恋人だった彼との話

 さぁっ……と心地よい風が吹き、周りの草葉を揺らす。

「んーっ……気持ちいいな」

 独り言を呟きながら、和也は近場の石垣に腰かけ、抱えていたギターケースを下ろした。

 今日はいつもストリートライブを行っている街中とは違う、人気のない場所で歌の練習をしようと思いついた。人に聴いてもらうためには、こういった一人きりで自らを見つめ直す時間も必要なのだ。

 今の時間帯、同居人である充紀も淳もそれぞれ会社や大学に出掛けているので、アパートには誰もいない。けれど公共住宅であるということもあり、部屋でギターをかき鳴らすなどという非常識な真似は決して出来たものではなかった。

 それをやったら、またアパートを追い出されてしまう。

 これまでの青すぎた経験の数々を思い出し、和也は思わずといったように一人苦笑いを浮かべた。

「さて……いっちょ、やりますか」

 愛用のギターを取り出しつつ、コホン、と一つ咳払い。

 誰もいない場所で思う存分、あー、とかんー、とか、声を出したりハミングを奏でたりしてみる。喉を開くための、軽いストレッチのようなものだ。

 スタジオなどのように密室で声を出しているわけではないから、その声は反響しないまま広い空間に染みわたり、消えていくだけだ。そのことに一抹の寂しさと、同時に広い空間で歌うことの爽快感を覚える。

 ギターに手を掛け、和音を一つ鳴らした。トン、トン、トン、とギターを叩いてリズムを刻む。自分だけが分かる、歌い始めの合図だ。

 ストリート出身である、尊敬すべき男性シンガーソングライター・デュオのバラード曲を頭に思い浮かべながら、和也はすぅ、と息を吸った。

 ……と、ちょうどその時。

「和也くん?」

 聞き覚えのある、柔らかな声がした。ギターに向けていた顔を上げ、そちらを見る。驚いたような顔で自分を見下ろしている、よく知った女性の顔を見て、和也は思わず声を張り上げてしまった。

「浩美さん!」

 ふんわりとした白いブラウスと、クリーム色のロングスカートを身に纏った、穏やかそうな見た目の女性――アパートの管理人である野坂浩美は「やっぱり和也くんだった」と言って、花開くようにひっそりと微笑んだ。軽く首を傾げた拍子にふわり、と柔らかな髪が揺れて左右に広がり、首元でアクセサリーがきらりと光る。

 あたたかな雰囲気を纏った、聖女のような優しい笑顔に、心がほどけていく。和也が自然と零れた笑みのままで「こんにちは」と頭を下げると、彼女もまた笑顔を浮かべたまま「こんにちは」と柔らかに返してくれた。

「声と、ギターの音が聞こえたから、もしかしてと思ったのだけれど。……歌いに来たの?」

「えぇ、まぁ……」

 完全に一人きりだと思っていたので、このような気の抜けた姿を見られていたことに対して、今更ながら恥ずかしさを覚えてしまった。ほんのり染まる頬をごまかすように、苦笑を浮かべる。

 浩美は見守るような優しい笑みを浮かべながら、ゆったりとした動作で和也の隣に腰かけた。

「わたしね、一度和也くんの歌を聴いてみたいなって思っていたの。淳くんにも、この前会った時に話したんだけどね……」

 さざ波のごとく語りかけてくる、彼女の横顔を見つめる。

 薄い唇から零れる、包み込むような声で紡がれるのは、淳と会って話をした時のことや、アパートで暮らす他の住人さんとの面白いエピソードなど、多岐にわたる。どうやら、彼女も少しずつ管理人としての生活に慣れてきているようだ。

 そんな他愛ない話に、和也はしばらくの間一つ一つ相槌を打っていたが……顔を合わせた瞬間から心にわだかまっていた疑問を解消するべく、話の切れ間を狙い、思い切って問うてみた。

「あの、そういえば浩美さんは、どうしてここに?」

 この名もなき場所の存在を知る者は、数少ないと思っていた。実際、ここで誰か他の人と顔を合わせたことはほとんどない。だからこそ、和也はこの場所が自分だけの秘密基地のようなものだと感じていて、一人になりたい時には毎回選んでいたというのに。

 浩美がこの場所を知っていて、当たり前のように訪れていたことに、和也は心底驚いていた。そりゃあ、和也のようにたまたまふらりと迷い込んで、一目で気に入ったとか……この街に長く住んでいる人間なら、あり得るかもしれないが。

 でもまぁ、きっと浩美も自分と同じような経緯をたどった結果、この場所を見出したのだろう――そう、安易に納得しかけたちょうどその時。

 ふ、と彼女の瞳が寂しげに翳った。長い睫毛が影になって、余計に表情を暗く見せる。

「……ここは、思い出の場所なの」

 多くを語らずとも、和也にはそれだけでわかってしまう。彼女の語る『思い出』というのが、一体何を指すのか。

 過ごした日々のことを、暗示しているのか。

 消え入るような声で、まるで教会の神父へ自らの罪を告白し、懺悔するかのごとく、浩美は続ける。

「ここは、あの人が……初めて、連れてきてくれた場所。俺のお気に入りの場所なんだって、二人だけの秘密だよって。あの人は声を潜めて、わたしにそう耳打ちしてくれた」

 郷愁を帯びた、途切れ途切れの声。そっと耳を澄ませていると、まるで知らないはずの当時の二人の姿が、この美しい場所に薄ぼんやりと浮かび上がってくるようだった。

 そうか。彼は――充紀は、自分が見つけるよりずっと昔に、この場所を見出し気に入っていたのだ。

 それで、浩美にも教えたのだろう。大切な人と共有したいと思うほど、そこは彼にとって特別な場所だったから。

 青い空に溶けていきそうなほどにか細く、心もとない声は、ほんの少しずつ――けれど確かに、淡く甘く、切ない響きを漂わせ始める。

「初めて、想いが通じ合ったあの日。あの……ここからでも、見えるでしょう。景色を広く見渡せる、綺麗な丸い丘」

 細く白い指が、小さく震えながら指差す。自分たちがいる場所よりも少し遠くに位置するそこは、彼女の言う通り、小高い丘になっていた。展望台のような白い手すりが、青空に眩しく映える。

