素直になってみたら?

「淳、お帰り。結構飲んだみたいだな」

「まぁね。でも知っての通り俺は酒強いでの、こんな程度じゃ堪えへんよ」

 充紀の声掛けにえへへ、と笑う淳の頬はほんのりと上気していて、ある程度酔っていることがうかがえる。しかしその足取りは、本人の言う通り確かにしっかりしていた。ふわりとアルコールの匂いが漂うが、それもあまり不快ではない強さだ。

「……んで? どこまで話進んだの」

 充紀と和也が座る椅子の向かい――由希子の隣の、一つだけ空いていた椅子を引き、淳はそこへ座った。どうやら充紀が説明するまでもなく、状況だけで何が起きているのか理解したらしい。椅子の足がギィ、と立てる摩擦音に、由希子がびくり、と怯えたように身体を震わせた。

「……それ、和くん?」

 充紀の肩に凭れてぐったりしている和也を一瞥し、淳が尋ねた。和也の頭をふわりと撫でながら、充紀は「あぁ」とだけ答える。

「詳しい話、俺は聞かん方がえぇかの」

「いや……」

 様子をうかがうように和也の方を見れば、その頭が僅かにもぞ、と動く。首の振りが縦であることを確認した充紀は、次に由希子の方を見た。由希子もどこか覚悟を決めたような表情で、小さくうなずく。

 ふぅ、と息を吐いた充紀は、淳に向き直り、口を開いた。

「ちょっと長くなるかもしれんが、聞いてくれるか」

 訳知り顔でこくり、と一つうなずいた淳に、充紀はかいつまんでこれまでのいきさつを説明した。


「――なるほどね」

 充紀の話を、最後まで口をさしはさむことなく聞いた淳は、落ち着き払った声で一言、そう言った。未だ充紀の肩に顔を埋めたままの和也を、冷静な目で見つめる。

「あのさ……」

 先ほど酔って帰ってきたのがまるで嘘のように、淡々と――何事もないかのように、淳は言葉を続けた。

「俺も、父さんと血繋がってないんよ」

「えっ」

 思わず零れた充紀の声に呼応するように、和也がバッと顔を上げる。どことなく腫れた目を大きく見開いて、本当に驚いたように淳を見た。

 二人が驚くのも無理はない。

 三人が共同生活を始めて間もない頃、淳の両親が一度このアパートに来たことがあった。その時の彼らは、血の繋がりを確かに感じさせるほど互いを想い合っているのが、外野から見ているだけでも十分すぎるくらい伝わってきて……淳を心配しつつも見守る両親と、そんな両親に悪態を吐きつつ全身で甘えに掛かる淳の姿は、非常に微笑ましかった。

 今も淳は、たまにではあるが両親と連絡を取っているようだ。電話口で話す言葉はいつだって柔らかく、優しい。そのことを、二人はよく知っていた。

 だからこそ、今の淳の告白は、にわかに信じられないことだったのだ。

 由希子も、まさか淳の口からそんなことを聞くとは思わなかったのだろう。口元で両手を覆いながら、まん丸くした目で呆気に取られたように淳の方を見ている。

 呆然とする三人に可笑しさを感じたのか、淳がクッ、と喉を鳴らして笑う。その笑顔は驚くほど静かで、穏やかだった。

「もともと、うちは母子家庭でな。物心ついた時にはもう、ホンマの父さんはえんかった。今の父さんがうちに来たんは、俺が中学入ったばっかの頃。反抗期やったから、にわかには認められんくてさ……あの人のこと、随分困らせたもんやと思う」

 父親のことを『あの人』と呼ぶ声も、表情も、優しい。つい最近まで赤の他人だったはずのその人を、今では全面的に信頼しているようだ。

 一度だけ会ったことのある、淳の父親を思い出しながら、充紀はその続きを待った。

「でもさ……一回、何も言わんと夜中まで家帰らへんかったことあってな。日跨いでやっと帰ったんやけど、そしたら顔合わすなりあの人が俺のことひっぱたいたんよ。あの人、泣いてた。……あとから母さんに聞いたんやけど、すごい俺のこと心配して、探してくれてたんやて。それで、気付いた。ホンマに、この人は俺のこと愛してくれてるんやなぁって。血の繋がりとか関係なく、この人は俺のこと、ホンマの息子として受け入れてくれてるって」

