立ち止まっていた日々に、さよなら

「うわぁ、綺麗な場所だね」

 視界が開け、徐々に見えてくる景色を見て、淳が目を輝かせた。鞄から自前のデジタルカメラ――昨年の誕生日に、充紀と和也からもらったものだ――を取り出し、目の前の情景を何枚かフィルムに収める。

「オレだけの秘密基地だと思ってたのに、充紀くんはオレよりずっと前に知ってたんだよね。ずるい」

 むくれながら、和也が呟いた。いつも来ているときのように、背中にしょったギターケースを、重そうに掛け直す。

 そんな彼を見て、隣に立っていた充紀がフッと笑った。普段一回り年下の淳に対してするように、わしゃわしゃとその頭を撫でる。「くすぐったいよー」と文句を言う和也に、してやったりというようにニヤリと口角を上げた。

「それにしても……ここに来るのは、ずいぶん久しぶりだな」

 何せフラれて以来、一回も来てなかったからさ。

 小さな呟きを聞いた二人は思わず一瞬動きを止めてしまったが、当の充紀はどこかすっきりしたような、朗らかな笑みを湛えていた。

 浩美がアパートの踊り場で泣いていたのを淳が見つけ、彼らの部屋へ連れ込んで話し合いをした、あの後。

 浩美は以前から付き合っていた恋人のプロポーズを受け、来年結婚式を挙げることになったらしい。ちなみに結婚後も、彼と共に管理人の仕事を続けるという。

 たくさんお世話になったから、式には三人とも招待するわ、と浩美は朗らかな笑顔で言っていた。しかし、元彼である充紀にとっては酷なのではないかと、和也と淳は密かに心配していた。

 自分たちの前では完全に吹っ切れたかのように、あっけらかんと、明るく振る舞ってはいるが……。

 それでも充紀は、未だ二人に対して本心をほとんど打ち明けていない。

 もし彼が浩美のことを、今でも好きでいたとしたら。

 できればやり直したいと、心の奥底で願っていたのだとしたら。

「もう少し、進んでみないか」

 充紀が唐突に、そんなことを言う。

 そもそも三人が久しぶりにアパートに揃った今日、この場所に行ってみようと提案したのは充紀だった。心の整理をつけるための思い出旅行のようなものだろうか、と彼の心境を案じつつ、二人はこうして素直に着いてきたわけだが……。

 久しぶりとはいえ幾度かこの場所に来ていた充紀が先頭に立ち、既にこの場所のことを熟知している和也がその少し後ろを着いて歩く。そのさらに後ろを、物珍しそうにあちこち物色しながらデジカメのシャッターを切る淳が着いて行った。

 なだらかな坂になった草原を、さくさくと踏みしめながら歩いて行く。

 数分ほど歩いて、充紀が足を止めたのは、かつて浩美が和也に対して語って聞かせた、あのなだらかな丘のちょうど真上だった。眩しく映える白い手すりの向こうから、街中が広く見渡せる。

「この手すり、綺麗だね。みっくんが初めて来たときから、あるの?」

 わざとなのか天然なのかは知らないが、無邪気に笑いながら充紀に尋ねる淳。充紀は彼を見て優しく目を細めながら、「あぁ、そうだよ」とどこか自慢げにうなずいてみせた。

 写真を撮る淳の隣から、そっと手を伸ばし、ひやりと冷たい素材のそれに軽く触れる。

「……そうだ。あの時浩美も、お前と同じように『綺麗ね』って嬉しそうに笑ってたな。まさに女の子が好みそうなデザインだね、って」

 懐かしそうに語る口調から、ほんの少しの寂しさが垣間見える。その何とも言えない声色に、傍から見ていた和也は思わずドキリとした。

「ちょうど、この辺りだったかな。『ちょっと、休憩しようかな』って呟いて、あいつが手すりに腰かけて。俺は、その傍らに手をついて」

 浩美が語っていた状況を、和也は目を閉じて想像する。瞼の裏に、若かりし頃の二人が――もちろん、実際に見たわけじゃないけれど――優しげな光に包まれてふわりと浮かびあがる。

「晴れた空の下、広がる街の景色を背に、柔らかく微笑んだあいつのこと……何だか急に、これ以上ないくらいに愛おしくなっちゃって」

 ――あの人の顔が、わたしの方へとゆっくり近づいてきて。

「顔を近づけたら、あいつがまるで示し合せたみたいに、そっと目を閉じて。そして」

 ――あの場所で初めて、キスをしたの。

 語る充紀の表情は、いつにも増して柔らかい。いくら失っても、それから何年の時が経っても、その時のきらきらとした青春の想い出は、いつまでも彼の心の中に残っているようだった。

