旧友に残された手がかり

 繋がりはしたものの、しばらくの無言の後、電話は切れた。けれど受話器越しに落ち着いた息遣いが聞こえたから、携帯の持ち主である淳は――もしかしたら、淳ではなかった可能性も考えられるが――充紀の声を聴いていたのだと思う。

 その後電源を落とされたのか、何度掛けても繋がらなくなってしまった電話に、和也はいよいよ混乱し始めた。

「どっ、どうしよう充紀くん」

「落ち着け、和也」

 と言いつつ、充紀も落ち着かなさげに視線を彷徨わせている。

 淳が今どこにいるのか。何故実家を出てから、いつも帰省の時そうしているように、このアパートへ戻ってこないのか。それに関する手がかりは、何一つ掴めていない。

 しかしそれでも、淳に再度電話を掛けたことで、はっきりと分かったことが一つだけあった。

「淳は……意図的に、俺らと距離を置こうとしているようだ」

 考えたくは、ないことだけれど。

「……それってやっぱ、もしかしなくてもオレたちのせい、だよね」

 和也が気まずげに、視線を逸らす。

 彼にはこの後も、新曲のレコーディングを控えていた。次のシングルは、冬クールに始まるドラマの主題歌を作ってほしいと、和也の実力を認めたテレビ局から事務所にオファーが入ったものだという。

 どんどんメディア露出を増やし、有名になっていく和也を、淳はどんな思いで見つめていたのだろう。

 そして、充紀の転勤話を、彼はどんな思いで……。

「……やっぱり、ちゃんと話をすれば良かった」

 そうすれば、淳が悩むことなんてなかっただろうに。

「そうだね」

 和也も、同意するように呟く。

「もしかしたら、近いうちに三人とも離れ離れになるかもしれない。その事実と、嫌でも向き合わなきゃいけなかったんだ」

 いつまでも、現実から逃げてないで。

 このぬるま湯に浸かるような心地よい生活が、もともと長く続くことはなかったのだと、もっと早く知っているべきだったのかもしれない。

「ホント、俺らってどうしようもないな」

「いい大人なのにね」

 顔を見合わせ、自嘲気味に笑った。

 それから、二人はどちらともなく口を閉ざす。淳がいないせいか、いつもより少し広く感じられる三人用の部屋に、重い沈黙が降りた。


「――……」

「――……」

 ふと、充紀は玄関付近が騒がしいことに気付いた。部屋が静かだからか、外から漏れる声もよく聞こえる。どうやら、部屋の前に誰かがいるらしい。

 和也もそのことに気付いたのか、不思議そうに充紀を見た。

 和也が目だけで『様子を見てくる』と伝え、玄関に向かう。充紀は鷹揚にうなずいた。


「――おぉきにな、姉ちゃんら。わざわざ案内までしてもろぉて」

「――いいのよ。わたし、このアパートの管理人ですから」

「――あたしも、このアパートに住んでるから。全然手間じゃなかったわ」

 どうやら外に、人がいるようだ。浩美と由希子、そしてもう一人……。

 眉をひそめ、和也はガチャリ、とドアを開く。

「あら、和也くん。ちょうどよかったわ」

「あたしたち今、出掛けてたところなんだけどね……淳くんのお友達だっていう人と会ったから、ついでに案内してあげていたところなの」

 そこには予想通りの人物たち――浩美と由希子がいた。

 今このアパート内で起こっている出来事も、和也と充紀が抱える混乱も、こちらの事情を何一つ知らない二人は飄々と笑っている。……まぁ、この二人に知られたところで、さらにややこしい事態になるだろうことは目に見えているのだが。

 まだほとんど手がかりを掴めていない今の状況の中で、二人にこのことを洗いざらい打ち明けるつもりはない。充紀も、話を大きくすることは望んでいないだろうし。

 さて、その後ろからひょこりと顔を出したのは……おおよそこんな場所にいるはずなどない、見覚えのある小柄な姿。

 和也は呆然と、記憶にあるその名を呼んだ。

「学くん……」

「おぉ。五十嵐和也……やったかいな。ふっさしねっかね」

「ふっさし……?」

「久しぶりだね、ってことじゃ」

 外にいる浩美たちにもう一度「ありがとうな」と声を掛けると、学は和也の戸惑いを無視し、玄関に足を踏み入れる。そこで、様子を見に出て来たらしい充紀と鉢合わせ、学はニヤリと口角を上げた。

「よぉ、篠宮充紀」

「……学」

 彼がこの場にいることに驚いているような、淳が帰ってきた音ではなかったことに少なからず落胆しているような……何とも言い難い感情を秘めた、複雑そうな表情を浮かべる充紀。「そんな顔しなや」と苦笑しつつ、学は「邪魔すんで」と口先だけで言って靴を脱いだ。

「……で、何の用だ?」

「ずいぶん深刻そうな顔してはるやないの」

 充紀の質問には答えず、しれっと学が答える。言い返そうと充紀が口を開いたところで、部屋をひと通り見渡した学が何気なく言った。

「淳は、いてないんじゃの」

「それは……」

 和也が口を挟もうとしたが、具体的に答えられないまま気まずそうに顔を逸らす。そんな彼と、苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべる充紀を見て、学は曖昧に笑った。

