約束の場所で
額に滲んだ汗を拭い、ひたすら足を進める。一度だけ訪れたことのあるその場所へ、淳は記憶を頼りにやって来た。
初めて来たのは、まだ淳が成人するかしないかの頃。とはいってもたった数年前のことなのだが、もう随分昔――それこそ、あれからもう十年近く経ったんじゃないかと思ってしまうくらいだ。
懐かしい。でも、あの頃と何も変わっていない。
そんなことを、そういえばあの時充紀も言っていたような気がする。
充紀と浩美の想い出の場――白い手すりのある、小高い山道まで来た。ここから眺める景色も、相変わらずだ。
あたりに自然が多いからだろうか、吹く風は涼しい。汗をかき、火照った体がゆっくりと、心地よく冷えていく。
アパートを出てからもずっと離れられず、淳にまとわりついてきた、寂しさや歯痒さ、苦しさや切なさ……その全てが、汗とともに少しずつ浄化されていくようで。
今ならば、まっさらな気持ちになれる気がする。
その心地よさに、淳はゆっくりと目を閉じ、身を任せた。
「――で?」
後ろから唐突に投げかけられた言葉は、静かな空間によく響いた。
「こんなところで、何ばしよっと? 淳」
特に驚いた様子もなく、淳は目を開いた。腕時計にちらりと目をやると、声の主――学の方を振り返り、穏やかな笑みを向ける。
「時間ぴったりやの」
「質問に答えろ」
「そげな、怖い顔せんと」
軽い笑い声を上げながらひらり、と片手を振ってみせた淳は、そのまま白い手すりに軽く凭れかかった。
「やっぱり、二人は来てくれんかったか……まぁ、ある程度は覚悟してたことやで、別にそれでも構わんけど」
ピリピリとした雰囲気を纏う学とは裏腹に、淳の方は自分でも怖いほど落ち着いていた。学の三白眼が迫力を帯びて、淳をぎろり、と睨みつける。淳は口元に笑みを絶やさぬまま、彼の目から視線を離さなかった。
「淳」
痺れを切らしたように、学が口を開く。「なぁに?」と淳が小首を傾げれば、苛立ったように小さく溜息を吐いた。
「おれを、ここまで巻き込んだんや。お前の中で何があったんか、そろそろ聞かせてくれてもよかろ?」
「せやなぁ」
のんびりと、淳が微笑む。
「がっくんには迷惑かけたし……俺も、誰かに聞いてほしかったし」
だからって、あの二人には絶対言われないことやけど。
目を伏せ、寂しそうに呟いた淳は、もう一度学と視線を合わせる。
学は相変わらず不機嫌そうに、淳を睨んでいた。けれどそれは、自分を案じてくれてのことであると十分すぎるほど分かっているので、怖いなどと微塵も思わなかった。
「……自分でも、邪魔くさいことしとると思う」
「わかっちょるやないか」
「うん」
茶化すようにぺろり、と舌を出してみせると、さらに睨まれた。学の反応が面白くて、こんな時なのに淳はつい笑ってしまう。
「ふざけるとこと違うぞ」
「ごめんごめん。……で、どこから話せばいい?」
「お前が、何を思ってこげなことしたか、じゃ。どうせ、あの二人との間に何かあったんが始まりやろうけどの。その辺のことから、よぉ聞かせぇ」
「わかった」
言うても、大したことじゃないんやけどね……と前置きし、淳が穏やかな表情を崩さないまま、これまでのいきさつを話し始める。
和也の音楽活動が順調なこと、和也がどんどん遠い人になっていきそうで不安だったこと、そして……今年度いっぱいで、充紀が転勤によりアパートを出ることが決まったらしいということ。
淳の口から一つずつ明らかになっていく出来事を聞きながら、学は眉間のしわを徐々に寄せていった。
「二人はの、何も悪くないんや」
学の心情を知ってか知らずか、淳は落ち着いた口調のまま続ける。しかし表情は少しずつ、寂しそうに、切なそうに、歪んでいった。
「俺が、いつまで経っても成長できてへんままなんよ。こういう変化が、いずれ訪れることは当たり前のこと。みっくんがいずれ転勤することになるだろうことも、和くんの才能が徐々に世間へ知らしめられていくことも……そう、全部当たり前のことやった。いつまでも、一緒におられるわけがないってこと。この日常は、いずれ失われてしまうってこと」
そんな単純なことにも気付けんかった……俺は、馬鹿や。いつまでも、幼稚なままや。
「みっくんだけじゃなくて、和くんも……いつかもっと有名になったら、首都へ行くに決まっとるやろ。今みたいに複数人で住むような安いアパートじゃなくて、もっと広々した、高級なマンションにでも引っ越すに違いない。そしたら……俺は、独りぼっちになる。こっちに残っても、実家帰っても……どっちにしろ俺らは、バラバラになる」
それが、怖かった。
「だから……こんなことしたんけ? 篠宮充紀と五十嵐和也に、お前の存在を忘れさせないように。離れても、二人の心ん中にお前の存在ば刻み込むために」
学のドスの効いた問いかけに、淳はゆるりと首を振った。
「ちょっと、違う」
そんな卑怯な気持ちも、ちょっとはあったけどね。
にっこりと、淳は笑う。こんな時なのに、その澄んだ笑顔は、学の目にひどく綺麗なものとして映った。