 今でも忘れられないのだと、浩美がかつて和也に語って聞かせた……その心情と、同じように。

「……あんなに優しくて、穏やかで。けど、自分の心臓の音がすごい間近に聞こえた気がするくらい、ドキドキしてさ」

 ――その瞬間はとってもあたたかくて、柔らかくて、神聖で。まるでわたしたちの間だけ、時がぴたりと止まってしまったみたいで。

「ホント……若かったな、あの時は」

 ク、と充紀が小さく笑う。それは未来を知らない当時の自分に対する自嘲めいた笑みではなく、若かりし頃の自分を懐かしく、愛おしく思うが故につい零れた笑みであるかのようだった。

 柔和な、優しい微笑みを湛えながら景色を見る充紀に、淳はシャッターを向けていた。カメラが立てる僅かな音に、充紀は気付いていないらしい。

「……充紀くん」

 そっと、いたわるように和也が声を掛ける。緩慢な仕草で振り向いた充紀は、やはり笑っていた。けれど、その瞳がどこか寂しげな光を宿していたことに、付き合いの短くない二人が気付かないはずなどなかった。

「俺は、今まで自分の気持ちがよくわからなかったんだ」

 唐突に、充紀が語り出す。

「あいつのこと、当時はもちろん好きだったよ。それこそ、結婚を真剣に考えるくらい。あいつが、俺の前からいなくなったあの時……半ば同棲してた部屋から、あいつの痕跡が全部、綺麗さっぱり消えてしまった日。俺はあいつに裏切られたと思ったし、自分のどこが悪かったのか、真剣に考えた」

 彼女の行動で、とにかく深く傷ついたのは本当だった。

「けど……時が経つにつれて、その気持ちがどんどん薄れていったっていうか、形を変えていったというか」

 す、と充紀が目を細める。それはまるで何かを悟った時のような、冷静すぎるくらいの眼差しだった。

「最初は、単純に未練だと思った。あいつのことが、きっと今でも好きなんだって。けど……自分なりに突き詰めてみても、何かしっくりこないような気がして。だったら恨みとか、憎しみだろうか? それとも、憐れみだろうか? 考え付く限り考えたけど、どれも違う気がして。いつしか、考えること自体馬鹿馬鹿しくなって、あいつと再会するまでは忘れようと思ってた。でも、心のどこかでずっと引っかかってたのは事実だった」

 その後、この年まで誰ともそういう関係にならなかったのも、多分そのせいなんだろう。無意識だったけど、やっぱり拭い去れなかったんだ。

「でもさ……この間、浩美がうちに来た時。付き合ってた時も絶対に俺の前で弱音を吐かなかった、あいつが泣いてて。俺に対する本音を、十年越しに初めて聞いて。そこで、やっとしっくりきたんだ。俺は……ただ、あいつを支えてやりたかっただけなんだって。泣いているあいつの手を取って、大丈夫だって励まして……背中を押して、やりたかっただけなんだって」

 その願いが、やっと叶ったから。

「だから……俺はもう、大丈夫だ」

 俺の恋は、大学時代のあの時点でもう既に終わってた。

 あの時叶えられなかった願いが、自分の心にしこりを残していた。ただ、それだけだったんだ。

「ありがとう……お前たちのおかげだよ」

 そう言って微笑む充紀は、憑き物が落ちたように清々しかった。

「いやだなぁ。オレ達は、何もしてないって」

「きっと、浩美さんがアパートに来た時から、こうなることは決まってたんよ」

 和也と淳が、嬉しそうに笑う。

 二人の笑顔に対して、笑みを深めることで応えた充紀は、おもむろに手すりから離れた。近くに置かれている古びたベンチへと、足を進める。何も言わず、二人はその後に従った。

「なぁ、和也」

 ベンチへは座らず、充紀が和也の方へ振り向いた。ん? と首を傾げる和也の、背に掛けたギターケースを指さす。

「一曲、歌ってくれよ。景気のいいやつ」

「いいね、それ」

 淳が、明るい声で同意した。

「一回、和くんの歌聴いてみたかったんだよね」

「オッケー」

 意気揚々と、和也がベンチに座る。下ろしたギターケースから、手入れの行き届いた、傷一つない自慢のギターを取り出した。

 わくわくとした、子供っぽい顔つきで、充紀と淳が向かい側の草むらへと直に腰を下ろす。

 んんっ、と小さく和也が咳払いをする。こだわりのあるギターピックを一つ出し、指にはめると、適当に和音を奏でた。

「充紀くんのリクエスト通り、景気のいいやつね……では、疾走感満載のロックを一曲」

 パチパチ、と二人分の拍手が和也を迎える。

 二人の同居人――もとい観客に、少しだけ照れ臭さを覚えながら、和也は歌い始めに必ずそうするように、自慢のギターを三度叩いた。

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