それぞれの日常

「お疲れ、篠宮」

 営業から帰ると、今年から働いている支社の営業部長が、直々に麦茶の入ったグラスを持ってきてくれた。恐縮しつつ、「ありがとうございます」と礼を言って受け取る。

 どうやらこの支社では、お偉いさんも平もないようなものらしいことに充紀は気付いた。何せ一番お偉いさんであるはずの社長でさえ、自ら腰を上げて雑用に徹するくらいだ。

 前までいた支社――そこは、上下関係にひどく厳しく、お偉いさんはとにかくふんぞり返ってばかりだった――とは大違いである。同じ系統の会社であるはずなのに……まったく、不思議なものだ。

 首をひねりつつも冷たいグラスを口元で傾ければ、カラン、と氷が涼しげに音を立てる。

 六月もあと数日で終わりを告げ、徐々に夏本番が近付いてきている。そんな季節だからか、近頃は外を歩いているだけでも汗ばむようになった。太陽がじりじりと肌を焦がす感覚は、何度経験していてもやはり快適なものとは思えない。

 オフィスの手近なデスクに、半分ほど減った麦茶のグラスを置く。エアコンの効いた室内でしばしぼんやりしていると、その姿を眺めていたらしい営業部長が「どうだ」とこちらに話しかけてきた。

「こっちの方には、いい加減慣れたか」

「えぇ、まぁ。おかげさまで」

 本社にいた頃、出張で幾度かこの街には来たことがある。今のように長時間身を置くのは初めてになるが、持ち前の方向感覚と転勤慣れが幸いし、街や職場に馴染めないなどということは全くなかった。むしろ、今の生活を楽しんでいるくらいだ。

「大変じゃないか、一人暮らしは」

 既に所帯を持っているらしい営業部長は、いたわるようにそう言ってくれる。一人暮らし、という言葉に、思わず充紀は笑みを零した。

「いえ、実は違うんですよ」

「何?」

 その言葉の意味が分からなかったらしい。営業部長が、不思議そうに首を傾げる。その反応にまた笑みを零しながら、充紀は続けた。

「一人暮らしじゃなくて。三人で、暮らしているんです」

「三人で? 何でまた」

 お前、確か独身だよな……? とますます眉根を寄せ不思議そうに考え込む営業部長に、充紀はついにそれと分かるほど盛大に吹き出した。気付いた相手は、少しだけ不満そうに唇を尖らせる。

「何だよぉ、そんなに笑わんでもいいじゃないか」

「……っふ、すみません、つい……ふくくっ」

 そりゃあ、こういう反応が当たり前だよなぁ……。

 いつの間にか自分の中で価値観が少しずつずれてきていることに気が付いた充紀は、すっかり馴染んだもんだなぁ、としみじみ思った。

「あのね、営業部長。ちょっと変わってるかもしれないんですけど……俺ね、今、男三人でルームシェアしてるんですよ」

「……それはまた、むさ苦しそうなことだ。まるで男子寮みたいだな」

「あー……言い得て妙かもしれないですね。あんまりむさ苦しさとかは、感じたことないですけど」

 慣れちゃえば全然楽ですよ、と笑みを浮かべながら答えてみせれば、営業部長は「ふーん」と気の抜けたような反応をした。

「そういうもんかねぇ」

「そういうもんです。全員年齢も違いますし、そういう意味では男子寮っていうのとはちょっと違うかもしれないですね」

「へぇ、年齢違うのか」

「えぇ。一人が二十代で……確か、七つくらい年下だったかな。んでもう一人は、もう一回り以上年下になりますよ。今年から大学生だそうです」

「だだだ、大学生!? ジェネレーションギャップ半端なくないか?」

「ホント……俺もおっさんになったなぁって、つくづく思いますよ」

 言いながら再びグラスを傾け、わざと深い溜息を吐く。その様子に、今度は営業部長の方が吹き出した。充紀もつられて笑う。

 その後次々と帰ってきた営業回りの社員達に、営業部長が先ほどの話を振ったものだから、興味を持った社員たちに充紀はあっけなく取り囲まれ、多くの質問攻めに遭う羽目になったのだった。


    ◆◆◆


「そういや五十嵐、今更だけど新しいアパート見つかったのか?」

 バイト帰り、いつもの通りでライブをすべく腰を下ろした和也に、横でギターの手入れをしていたストリートミュージシャン仲間がふとそんなことを尋ねてきた。

「うん、見つかったよ」

「今度は、家賃大丈夫なんだろうな」

 和也が家賃を滞納した挙句前のアパートを追い出されたという経緯を知っているだけに、仲間はかなり心配そうだ。

 しかしそんな彼に和也は、グッ、と自信満々に親指を立ててみせた。

「ばっちし」

「マジ? 家賃は?」

 下世話な顔の仲間に、和也はちょいちょい、と手招きをした。近づいてきたその耳元で、こそっと囁く。刹那、仲間の目が驚愕に見開かれた。

「えっ、嘘!? 何でそんな安いの!?」

 通常ならもっとするはずなのに……と、信じられないというような、心底羨ましいというような表情でぶつぶつと呟いている。ふふん、と得意げに胸を張りながら、和也はその理由を答えた。