「さっきも言うたけど、二人は何も悪くない。単なる俺の、気の持ちようだから。一人でも、ちゃんと節度のある行動ができるように……実家を出てから、わざとアパートに帰らんと、色んな場所転々とした。友達に世話んなるのは、簡単やけど、それじゃ何も変わらんから。だから、その辺のビジネスホテルに泊まったりとか。たった数日やけど、一人で行動してみて……なんか、変われるかなぁって、思って」
「おれたちを……おれとあの二人を、ここに呼び出そうとしたのは?」
「まぁ、一種の賭けみたいなものかな。がっくんにもし、あの手紙が届いてくれたら。がっくんを通して、二人に俺の真意が分かってもらえたら……いいなぁって。まぁ、ホンマに勝手やけど」
「回りくどいんじゃ、ボケ」
「そうだね」
学の悪態に傷ついた様子もなく、「ごめんね?」と淳が笑う。
それからふと、不安そうに表情を曇らせた。
「俺、帰れるかな。こんなことして……呆れられとるかも。二人はまた、俺を迎えてくれるんやろうか。駄目なら、また実家に戻らないと。あぁ、でも職場まで遠いなぁ。新しくアパート借り直した方がいいやろか。それとも、しばらくの間だけでも、大学時代の友達に泊めてもらおうか……」
「馬鹿じゃないの」
懐かしい声が、聞こえる。
言葉を止め、驚きに目を見開いた淳の前に、草陰からひょこり、と二つの姿が現れた。どうやら今まで隠れて、淳と学の話を聞いていたようだ。
「みっくん、かずくん……」
突然現れた二人を見てぽかんとする淳に、まずは和也が近づいていく。今まで淳の前にいた学は、ニヤリと口角を上げると、彼にその場を譲るようにして下がった。
「じゃあ、おれはそろそろ帰るけぇの」
そう言い残して去っていく旧友を、淳は追いかけることもできないまま、その場に呆然と立ち尽くしていた。
「淳」
じゃり、と音を立ててこちらへ近づいてくる和也に、名を呼ばれる。その声には、歌う時のような力強さも、普段『淳ちゃん』と呼ぶ時のような甘さもない。けれど、確かに優しかった。
和也は落ち着き払った笑顔のまま、淳に手を伸ばし、そして……。
――パンッ、
その頬を、ひっぱたいた。
「っ……」
頬に、じわじわとした痛みと、僅かな熱さが残る。そんなに強い力ではなかったけれど、淳を絶句させるのには十分すぎるほどの衝撃だった。
「――覚えてるかな」
静かな、けれど少しだけ泣きそうな声で、和也が言う。淳はひそかに、眉根を寄せた。
「オレがまだ、家族に対して素直になれなかったとき。ユッコが、オレの頬をこうやってひっぱたいたこと」
それはもう、二年ほど前のことだろうか。
家族に裏切られたと思い込んだ和也が、姉である由希子を突っぱねた時……彼女は、メイクがぐちゃぐちゃになるのも構わず、泣きじゃくりながら和也の頬を張ったのだ。
今、和也が淳に対してそうしたように。
「淳は、言ってくれたよね。ユッコが本当に、オレのこと家族だと思ってなかったら……本当にオレを案じ、慈しんでなかったら、あんなことできないんじゃないかって。大切に想っている相手じゃなきゃ、できないことだって」
ねぇ、どういうことだか分かる?
和也に尋ねられ、淳は戸惑ったように口を開閉させる。助けを求めるようにして、後ろにいる充紀をちらりと見るが、彼は何も言わずに微笑むだけ。けれど、その目は今にも泣きそうに潤んでいた。
和也に視線を戻す。小さく首を傾げると、和也は口元に手を当てて、小さく笑った。
「オレは、離れていかないよ」
ずっと不安だったことを言い当てられ、淳はどきりとする。
「ずっと、淳を――あのアパートで、三人仲良く過ごした日々のことを、大事に思い続ける。そりゃあ、これからの活動次第では、引越しも考えてるのは事実だけど……だからって、心までバラバラになるなんて考えないでよ。せっかく出会えたのに。そんなの、悲しすぎるじゃん」
いつものように、明るい笑みを浮かべる和也。淳の視界が少しずつ潤み、その姿がぼやけていく。頬に熱いものが伝って、自分が泣いていることに気付いた時、いつの間にか和也と充紀が近くまで来ていた。
充紀に手を引かれ、思わず目を瞑る。
すっかり汗の引いた身体が、ふわりとあたたかな体温に包まれた。
「ごめんな、淳」
背負わせて、ごめん。
耳元で――今まで一緒に過ごした中で、きっと一番近い距離から、充紀の声が響く。
「俺も、転勤したってずっと、忘れないから。三人で過ごした時のことを、ずっと大事に思ってるから」
ふ、と充紀が息を吐く。心なしか、震えているようだった。
「……もっと、上手く伝えられたらいいんだけど」
ポンポン、と軽く頭を撫でられ、泣きやもうとしていた淳はついに涙を止めることができなくなった。
「こうなる前に、ちゃんと話していればよかったのかもね」
その隣で、和也が付け加えるようにして言う。
二人の優しさが染みてきて、自分の浅はかさが恥ずかしくて、淳は充紀にしがみつくようにして抱きつくと、その肩口に顔を埋めた。
ごめんね、と何度も繰り返しながら泣きじゃくる淳を、充紀も、和也も、静かに受け止めてくれた。
かつて充紀にとっての思い出の場所であり、和也にとっての恰好の練習場であった、いつまでも優しく変わらないこの場所で。
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