ようやく見えた未来像

『次は――……』

 紡がれるアナウンスを聞くとはなしに聞いた淳は、重い身体を持ち上げるようにして席を立った。

 乗っていた電車を降り、駅の出口まで歩いていく。その表情は疲れきったようにも、どことなく充足しているようにも見えた。

 普段住んでいるアパートがあるこの街に足を踏み入れるのは、およそ一か月ぶりだ。しかし、それよりもずいぶん長いこと離れていたような錯覚に陥った。

 駅員に切符を手渡すと、淳は駅を出る前に一度立ち止まり、ぐるりと一度首を回した。サラリーマンみたいやなぁ、と思いながら、いつもの充紀の姿を思い出して思わずクスリ、と笑みを零す。

 出口をくぐると、すぐ近くに駐車場が見える。そこで、充紀と和也が待っていてくれた。丁寧に車から降り、淳を出迎えてくれる。

「お帰り、淳ちゃん」

「お疲れ、淳」

 二人の姿に一瞬目を見開いた淳は、やがてふわりと安心したように表情を崩した。

「来てくれたんや、二人とも」

「当たり前だろ」

「充紀くん、そのために今日は早く帰ってきたんだよ。過保護だねぇ」

「うっせ。お前だって今日はストリートライブ早めに切り上げてきたとか言ってたくせに」

「そーだよ、だって淳ちゃんが帰ってくるんだもの。ねぇ?」

「お前だってじゅうぶん過保護じゃん。お母さんかよ」

「じゃあ充紀くんはお父さんだ」

「俺ら夫婦かよ」

 言い合いしつつも交互に頭を撫でられ、つい頬が緩む。大人の男三人が戯れ合っている光景というのは、周りから見ればちょっとどころでないほど奇妙なのだが、三人は今更気にしていなかった。

「よし、じゃあ帰るか」

「うんっ」

「夕飯できてるよ」

「今日は何?」

「今日は淳ちゃんが帰ってくるから、奮発したんだ。みっくん&和くん特製、ミネストローネ!」

「二人で作ってくれたの? ふふ、楽しみ」

「どうでもいいけど、お前にみっくんって言われるの、何かやだな。自分で和くんって言ってるのも痛いし」

「何それ酷い!」

「まぁまぁ、落ち着いて和くん」

「むー。充紀くんって、いっつもオレに対してだけ厳しいよね。淳ちゃんには甘いくせに」

「案外、愛情の裏返しかもしれないよ?」

「そうだよ。俺なりの愛だと思え」

「ずいぶん歪んだ愛な気がする! 素直に愛してよ、あなた!」

「気持ち悪い」

「ひどっ!」

 相変わらずの二人の応酬に、いつの間にか落ち着きを感じている自分がいる。車に乗り込んでからも続けられる騒がしい言い合いに笑い声を上げながら、『あぁ、帰ってきたなぁ』と、淳は人知れずしみじみ実感していた。


    ◆◆◆


 辿り着いたアパートの駐車場で車を停めると、それぞれ運転席と助手席から降りた年上二人の後に続き、後部座席から降りた淳は足取り軽く鉄階段を上っていく。

 そして久しぶりに、三人で共同生活を送る部屋へ入った。

 実家へ帰ってきた時のような安心感に包まれ、淳は笑みを零す。何だか、不思議な感覚だ。

 一足先に入った充紀と和也が、振り返りもう一度「お帰り」と言ってくれる。それが嬉しくて、淳は満面の笑みで「ただいま」と、そういえばまだ言っていなかった言葉を口にした。

