……まるで悪い夢に翻弄されているみたいに、異常な汗をかきながら、布団をぐちゃぐちゃにして、何度も首を横に振ってて」
「俺たちが、何でそのことに気付いたか分かりますか?」
二人の追及に、なおも浩美は答えない。そのかたくなな態度から、どうしても言いたくないことであるということは嫌というほど伝わった。
それでも、このことだけは……どうしても、浩美に伝えておきたい。和也と淳の気持ちは、今や完全に一致していた。
「……寝言が、聞こえたんです。苦しげな、みっくんの寝言」
「『浩美、浩美』……って、何度も呼んでました」
えっ、と意外そうに掠れた声を上げながら、浩美がばっと顔を上げる。無意識に噛みしめていたのか、小刻みに震える彼女の唇の色は、先ほどよりいくらか悪くなっていた。
和也が浩美を見上げながら、一つうなずいてみせる。
「それでオレ達はすぐ充紀くんの異変に気づいて、早めに看病を始めることが出来たんです」
「そう、だったの」
驚愕と戸惑い、そして絶望。彼女の声と表情からは、そのようなものが明らかに見て取れた。
す、と目を逸らし、淳が感情を抑え込むように淡々と呟く。
「……少なくともみっくんにとって、浩美さんはそれほどまでに大切な存在なんやと思います。大学時代からのお知り合いとのことですから、その頃からずっと、あなたを忘れていなかったんじゃないでしょうか」
無意識に、あなたを焦がれるくらい必要としてしまうほどに。
淳の言葉に反応した浩美は、おもむろに自らの手を眺めた。見つめる瞳は恐ろしいほどに空っぽで、ほとんど感情が読み取れない。何かを掴むかのようにぎゅっと握りしめ、胸の辺りに宛がう。
ひっそりと、けれど確かに、浩美は言った。
「それでも……みきくんは、わたしを許してくれないわ」
わたしは、あの人を裏切った過去のわたし自身を、今でも許すことが出来ずにいるのだから。
――ならば許してあげればいい、と淳は思った。
彼女自身が、かつて充紀のことを裏切ったという自分を許すことが出来れば、充紀もまた同じように歩み寄ってくれるのではないか、と。
けれどそれを口にするには、あまりに何も知らなさすぎた。軽率すぎる言葉だと、淳は知っていた。
そんな淳の内心を慮るように、和也がそっと口を開く。
「……変なこと言って、すみませんでした」
「いいえ、二人は何も悪くないわ。そもそもみきくんの話を最初に持ち出したのは、わたしの方だから」
きっと浩美にとっても、充紀の存在は大きいのだろう。無意識に彼を気遣うようなことを言って、むしろ墓穴を掘ってしまうほどに。
今はまだ、踏み込んだ話をすることを二人が望んでいないから、それ以上を聞くことはできないけれど。
「……今日は、もう失礼するわ」
「はい。煮物、ありがとうございました。夜にでも、みんなで頂きますね」
淳の言葉に力なく笑みを零すと、浩美は一礼し部屋を後にした。
ぱたり、とドアが閉じられると、しばしの沈黙が二人を包む。
重苦しい空気を最初に打ち破ったのは、やはり和也の方だった。よっ、とわざと大げさに掛け声を上げて立ち上がり、笑顔で淳の方を見る。
「さて、まだ夕飯には早い時間かなぁ」
「うん、そうやね。浩美さんに煮物もらったから、支度も今日はあんまりしなくていいし」
気を取り直したように、淳も笑みを浮かべ彼に答える。
「充紀くん、今日は何時になるかなぁ」
「後で連絡入れとこっさ」
靴を脱ぎ、二人揃って部屋へ入ると、淳はモヤモヤした空気を払拭するように、ダイニングの窓を開けた。
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