したたかな女の弱み
大学の授業を終えた後、そのまま友人たちと遊びに出掛けていた淳は、いつもより遅い時間にアパートへと戻ってきた。いつもより薄暗い闇に包まれた外階段を、カン、カン、カン、と音を立てながら上っていく。
ちょうど二階に辿り着こうとしたところで、踊り場のところに誰かがうずくまっているような影を見つけた。不審に思い目をやると、何故か小さく震えている。
今の距離からはよく見えないので、もう少し近づいてみる。カン、カン、カン……と辺りに響く淳の足音に気付いたのか、それは顔を上げるようにゆらり、と僅かにうごめいた。
視界がゆっくりと開け、涙に濡れた大きな垂れがちの双眼とぶつかる。一般的に泣きぼくろと呼ばれる、左目もとの大きなほくろに、一粒の滴がポロリと零れ落ちた。
首元のペンダントを握りしめ、苦しげな表情を浮かべながら座り込んでいるその人の名を、淳は驚きでいっぱいの声で呼んだ。
「浩美さん……?」
◆◆◆
「ただいまー」
間延びしたような声と共に、ガチャリとドアが開く。
珍しく二人で夕飯の準備をしていた充紀と和也は、お帰りと声を掛けようとして振り向くなり、そちらを見て目を丸くした。
淳は、うつむいてがたがたと震えている誰かの肩を抱くようにして、支えながら歩いてきた。ふわりと柔らかそうな長い髪が、女性と思しきその人の顔を隠している。
けれど充紀にも和也にも、その人が誰であるかはすぐに分かった。
目の前の光景に立ちすくんだまま動けない充紀を置いて、和也は反射的に身体を動かした。二人の方へ駆け寄ると、どうしたの? と尋ねたい衝動をぐっとこらえ、ダイニングの椅子を一つ引く。
「座ってください」
静かに、厳かに告げた和也に従うように、淳はその人を――先ほど階段の踊り場でうずくまっていた浩美を、いたわるようにしてそっと座らせた。
浩美は先ほどからずっと――淳が自分たちのアパートまで彼女を連れてくる間にも、ごめんなさい、とうわ言のように繰り返していた。
悲痛を帯びたその声は、ひどく衰弱しきっていた。儚く優しそうなイメージとは裏腹の、とても強くしたたかな内面を持つ普段の彼女からは、まるで想像もできない。
握りしめた白い手に、ぽたり、と滴が落ちる。泣いているのだ。
付き合いの浅い和也や淳はもちろんだが、大学時代から知っているはずの充紀も、彼女がこんなにも弱り切った様子で涙を流しているところを見るのは初めてであるようで、ただただ困惑していた。
彼女の斜向かいに座った充紀は、先ほどから何か言いたげに何度か口を動かそうとしている。けれど、自分が声を掛けてはいけないような気がしているのだろうか。それらは一つも声になることはなく、充紀の喉奥へ苦みと共に渋々呑みこまれたのがわかった。
浩美の隣に座った、彼女より人生経験の浅い淳も、何と声を掛けてよいか迷っているようで、ただ黙ったまま心配そうに彼女を見ている。時折震える彼女の肩を、励ますようにポンポン、と叩いている。
そして、浩美の向かいに座った和也は、話の口火を切るべきかを未だに迷っていた。こういう時には大抵充紀が最初に話し始めるのだが、この様子では放っておいても決して話し出そうとはしないだろう。
今までの経験上、聞いたところで言葉を濁されるのがオチだと、なんとなく分かっている。
前に二人で会った時も、彼女は充紀との思い出を語っただけで、核心については一切触れようとしなかった。話をすることを、意図的に避けているようでもあった。
けれど、このままずっと黙っていたところで、彼女は口を開かぬまま静かに泣いているだけだろう。
やはり、多少無理矢理にでも、こちらから聞くしかないのだろうか。
そう思い、和也が口を開こうとしたまさにその時――……。
「……みきくん」
縋るような涙声で、浩美が呟いた。彼女に名を呼ばれた相手――不安げに彼女をちらちらと見ていた充紀は、ハッとしたように視線を彼女へ固定させる。
ふぅ、と落ち着くように息を一つ吐いて、浩美は一息でこう言った。
「みきくんは……あの時わたしと離れてから、しあわせになれた?」
充紀が、複雑そうに表情を歪める。
浩美はそんな充紀の方をなおも気丈に見つめようとしているようだったが、瞳は彼女の意志とは裏腹に、迷うように弱々しく揺れていた。