 せやから、信じられた。あの人はいつだって、父親として俺とまっすぐに向き合ってくれたから。血の繋がりがないなんて、そんな事実どうでもよくなるくらいに。

「なぁ、和くん。こっからは俺の持論になるんやけど、聞いてくれんか」

 ぽかんとしたまま、和也はただうなずいた。その反応にホッとしたような表情を浮かべた淳は、再び口を開く。

「覚えとるかなぁ。俺らが、ユッコさんに初めて会った日のこと。和くんにとっては、苦い想い出かもしれんけど……あの時、ユッコさんは和くんのこと、ひっぱたいたよね? ぼろぼろ涙を零して、メイクがぐちゃぐちゃになるのも構わないでさ」

 淳の言いたいことに何となく気が付いた充紀は、唖然としたまま固まっていた表情をゆっくりと緩めた。訳知り顔で目配せすれば、視線に気づいた淳は僅かに口角を上げる。

 辛そうに眉をひそめた和也に、淳は波風のようにささやかな笑みを浮かべたまま言った。

「あの時ね、俺思ったの。本当に、和くんのこと家族だと思ってなかったら……本当に和くんを案じ、慈しんでなかったら、あんなことできないんじゃないかなって。泣きながらもあえて手を上げるなんて、大切に想っている相手じゃなきゃできないことだと思う」

 だからさ……。

 顔を歪める和也に、淳はひっそりと――背中を押すためではない、ただ自分の経験上感じたことを素直に、告げる。

「和くんは少なくとも、その事実を知るまではずっと、愛されているという自覚があったんでしょ。それは自惚れでもなんでもない、きっと全部ホンマのこと。ユッコさんがそうであるように、お父さんも、お母さんも、お兄さんも、みんな……みんな、和くんを本当の家族として愛してくれているはずだよ。あとは、和くんがそれを受け入れるだけだと、俺は思うんだ」

 続けるように、今度は充紀が口を開いた。これまで彼が傷つくと思って、言わないでいたことを、一気に告げる。

「なぁ、和也。俺さ、深山くんと――ユッコさんの旦那さんと、一回お前のことについて話したんだ。ユッコさんのことを一番身近で見てきた深山くんが、言ってたよ。ユッコさんはずっとお前に出せない手紙を書き続けたり、お前のCDを欠かさず買って聴いてたり、連絡が取れないって嘆いたり……そうやってずっと、お前のことを気がかりに思ってたんだって。血の繋がりがないからって、お前のことを嘲笑ったりなんて、ユッコさんも……きっと他のご家族も、全然してないよ。ただ愛してるから、その事実を言い出せなかった。それだけなんじゃないか」

 和也の表情が、みるみる切なげなものへと変わっていく。

 由希子は何度もうなずいた。目を潤ませながら、それでも慈愛に満ちたまなざしで、ただ一心に和也を見つめている。

「かずくん……あたしがさっき電話してた相手は、確かに母さんよ。でもそれは、かずくんを悪し様に言うためでもなければ、その行動を見張るためでもない。和也は元気にしてるって、素敵な仲間たちに囲まれて毎日楽しそうだって、報告するため。そうやって、母さんたちを安心させてあげるためだったのよ」

 うつむいていた和也が、ゆっくりと顔を上げる。縋るような目が、由希子を捉えた。

 そんな和也に微笑みかけ、由希子は続ける。

「ねぇ、かずくん。今すぐでなくてもいいから。心の整理がついてからで、いいから……一回、家に帰ってきて。他の家族に、顔を見せてあげて。ちょっとの間だけでいいから。頻繁に帰って来いなんて、言わないから。ただ、一回だけでいい。なんなら、旅行の片手間とか、その程度でもいいから」

 ね? と小さく首を傾げる由希子は、いつものように小悪魔じみた雰囲気を漂わせている。懐かしさを感じたのか、歪んでいた和也の表情が、ゆっくりと糸が解けるように優しく緩んでいく。

 それでも、やはり少し気恥ずかしかったのだろうか。まっすぐ見つめてくる由希子の視線から逃れるように視線を逸らすと、ぶっきらぼうにぽつりと答えた。

「仕方ないな。気が向いたら、そうしてあげてもいいよ」

 由希子の表情が、華やぐ。充紀も、そして淳も、知らず知らずのうちに頬を緩めた。

 三人それぞれの反応を、和也はやはり照れ臭そうに見つめていた。

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