何もかもを抱えたまま

 充紀が仕事からアパートへ戻ると、珍しいことに誰もいなかった。こうなることを知ってはいても、やはり三人での生活に慣れてしまうと寂しく感じてしまうものだと、充紀は一人苦笑気味に溜息を吐く。

 淳は教員採用試験と夏休みの帰省を兼ね、昨日から実家の方に戻っている。和也はいつものストリートライブの後、夕方から音楽番組の収録に呼ばれているらしく、今日は遅くなると事前に聞いていた。

 和也の作った曲が、とある企業のCM曲に抜擢されてから、まだ日は浅い。けれどその効果は万全だったらしく、ここ数か月ほど和也はメディアに引っ張りだこという状態だった。

 何気なく、テレビをつけた。一度和也の実家へ三人でお邪魔した時に、余っているから持っていきなさいと彼の家族に言われ、遠慮なく貰って帰ってきた中古の小型テレビだ。

 三人が揃っているときは基本的にあまりテレビをつけないのだが、淳が時々思いついたように歴史番組を見ていたり、和也が音楽番組をチェックしていたりはする。

 充紀は仕事休みに一人でいるときでさえも、テレビに興味を示すことはなかった。携帯電話があればある程度の経済事情は把握できるのでニュースは見ないし、もともとバラエティやドラマなどにもさして興味がないのだ。

 だから、そんな充紀が進んでテレビのスイッチに手を伸ばすのは珍しいことだった。

 真っ暗な画面がパッと明るくなり、映像が映し出される。ちょうど、何かしらのCMが流れているところだった。

 音声の流れる明るい動画を、しばらくぼんやりと眺めた。顔の整った芸能人が、特に面白味もない文句を言いながらどこかの企業の製品をアピールしている。

 そんな中ふと、聞き覚えのある声がして、充紀は思わず画面を凝視した。

 何の変哲もない、炭酸飲料の宣伝CM。出ている男性は確か、最近売出し中だというイケメン若手俳優だったはずだ。昼休み中に見かけた会社の女の子たちが、黄色い声で噂していたのを覚えている。

 そして、その後ろで流れている曲は……。

「……あぁ、これが」

 納得して、充紀は一人呟く。

 近頃和也が機嫌良さそうに口ずさむことが多いその曲は、和也が作った曲らしい。前に出したシングルのカップリングで、メイン曲の方が本人は気に入っていると言っていたが、それでも意外と満更でもなさそうだった。

 これまで彼の曲を、CDショップの視聴コーナー以外で耳にしたことがなかったので、こうやってメディア媒体で聴くのは新鮮だ。

 けれど同時に、普段人懐こい彼が一気に遠くまで行ってしまったような、少し寂しい気分になった。

 テレビを眺めるたびに、淳が切なそうな表情になることがあった。もしかしたら、今の充紀と似た感情を抱いていたのかもしれない。

 そういえば、と充紀は思う。

 深山と電話で話していたこと――転勤のことを、淳に聞かれた日。あれ以来その件については誰とも話していないけれど、充紀には不思議に思うことがあった。

 あの日彼は、何故充紀の部屋の前にいたのだろう。

 たまたま通りかかっただけ、だろうか? それにしては、淳の表情はやたらと思い詰めていたような気がする。

 ひょっとして、自分に何か話があったのではないだろうか?

「……なんて、」

 考えすぎか。

 苦笑気味に頭を振る。気づけばCMはとっくに終わっていて、テレビでは何かしらのバラエティ番組が再開していた。視聴者参加型の、ちょっとしたクイズをやっているようだ。

 ――たまには、こういうのもいいか。

 複雑な感情を振り払うように、充紀はテレビ画面に映し出された問題の答えを考え始めた。


    ◆◆◆


「……うーん?」

 不思議そうな声に振り向くと、携帯電話を片手に、和也が首を傾げていた。充紀が「どうしたんだ」と問えば、ちらりと彼の方を見て「いやね」と訝しそうに答える。

「こないだ、試験日だったでしょ」

「そうだな」

「お盆も終わったでしょ」

「あぁ」

「で……そういえば淳が戻ってくるのいつだったかなって、聞こうと思って電話したんだけど」

「出ないのか」

 こくり、とうなずく和也。

「一回だけなら別にそんな心配しないけどさ……さっきから何回も掛けてるんだよ?」

「何か用事でもあるんじゃないか? ほら、墓参りとか」

「普通お盆中にしない? それ」

「……確かに」

 うちも、墓参りならお盆中に済ませたよ……と和也に呆れたように言われ、確かに自分のところもそうだったと充紀は思い出し、苦々しい気持ちで眉根を寄せた。

 そんな充紀に構わず、和也はうーん、と首を傾げる。

「それとも、どっか出掛けてるのかなぁ」

「携帯も持たずに?」

「でも、あの子ならあり得ると思うんだ」

「……まぁな」

 淳は自分のことに対して無頓着なところがあるので、携帯電話を持たずに外出することは結構あった。連絡が取れないと困るから勘弁してほしいと充紀が注意してからは、きちんと外出前に確認するようになったが。

