あの頃にはもう、戻れないけど
「あなたの就職が決まったと、人づてに聞いたあの日」
きっと、浩美が充紀を裏切ったという日――彼女が充紀の傍から、突然離れて行った日のことを言っているのだろう。
当時のことを思い出してか、充紀の表情が僅かに歪む。
「わたしは、まずあなたがわたしのことをどう考えているのかが気になった。卒業を機に、別れることになるのか。それとも、卒業後も変わらずわたしを隣に置いてくれるのか」
直接聞いてみればいいものを、直接的な言葉を面と向かって告げられてしまったらと思うと、どうしてもできなかった。
「それから、あなたがどういう会社に就職することになったのかを、同じく就活をしていたというあなたのお友達から……サークルの先輩から、聞いたわ。転勤が多い会社で、しかも人一倍忙しい営業の仕事だっていうじゃない」
充紀が今も同じ会社で続けている、営業の仕事。
確かに忙しそうで、このアパートで誰より家を空けることが多いけれど、それでも……疲れたと幾度も口にしながらも、毎日それなりに充実しているのだということは、傍から見ている和也や淳にもよくわかる。
浩美は、そんな今の充紀を見て、どう思っているのだろうか。
彼の姿を、どう受け止めているのだろうか。
「そうしたら」
心持ち口早に、浩美は言葉を紡ぐ。
「そんな境遇に置かれたあなたは、当然仕事三昧の日々を送ることになる。いくら望むことではなかったとしても、そうならざるを得ないでしょう。そうしたら……仮に卒業後もわたしを傍に置いていてくれたとしても、あなたはきっといずれ、わたしのことを忘れてしまう。あなたの心が、わたしからいともたやすく離れていってしまう」
そうなることが……怖かった、の。
それはおそらく、充紀も初めて聞くであろう内容。
浩美が当時から一人きりで悩み苦しみ、それでも決して偽ることのできない、本心だった。
「その前に、わたしからあなたに、さよならを告げようと思った。そうしたら、みきくんはわたしという存在に囚われることなく、心置きなく就職後もやっていけると思ったから。だから……あなたの部屋から、わたしが残していた痕跡を全部消して。わたしという存在を、全てなかったことにして。そうして、徐々にわたしはあなたの人生から、フェードアウトしていくつもりだったの」
「それが、むしろ俺を傷つけることになるとも知らないで?」
挟まれた充紀の言葉は、一見当時の彼女を責めるようなものとも取れた。しかしむしろ、それは充紀自身に対するあざけりのようなものだったのかもしれない。
彼女の本心に気付けなかったばかりか、あまつさえ彼女一人に苦悩を溜めこませていたという、自分の不甲斐なさ。恋人であったはずなのに、当時の自分はどうして、彼女を追い詰めるようなことしかできなかったのだろう。
あの日から自分は、ただ深く傷ついただけで。彼女の本心を、知りたいと願い続けていただけで。過去に囚われたまま、自分からは何一つ行動しようとしなかった。
彼女を心から思っていたのであれば、逃げる彼女を無理にでも問い詰めて、その本心を吐かせてあげればよかったのに。
そうすれば、こんなにもこじれることはなかったかもしれないのに。
「……ごめんな」
充紀が一言謝れば、浩美は勢いよく顔を上げた。まるで心外だとでも言うように、幾度も首を横に振る。
「謝るのは、わたしのほうだわ。みきくんは、何にも悪くないのに」
「それでも……あの時俺は、お前に手をさしのべてやるべきだった」
俺にはお前から、本心を引き出す義務があった。
「俺だって……お前に、幸せになって欲しかったんだ」
今みたいに不用意なことで苦しまないで、前だけを見つめて自分の人生を全うしてほしかった。
こうやって、浩美が自分の顔を見るたびに苦しそうな表情を浮かべて、もはや聞き飽きたくらいの言葉を――『ごめんなさい』という懺悔の言葉を、投げかけられ続けるのは、もう嫌だった。
「お前はさっき、俺がどうしたら幸せになれるか、って聞いたな」
浩美が、恐ろしげに肩をすくめる。彼が幸せになるにはどうしたらいいのか――それはきっと単純なことのはずなのに、彼女には何一つ分からないままなのだ。
だったら教えてやると言わんばかりに、充紀はきっぱりと宣言した。