「ルームシェアなんだ」

「ほへー……」

 その手があったか、というような、気の抜けた表情。まるで抜け殻のような彼の肩を、和也はポンポンッ、と叩いた。

「お前も、ミュージシャン目指すなら何でもワリカンした方がいいよ。その方が、断然お得だからね」

「まぁ、確かにそうだが」

 疲れない? と、もっともな質問が投げかけられる。

 一種のリラックス空間である家という場所で、ほとんど知らないに等しい人間と生活を共にするなんて、精神的に辛くはないのかと。

 付き合いが長いため、普段の明るい性格の裏に潜む和也の人間性をある程度知っている……そんな彼だからこそ抱く、当然の疑問だった。

 しかし和也から返ってきたのは、拍子抜けするくらいあっけらかんとした、至極単純な答えだった。

「ううん、案外楽しいよ」

 何の穢れもない言葉と笑顔に、仲間は目をぱちくりさせる。

「……ホントに?」

「ホントホント」

 うなずく和也は、無理をしているようには全く見えない。きっと、その言葉は本心から出ているのだろう。

「共同生活始めてからそんなに日は経ってないけど、発見の毎日だよ。同居人……二人いるんだけどさ、どっちもオレとは全然違うタイプなの。やること成すこと、眺めてると面白くて飽きないし、刺激を受けるよ。あぁ、そういう考え方もあるんだって」

 そうやって、足りないところを補い合いながら暮らしてる感じかなぁ。

「なるほどねぇ」

 感心したように、仲間は深々とため息を吐く。そんな彼に和也は「まぁ、オレがたまたま運良かっただけかもしれないけどね」と付け足しつつ、もう一度ポンッと軽く肩を叩いた。

「お前も一回、ルームシェアくらい体験しとくといいよ。ホントに、面白いから」

 歌だけだと飽きられるかもだし、合間に余興としてルームシェアのエピソードでも語ろうかなぁ……などと呟きながら、和也は自ら持参したケースから、丁寧に手入れされたギターを取り出した。試すように指を動かし、幾度か和音を奏でる。

「いい顔するようになったなぁ、お前」

 仲間はそんな和也の横顔を眺めながら、ふ、と柔らかく表情を崩した。


    ◆◆◆


「なぁなぁ、今度百瀬ん家遊びに行っていいか?」

 磯ノ浜大学での長い講義が終わったあと、最近できたばかりの学友たちとたむろしながらキャンパス内を歩いていた淳は、そのうちの一人が告げた一言にぴたり、と身体の動きを止めた。ぞろぞろと歩いていた学友たちが、合わせるようにして次々と足を止める。

「いや、うーん……どうかな」

「何、何か行っちゃまずい事情でもある?」

「その、なんというか」

 どう説明したものか、悩んでしまう。

 しかし、お調子者の多い大学生のことだ。長いことずっと言葉を濁していようものなら、根も葉もない噂を立てられからかわれてしまうかもしれない。そんなことになるくらいなら、正直に打ち明けてしまった方が幾分かマシなのではないだろうか。

「あ、もしかして同棲してるとか?」

「うっそ、お前引っ越したばかりなのにいきなり同棲とか!?」

「違うよ」

 ほら、何も言わないとこんな風に誤解が広まっていく。淳は苦笑気味に否定しつつ、若人は恐ろしい、と心の中でだけ呟いた。……まぁ、そういう自分も同じ若人なのだけど。

「一人暮らしやないのはホント。けど同棲ではない。一緒に暮らしてんのは女の子じゃなくて、男だからね。しかも二人」

「それって、ルームシェア?」

「簡単に言うと、そう。しかも知っとる人とかじゃなくて、全然初対面の人」

「えぇっ、知らない人と!?」

「今時珍しいな」

 学友たちは皆、一様に目を丸くする。

 確かに珍しいのかもしれない。淳くらいの年ならば、実家を出ると当然のようにアパートで一人暮らしをするか、そうでなければ手近なところに下宿させてもらうかのどちらかだろう。初対面の人間たちと共に寄せ集められ、共同生活を送ることなど、誰も思いつかないに違いない。

「大丈夫なの? 百瀬って、人見知り激しくなかったっけ」

 付き合いは浅いが、今までの立ち居振る舞いでそれくらいのことは分かるようになったのだろう。学友の一人が、心配そうに聞いてくる。

「大丈夫。二人とも年上だけど、すごく良くしてくれるよ」

 漂う不安を一蹴するように、淳は快活に笑った。

「いわば俺って末っ子なわけやん? もちろんいつかはあぁいう大人になりたいなって憧れる気持ちもあるし、俺兄弟おらんかったから、そういう新鮮な気持ちも味わえるし。とにかく、毎日楽しんで過ごしてるよ」

「ふぅん……」

「ならいいけど」

「何かあったら言えよ? 助けてやっから」

「ありがと、みんな」

 にこっと軽く笑んでみせれば、学友たちは皆それぞれ瞳を和ませたり、見守るように微笑んだりしてくれる。何だか、ここでも末っ子みたいな位置づけになってる気がする。

 そういう扱いが嫌なわけでは全然ないし、むしろ心地いいくらいでもあるのだけれど……。

 いつかは、学友のみんなにも、同居人たちにも対等と認めてもらえるくらい立派な大人になろう。充紀みたいにカッコよく、和也みたいに明るい人になることが、目標なんだ。

 改めて決意を固めながら、淳は再びキャンパス内を進んでいく学友たちと共に、足取り軽く歩き始めた。

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