「わたしはあの時、みきくんのしあわせのために離れたのよ。わたしがいたら、みきくんはしあわせになれないって、そう信じてたから。だから、何が何でもしあわせになっていて欲しかった。しあわせで、あって欲しかったのよ。ねぇ、どうなの? みきくんは、この十年間、しあわせだった?」
懇願するような声に、充紀は答えることなく、ただ寂しそうに目を伏せた。
否定だと、分かったのだろう。浩美はますます泣きそうな声で、混乱したように早口でまくし立てた。
「だったらねぇ、わたしは、どうしたらいい? どうしたら、みきくんはしあわせになってくれる? しあわせだと、思ってくれる? みきくんがそれを教えてくれなくちゃ、わたしは一生しあわせになれないわ。みきくんを裏切ったわたしは、しあわせになっちゃいけない。だから」
「俺は」
隣にいた淳が、取り乱した浩美をなだめようと手を伸ばしたところで、それまでずっと黙っていた充紀が不意に言葉を発した。重苦しかった空気が、一瞬でピリッと張りつめたものに変わる。
怒りも、悲しみも、辛さも。何も感じさせない、淡々とした表情と声で、充紀は続けた。
「俺はあの時確かに、十分すぎるくらい幸せだったよ。浩美が、傍にいてくれたから。……お前さえいてくれたら、何気ないささやかな日々でさえ、俺には幸せに思えた」
浩美が、小さく目を見開く。
「あの日……俺は、就職が決まったことを、お前に真っ先に報告しようと思っていたんだ。そうしたら、すぐには無理だけれど、お前が大学を卒業したら一緒に暮らして……結婚したいとまで、考えていた。それまでは、一生懸命働いて、お金を貯めようって」
――でも、それは叶わなかった。
寂しげに告げられた言葉に、浩美が罪悪感でいっぱいの顔をする。それでもやはり、充紀が彼女を恨んでいるようにも、憎んでいるようにも見えなかった。
ただ、自分が胸にしている事実だけを、淡々と口にする。
「俺はただ、お前から直接聞きたかったんだ。お前が、どうしていきなり俺に黙っていなくなってしまったのか。俺のことが嫌いになったのか、それとも他に好きな人ができたのか。そうでなくて、他に理由があるのなら、それは何なのか。ちゃんと、説明が欲しかった」
それはかつて、和也が浩美に言ったこととほぼ同じだった。あの時は和也が、自分が充紀ならこう思う……と意見を述べたまでだったけれど、その推測はあながち外れていなかったということだ。
浩美も、その時のことを思い出したのだろう。向かいに座っている和也の方を一瞬だけちらりと見て、まるで反省するかのように深々とうつむいた。
これまでずっと心に溜め続けてきたのであろう、充紀の独白は続く。
「……もし、せめてお前からの説明があったら。俺はここまでお前のことを忘れられないまま、複雑な思いを抱き続けることもなかったと思う。純粋な気持ちのまま、お前と過ごした日々を、あたたかくてほろ苦い想い出として心のフィルムへとしまっておけたはずだった」
浩美はうつむいたまま、微動だにしない。まるで、親に怒鳴られるのを今か今かと待っている子供のようだ。
「浩美」
彼女の名を、充紀が呼ぶ。その声にはいたわるような、慈しむような、どこか聴いていて安らげるような一種の優しさがあった。
浩美が、ぴくり、と反応する。
それで彼女が自分の話を聞いてくれていると受け取った充紀は、染みわたるような優しさに満ちた声のままで、柔らかく言った。
「お前はさっき、俺に『しあわせになってほしかった』って言ったよな。そのために、あの時離れたんだって」
うつむいたまま、浩美が小さくうなずく。
充紀は気を悪くした様子もなく、囁くように問いかけた。
「それは、どうして? 何でお前が俺の傍から離れたら、俺がしあわせになれるって、思ったんだ?」
「そ、れは……」
浩美が、妙に歯切れ悪く言いよどむ。その間誰も口を挟むことをしなかったので、浩美が再び話し出すまでの間、沈黙が辺りを包んだ。
やがて意を決したような、真剣みを帯びた声で、浩美が一言ポツリと告げる。
「わたしは……あなたのことが、本当に好きだった。だからこそ、離れなくちゃいけなかったの」
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