「お前がまず、幸せになることだよ。浩美」
先ほどから彼女が――おそらく無意識であろうが――手を這わせている、首元へ目をやる。そこでは、彼女がいつも身に着けているアクセサリーが、蛍光灯の光を受けてキラキラと光っていた。
「それ」
充紀の視線に気づいた浩美が、慌てたように手を引っ込めようとする。そうさせまいというように、充紀が続けた。
「堂々と、つけてやれよ。そうやってさ、隠すみたいにして首に引っ掛けてないで、さ」
「……みっくん」
「それが何なのか、分かってるの?」
淳と和也がそれぞれ、充紀の顔色を窺うようにして覗きこみ、恐る恐る尋ねる。どうやら二人とも、彼女が首元に秘めているものが何なのか、気付いているらしい。どちらももともと目敏い性質なので、当然といえば当然なのかもしれないが。
「ん?」
充紀は何も気にしていないかのように、しれっと言い放った。
「婚約指輪だろ、それ」
違うのか? と至極不思議そうに首を傾げる。
浩美が胸の辺りで握りこぶしを作り、気まずげに唇を噛む。和也と淳は思わず顔を見合わせ、あちゃー、とでも言いたげな表情を浮かべた。
「だからさぁ」
何度も言わせないでくれよ、と呆れたように呟いたあと、充紀は浩美の目をしっかり見据え、力強く言った。
「お前は、俺のことなんてもう気にしないでいいの。……今はそいつのこと、愛してんだろ? だったら、何を迷うことがあるっていうんだ」
気持ちのままにまっすぐ、その胸に飛び込んでいったらいいじゃないか。
まさか、かつて男女の関係があった相手に、恋愛指南をするなんて……と、傍から見ていた和也と淳は唖然とした。何の疑問も持っている様子のない、心の底からあっけらかんとした様子が、さらに奇妙だ。
十年越しに、浩美が本心を打ち明けてくれたことで、充紀の心に宿っていたしこりはあっさり取れてしまったのだろうか。
大人の世界は案外あっけないものなんだろうか、と淳は不思議に思う。
充紀くらい人生経験を積むと、些細なことで何でも許せるようになるのだろうか、と和也は感心する。
当の浩美もまた、ぽかんとしたように充紀を見ていた。
「……いいの?」
しあわせになっても、いいの?
開かれた唇から零れたのは、至極単純な問い。
何を言っているんだ、とでも言いたげな表情で、充紀はうなずいた。
「当然だろ」
刹那、泣き腫らして赤くなっていた浩美の目から、再び涙が零れ落ちた。今度は悲しみや苦しみからくるものではなくて、嬉しさや感謝の気持ちからくる、優しい涙。
胸元でさまよっていた左手が、首元のアクセサリーを――いま彼女が運命を誓っているであろう相手の、贈り物である指輪をぎゅっと握りしめた。
「わたし……」
嗚咽に混じって、言葉が零れる。
「わたし、ずっと迷っていたの。あの人と、交際することを決めたのはわたしだし、わたしを慈しんでくれる、優しいあの人を、愛しているのも本当。できることなら、プロポーズされた時も、その場ですぐに、はいって即答したかった。だけど、みきくんが……許してくれない、気がして。あの人は、いつまでも待つって、言ってくれたけど。でも、今日みきくんの、言葉を聞かなかったら。わたし……一人でしあわせになろうとしている、わたし自身を、一生許せなかった」
「馬鹿か、お前」
フッ、と充紀が笑う。あたたかさと、慈しみに満ちた、とても柔らかく穏やかな笑みだった。
「手、出して」
言われた通り、浩美がテーブルの上に右手を差し出す。それに自らの一回り大きな手を覆うように重ねて、充紀は囁くように言った。
「お前は、幸せになっていいんだ。……今度は、俺の時みたいに馬鹿みたいなこと考えないで、感じるままに、愛する男の手を取ってやれ」
ぽんぽん、と幾度か浩美の小さな細い手を軽く叩き、充紀はすっと重ねていた手を離した。そこから伝わった体温の温かさに励まされるように、浩美の顔が少しずつ明るくなっていく。
やがて、涙で顔をぐちゃぐちゃにした浩美が、花開くようにひっそりと――これまで見た中で一番綺麗な、微笑みを浮かべた。
「ありがとう、みきくん」
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