「そう……あのくすんだ、白いペンキの塗られた手すり。当時はまだ真新しかったそこに、わたしは軽く腰掛けた」

 そうしたら、わたしのすぐ傍らに、あの人が手をついて。長くてごつごつした、頼りがいのある大きな手が、白い手すりを掴んで。

 あの人の顔が、わたしの方へとゆっくり近づいてきて。

「わたしたちは――……あの場所で初めて、キスをしたの」

 その瞬間はとってもあたたかくて、柔らかくて、神聖で。まるでわたしたちの間だけ、時がぴたりと止まってしまったみたいで。

「その空間だけを、大きなハサミで丁寧に切り取ってね……きらきらした素敵なものばかりを詰め込んだ宝箱の中に、丸ごと閉じ込めておきたかったくらい」

 それくらい、大切なひとときだった。

「こうなってしまった今となっては、思い出すとやっぱり切なくて苦しくて、辛いわ。でも……忘れようとしても、どうしてもあのあたたかで神聖だった、唯一のひとときが忘れられなくて。だから……今でもたまに、こうして一人でここに来て、思い出に浸るのよ」

 あの人にとっては――……迷惑極まりないことだって、そんなことは十分すぎるくらい分かっているけれど。

「……だったら、どうして」

「え?」

 それまでずっと黙ったまま、浩美の独白をひっそりと聞いていた和也が、不意にポツリと呟いた。浩美は顔を上げ、困惑したような、驚いたような表情で和也を見る。

 和也は浩美を見ることなく、視線をまっすぐ前に向けたまま、悲痛を帯びたような声で続けた。

「どうして、あの人を――……充紀くんを、裏切るようなことをしたんですか」

 浩美が充紀に対して何をしたのか、和也はもちろん知らない。

 それでも、これまでの充紀の言動(発熱時の寝言も含む)や、浩美の罪悪感に満ちた悲しげな表情を繰り返し見つめ続けてきたから、なんとなく漠然とはわかる気がする。

 きっと、浩美は充紀から離れたのだ。

 互いに互いを必要としていたのに、焦がれるほど大切に想い合っていたのに、それでも彼女の方は、充紀から離れることを選んだ。

 それが『裏切り』だと二人は互いに思い込んでいて……今でも癒えることのない深い心の傷、あるいは胸にぽっかりと大きく空いた穴となって、二人を苦しめている。

「あなたは前に、『みきくんは許してくれない』とオレたちに対して言いましたね。どうして、そう思うんですか」

「……わたしが過去に、あの人を裏切ったからよ」

「裏切ったという事実を、充紀くんは怒っていると?」

「……」

 無言でうなずく浩美。

「違いますよ」

 和也は浩美の方を振り向くと、きっぱり言い切った。弱々しく光る瞳が和也を捕らえ、戸惑うように小さく揺れる。

 和也は浩美の傍らに、彼女を見つめながら悲しげな表情で立ち尽くす充紀の姿を思い描きながら、一切語られたことのない充紀の内心を慮るような口調で、諭すように言った。

 自分が充紀なら、こう思うだろうということを。

「充紀くんは、あなたが裏切ったという事実を責めたいんじゃない。ただ……単純に、知りたいだけなんじゃないですか。あなたがかつて充紀くんを裏切った、その真意を。どうして、どんな思いで……あなたが充紀くんから離れて行ったのかを。ただ、知りたいだけなんだと思います」

 それを彼が知って、互いに誤解が解ければ……二人とも、今の苦しみから救われるのではないだろうか?

「いつか、充紀くんに語って聞かせてあげてください。あなたの本心を、包み隠さず、全て。それを、充紀くんは何より望んでいると思います」

 今すぐに、とは言わなかった。

 きっと浩美は、そういうことについて――自分の中にあるデリケートな部分について、語るのが苦手なのだろう。

 案の定、それだけはできないとでも言うように、あからさまに目を伏せる。

「……なんてね!」

 そんな浩美を鼓舞するように、和也はトーンを変えて明るく声を弾ませた。びっくりしたように肩を跳ね上げる浩美に、とびきりの笑顔を見せる。

「せっかくですから、歌聴いていきません? さっき聴いてみたいって、言ってくれたじゃないですか」

「え、えぇ」

「オレも、やっぱ観客がいる方がテンション上がりますからね。よーし、思いっきり歌いますよぉ」

「楽しみだわ」

 浩美は突然の変化に戸惑いつつも、ぱちぱち、と控えめな拍手を送ってくれる。その音に後押しされるように、和也はもう一度ギターに手を掛けた。

 もし、彼女が迷っているなら。充紀に対する罪悪感に苦しむ自分から解き放たれたいと、少しでも思っているなら。

 まだ、可能性はあるはずだ。

 目の前で自分の歌を楽しみに待ってくれている女性と、今ごろ仕事中であろう同居人の男性。

 二人が過去から救われることを、心の底から願いながら、和也はギターをトン、トン、トン、と三回叩き、澄んだ空気を吸った。

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