「……ちょっと、わざとらしすぎたかな」

「っ、お前」

 充紀が掴み掛らんばかりの勢いで、学へずいっと近づく。「まぁ、落ち着きね」と、学は困ったように笑った。


「実は、淳から手紙が来てな」

 和也の案内で、とりあえずソファに座った学は、テーブルを挟んで向かいのソファに座る充紀と和也の目の前に、一通の封筒を差し出した。シンプルなデザインのそれには、見慣れた淳の字で、学の名が綴られている。宛てられた住所は、淳の実家のそれと似たところがあるので、おそらく学の実家のものであろうと想像できた。

「いきなし実家から呼び出し喰らったで、何事じゃと思うて帰ったら、親からこん便箋ば渡されたんじゃ」

「……で、中身は?」

「読んでもよかよ」

 ほれ、と勧められるがまま、充紀はその封筒を手に取る。中には、便箋が二枚入っていた。それを開くと、和也が横から覗きこんできたので、二人で手紙に目を通す。

 それほど、長い手紙ではなかった。

 主に書かれていたのは、今頃どこでどういうことをしているか、と学に尋ねる内容や、自分の近況など、当たり障りのないことについてだった。充紀と和也が知りたかったはずの、核心部分――充紀の転勤が決まったことや、和也の知名度がここ最近一気に上昇したことなどについて、彼がどう思っているのか――については、何一つ触れられていない。

 単に放浪癖のあるかつての旧友を懐かしみ、案じているだけにも見える、その手紙。本当に、何の変哲もないように見えた。

「――あれ?」

 そこで、ある異変に気付く。

「充紀くん。この手紙、一枚で終わってるよね」

「あぁ」

 和也の疑問に、充紀がうなずく。

 封筒に入っていた便箋は、二枚だ。けれど、学に宛てられたはずの手紙は、一枚で既に終わってしまっている。

 では、もう一枚は……。

 慌てて、二枚目の便箋を読む。目を通しながら、充紀と和也はほぼ同時に声を上げた。

「これは……」

「これって……」

「やっぱし、心当たりあるんじゃの」

 二人の様子を見て、訪ねてきて正解やったわ、と学が満足そうに笑った。

「淳も……手紙を見たおれがここに来ること、分かってたんやろな。頭んえぇあいつのことやで、そんなことやろうとは思うたが」

 上手いこと利用されたもんやね、おれも。

「ったく」

 充紀が、吐き捨てるように――けれど表情は穏やかに、言った。

「何でもかんでも遠回しすぎるんだよ。あいつは」

「まぁ、まだ確証には至っていないけれど」

 和也は充紀から受け取った便箋をテーブルに広げ、学にもその内容が見えるようにした。便箋一枚を広々と使って綴られた、淳の短いメッセージを、指で辿るようにしてなぞっていく。

 そこには、こう書かれていた。


『切なく苦しかった過去の恋を、あたたかくやさしい想い出に変えてくれた

 弾き語りの練習に来るのを、いつも静かに出迎え、見守ってくれた

 そんな存在が、今の俺にも必要なのだ

 だから、行かなくてはいけない

 全てを受け入れ、乗り越えられたら、また笑顔で話せますように


 八月二十一日 午前十時

 百瀬淳』


「……分かったんか?」

 おれにはさっぱりやったけど、と学が目を丸くする。

 充紀と和也は、まるで憑き物が落ちたかのようにすっきりとした表情で、うなずいた。

「淳に、会いに行こう」

「今から?」

「違うよ」

 書いてあるだろ? と充紀が笑う。学は釈然としない顔で、もう一度テーブルに広げられた便箋を見た。

 そして、「あぁ」と納得したようにうなずく。

 ――八月二十一日、午前十時。

「明日の、午前十時」

 そう。この日付は、未来のもの。

 つまり、淳が二人に対して指定した時間ということだ。

「場所は?」

「もうわかってる」

 なぁ、和也?

 充紀に話を振られた和也は、にっこりと笑って答える。

「うん。だから、今日はもういいんだよ」

「気を取り直して、飯の準備でもするか」

「オレ、そろそろレコーディング行かなくちゃ」

 息を吐き、二人はソファから立ち上がる。その様子を、学は身動きもせずただぼんやりと眺めていた。

 約束の時間までには、まだ時間がある。

 淳がその時まで、どこで何をするつもりなのか……やっぱりまだ心配してしまうし、そもそも明日本当にあの場所に彼が来るのか、半信半疑ではあるけれど。

「ほな、おれも帰……」

「あ、そうそう」

 立ち上がりかけた学に、振り返った充紀がきっぱりと言う。

「学。お前も明日、俺らと一緒に来るんだからな」

「え、おれも?」

「当たり前でしょ。今日は、淳の部屋使っていいから」

「飯は三人分用意しとけばいいか? 淳いないけど」

「うん。オレも、夜には戻ってこれるだろうし」

「こういうのも、ちょっと新鮮だな」

「マジか……」

 とりあえず。

 いつの間にか巻き込まれたどころか、この部屋に泊まることさえ決定事項となっていたらしいことに、学は肩を落としたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る