「ったく、注意したのに」

「親御さんがいるから、気が抜けてるのかもね」

 険しい顔で腕を組む充紀を、和也が苦笑気味にたしなめる。はぁ、と溜息を吐いて、充紀は言った。

「実家の電話に掛けたらどうだ?」

「でも、番号が」

「そこに書いてあるだろ」

 戸惑う和也に、充紀はダイニングとリビングの狭間を指さした。二部屋は腰くらいの高さがある台で仕切られていて、その上に白いファックス付き電話が置かれている。

 和也が駆け寄ると、右横のスペースにメモ用紙が一枚貼られていた。充紀の会社や和也の事務所、淳の学校などの番号が書かれている下に、それぞれの実家の番号が記載されている。それを見て、「あぁ、そうだった」と和也は納得したように呟いた。

 子機を手に取り、メモに書かれた電話番号を見ながら、たどたどしい手つきでボタンを押していく。受話器を耳に当て、呼び出し音を聴きながら、和也は向こうの応答を待った。

「……あ、もしもし。百瀬さんのお宅でしょうか。五十嵐和也と申しますが……はい。お久しぶりです」

 相手が電話に出たらしく、唐突に和也が話し出す。

「えぇ、オレも充紀くんも変わらず元気に……あ、この間の番組見てくださったんですか? おかげさまで、最近ちょいちょい出させていただくようになって……まぁ、言ってもまだまだなんですけど」

 歌う時の伸びた背筋とは違う、うつむきがちに丸まった背中を、充紀はソファに身体を預けながら悠然と見守った。

「ところで、淳くんは今お宅にいますか? さっきから携帯に電話してるんですけど、気付いてないみたいで……」

 と、そこでいったん言葉が途切れる。受話器から、母親のものであろうのんびりとした高めの声が漏れ聞こえてきた。

「……はい、はい。……はい」

 どうやら、何かを説明しているらしい。それを聞きながら、和也が僅かに首を傾げた。

「……え?」

 和也にしては珍しい、低い声が出た。何があったのかと思い、充紀は訝しげに目を細める。

「……いえ。オレたちは、てっきりまだそちらにいるものだと思ってたので」

 今まで以上に、注意深く耳をそばだてた。

「そうでしたか、わかりました。……えぇ、お願いします。こちらも、何か動きがあったらまた連絡しますので」

 それでは、と電話を切り、和也が振り向く。神妙な表情に、充紀は思わず息を呑んだ。

「淳は一昨日、実家を出たって」

 しばしの沈黙の後、和也が口を開いた。

「てっきりもう、そっちに戻ったものとばかり思っていたって……言われたよ」

 静かな声が耳に届き、充紀はその意味をじわじわと理解する。

 このアパートから淳の実家までは、電車とバスを乗り継いでもせいぜい二、三時間程度だ。少し遠くはあるものの、寝台列車や飛行機、船などで日を跨いでようやく着くような、そんな長い距離ではない。

 つまり淳が一昨日実家を出たという、その証言が本当なら――無論、彼の親を疑っているわけではないが――とっくに、一昨日の時点で既にアパートに着いているはずだ。

 それなのに、まだ姿を見せていないということは。

「実家を出て、そのまま……」

 ――どこかへ消えた?

 自分の思考に、まさか、と充紀は首を横に振る。心配しすぎだ、と心の中で唱えながら、自分を落ち着けるため幾度か深呼吸した。

「淳も、もう大人だよ」

 自分の行動には、責任を持っているはず。

 同じことを考えているのか、和也が静かに言う。しかし不安は隠しきれていないようで、その顔は僅かに青ざめていた。

「……電話」

 充紀の呟きに、和也がピクリと反応する。

「もう一回電話してみよう、淳に」

 発した言葉も、携帯電話を取り出す行動も、混乱する思考と反して思いの外冷静だった。

 慣れた手つきで淳の連絡先を呼び出し、携帯電話を耳に当てる。数回のコールの後、ブッ、と音がした。

 反応があったことにホッとして、充紀は口を開く。

「――もしもし、淳?」


   ◆◆◆


『――もしもし、淳?』

 少し離れていただけなのに、携帯電話越しに聞こえるその声は懐かしい。そういえば、今年は帰省してから一度も連絡をしていなかったな……と、淳は今更そんなことをしみじみ思った。

『……おい、淳? 淳だろ?』

 黙っていることにしびれを切らしたのか、それとも不安になったのか、少し焦ったような充紀の声。淳はそっと携帯電話を耳から離した。

 これ以前にも、着信が何件かあったことは知っている。

 少しは、心配してくれているのだろうか……。

『――……』

 何か言っているのが聞こえた気がしたけど、何と言っているのかまでは聞き取れない。淳はそのまま何も言わず通話を切り、ロックを掛けた携帯電話をズボンのポケットにねじ込んだ。

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