 いつもなら最後に帰ってくるのは充紀なので、出迎える側の二人も、出迎えられる側の淳も、何となく新鮮な気持ちになる。

 淳は充紀がいつもそうしている時のように、着ていたスーツの上着のボタンを外し、ネクタイを締めた首元をぐいっと緩めた。

「お疲れ様」

 初めに反応したのは、和也だ。淳が脱いだ上着と、外したネクタイを自然に受け取り、ハンガーへ掛ける。

 充紀はダイニングテーブルの、いつもの定位置で頬杖を突き、ふわりと優しげに目を細めながらその様子を見守っていた。

 そんな充紀と、気だるげに首を回す淳を交互に見て、和也はプッ、と吹き出す。

「何、どしたの和くん」

「何だ、何が可笑しいんだ和也」

「いや、なんかさ……」

 怪訝そうに尋ねてくる二人に、クスクスと笑いながら和也が答える。

「まるで、親子みたい」

 知らない間に、仕草が似てきたね。

 充紀と淳は、同時に目を見開き……そして、ほぼ同じように頬を赤らめ、ふいとそっぽを向いた。


「で、どうだった? 教育実習」

 淳が帰ってくる前に作り終えていた夕食を温め直しながら、和也が問う。充紀もまた、興味津々といった様子で淳を見た。

 大学四回生向けに毎年行われる、教育実習。行く先は大抵の場合、それぞれがかつて通っていた母校と決まっているらしかった。そのために淳は、実家へ帰っていたのだ。

 部屋着に着替えすっかりリラックスモードに入っていた淳は、ソファにゆったりと座って、ぼんやりとした声で答えた。

「先生って大変な職業やなぁって、つくづく思った。人前で黒板使ってもの教えるのって、ホンマ難しなぁ。でも、結構やりがいがあったよ。生徒たちとの触れ合いも、楽しかったし」

「中学校だっけ?」

「そう」

「確か、三週間だったか。頑張ったな」

「うん。ありがと」

 答えた後、何かを思い出したのか淳はクスリと笑った。「どうした?」と充紀が問えば、「いやね」とクスクス笑いながら言葉を続ける。

「俺が入らせてもらったクラスのみんながさ、百瀬先生って呼びにくいのって言い出して」

「あー、確かに」

「『もも』『せせ』って、同じ文字が続くからね」

「うん。んで、二日目くらいにある子が、俺んこと呼ぼうとしたら……舌回らんかったんやろね。『モモ先生』ってちょっと噛んじゃったというか、言い間違っちゃって」

「あら」

「んでまぁ、案の定その呼び名が定着して。挙句の果てには『モモちゃん』なんて呼び出す子まで出てきたんよ」

「モモちゃん……」

「モモちゃんって」

 頬杖を突いていた充紀は呆れたような苦笑を浮かべ、温めた鍋の中身を時折かき混ぜていた和也はプッと吹き出す。

 そんな二人の反応に気をよくしたらしく、淳は機嫌良さそうに頬を緩めた。

「中学生の発想って、おもろいの。ホンマ、かわえぇわ」

「お前とそんな年変わんないだろ」

「みっくん、俺のこといくつだと思ってるの。言っとくけど、いつまでも子供じゃないんだからね」

「はいはい、わかってますよ」

「ホントに分かってんのかなぁ、もう……」

 からかう充紀を軽く睨みながらも、頬を緩める淳。本当にまるで親子みたいな姿――と言ったら、また二人は照れてそっぽを向くかもしれないが――を横目で見た和也は、何となくホッとした気持ちになった。

 ――よかった。楽しかったみたいで。

 ちらりと充紀の方を見れば、悪戯っぽさを残しながらも見守るような優しげな瞳とぶつかった。

 充紀もきっと、今の自分と同じことを考えていることだろう。

「やっと、現実味を帯びてきた感じがする」

 いろいろ迷っていたけれど、と付け加え、淳がポツリと呟く。

「これから何回も遠回りをするんかもしれんし、案外スッと近道通ったりするかもしれん。俺がどうなるんか、まだ分からん部分はあるよ」

 発された独白めいた台詞に、充紀と和也はそっと聞き耳を立てた。口をさしはさむことなく、ただひっそりと、静かに。

「でも今、これだけは言える」

 ふ、と淳は笑った。その横顔は、初めて会った時よりも――言っても、期間で言えばほんの三年ほどしか経っていないのだが――ずいぶん大人びて見える気がする。

 きっと三週間の教育実習でも、何かしら得るものがあったのだろう。

 充紀と和也の顔を交互に見て、淳は自分に言い聞かせるかのごとくゆっくりと、噛みしめるように呟いた。

「俺、社会科の先生になりたい。胸張って、みっくんや和くんと並んで歩けるような、立派な大人に……なりたい」

 やっと、答えが出せた。

「何年かかるか分からんし、その先にも苦労は待っとると思うけど……頑張ってみる」

 だから、俺のこと応援しててくれる?

 最後だけ、首を傾げてそう問われた。その瞬間一気に子供っぽさが戻った気がして、充紀も和也もつい吹き出してしまう。

 穏やかな笑みを浮かべた二人は、ほぼ同時に答えた。

「「もちろん」」

 それは、淳の背中を押す一言。

 さんざん苦労した挙句、ようやく一つのスタートラインに立てた若者を、鼓舞するための言葉だった。

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