一歩の踏み出し

 薄暗い中に明かりがちらほらと灯る、大きなビル。傍らの看板に会社名が記されているそこは、ちょうどこの時間に帰宅する社員が多いのか、人の出入りが多い。

 ちょうど空いていた駐車場で一時的に車を止めると、運転席から降りた和也は辺りを見回した。こちらへ駆け寄ってくるスーツ姿の男に、満面の笑みで手を振る。

「充紀くん、お疲れ」

「おぅ。迎えありがとな」

 和也の邪気のない笑顔に、軽く口角を上げて答えた充紀は、和也が運転してきた車の助手席に乗り込もうと、ドアに手を掛けた。

 ……と、ちょうどその時。

「おい」

 不意に掛けられた不遜な声に、反射的に振り向く。一足先に運転席へ戻っていた和也もまた、窓を開けて声の主――その人物を見た。

 いつの間に入ってきたのか、彼らの傍には淳と同年代くらいの青年が立っていた。明るい髪と乱れ気味の服装がそう見せているのか、少し軽薄そうな雰囲気を纏っている。目つきはあまり良いとは言えず、小柄でありながら充紀を、そして和也をじろりと睨むその視線にはある種の迫力さえ感じさせた。

 チャラチャラした若者が苦手なのか、充紀が少し不愉快そうに眉根を寄せる。青年は特に気にした素振りもなく、口を開いた。

「あんたら、百瀬淳のルームメイトじゃろ?」

「……そうだけど、何で知ってんだ」

「君は、淳の知り合い?」

 充紀の警戒するような少し低めの声に、被せるように和也が能天気な声を出す。青年はほんの少し気まずそうに目を逸らすと「幼馴染だよ」とだけ、ぶっきらぼうに答えた。

「ちなみにあんたらのことは、淳に聞いた。写真も見してもろうたで、顔も知っちょる」

 せやから、こうやって声掛けられたんよ。

 なんだか、妙なイントネーションの混じった喋り方だった。うさんくさいと思いながらも、そういえば淳が『久しぶりに幼馴染に会った』というようなことを言っていたな、と充紀はふと考える。

 ということは、この妙な青年がそうなのか……?

「あのさ」

 続きを促す前に、青年本人が自ら話を進める。自分たちに何の用があるのか、と尋ねようとした口は、自然と閉じられた。

「淳のことで、ちょっと耳に入れときたいことがあっての」

 軽薄そうな見た目からは想像もできないほどに、真摯で荘厳な声。つり気味で印象のよくない目には、強い意志とまっすぐな光が宿っている。

 ちょっと時間くれんか、との申し出に、二人は何の疑問も持たぬまま、自然とうなずいていた。


    ◆◆◆


 いつもより少しばかり帰りが遅れ、淳はさぞ心配していることであろうと思いながら、充紀と和也は連れ立って部屋へ入る。

「ただいまぁ、淳ちゃ……ん?」

「ごめんな、ちょっと遅くなっちまって……あれ?」

 ダイニングにいたしかめっ面の淳に、二人は揃って目を丸くした。

 怒っているのではないらしい。むしろ自分の世界へすっかり入ってしまっているようで、帰ってきた二人に気付いているのかいないのか、彼はそちらを一瞥もしないまま「んー」と曖昧な返事をよこした。

「……淳?」

「何考え込んでるの、淳ちゃん?」

 テーブルには薄いパンフレットが何枚かと、ホッチキスで留めたプリントの束が無造作に広げられている。淳は、それらを見て何やら思案に耽っているようだった。

 充紀が後ろからひょこりと覗くと、広げられたパンフレットやプリントには、比較的目立つゴシック体でそれぞれ見出しが書かれている。

 一つには『教育実習のご案内』。

 もう一つには『教員採用試験について』。

 それからもう一つ、『大学院進学ガイド』。

 充紀のさらに後ろからそれらを覗いたらしい和也が、「あぁ」と小さく声を上げた。

「なるほど。進路、だいたい絞れてきたんだね」

「まぁね」

 視線の先は変えないまま、淳が答える。どうやら、二人の帰宅にはちゃんと気づいていたらしい。

「歴史関連で進路を決めるなら、学芸員……博物館とかの職員か、社会科教師か、大学残って研究するか、なんやけどさ……とりあえず教師目指すか大学院行くかのどっちかにしようかなって」

「学芸員、だっけ。それは?」

「学芸員は、非正規雇用……まぁ、いわゆる派遣さん? 要は、正式に雇ってもらわれんことが多いの。生活も安定しないし……だから、仮に資格取ってもあんまり意味ないかなぁって」

「なるほどね」

 ふむふむ、と訳知り顔でうなずく和也に、充紀もふぅん、と溜息にも似た相槌を打つ。

 専門的な分野のため比較的難しい話だと思うのだが、淳が分かりやすく噛み砕いて説明してくれたため、二人も何となくではあるが状況が飲み込めた。

 つまり、社会科教師になるか大学院へ進学するか、どうやらかろうじてその二択までには絞ることができたらしい。たくさんの選択肢からさんざん悩んでいた以前と比べたら、すごい進歩だと思う。

「んで、今何か考え込んでたのは、そのことか?」

 充紀が首を傾げて尋ねるのに、淳は「それもあるけど」と言いつつ緩く首を横に振った。

「来月……もうすぐ月変わるでほとんど時間はないんやけど、教育実習があるんやって。それで……行こうかどうしようか、って」

「何で? 行かないの?」

「うん……だって、教員採用試験は七月から始まるのに、何の勉強も対策もしてないしさ。どうせやるなら、長期スパンの方が確実かなって気もしてる」

「まぁ、確かにそうだな」

「それから……」

 そこで少し口ごもり、淳はうつむいた。影が落ちたことで、その横顔がさらに暗く見える。

 二人が無言で先を促すと、彼は弱気な声で続けた。

「……そう。もうどこにも逃げ場はないって、思ってたけど……大学の次は、大学院があるんやね……」

 充紀と和也は、そこでふと思い出した。帰りに声を掛けてきた、淳の幼馴染だという青年――小野寺学が言っていた言葉を。

『大学へ進学したことを、淳は「逃げ」だと思ってる』

 以前地元で就職しようとしていたという淳の過去を、二人はその時初めて聞いた。就職試験に落ちたため、大学への進学を選んだのだと。

 そして淳はそれを、『逃げた』と思い込んでいるのだと。

「どうせ来年教師になるなんてできないだろうから、大学院へ行こうかって、少し……いや、結構真剣に考えた。でもそれは、失敗が怖いからって、たまたま見つけた逃げ道に縋ろうとしてるだけ。そう、分かってる」

 分かってるからこそ、決断できないんよ。

 淳の独白と学から聞いた話の内容が、徐々に噛み合い、淳が未だ抱え続ける心の闇を少しずつ照らし出していく。

「俺は結局、ここまで来て……また、逃げるんだ」

 あぁ、という掠れた声とともに、淳は顔を上げた。自分の顔を片手で覆い、天井を仰ぐように椅子の背凭れへぐったりと身体を預ける。

「こないだみっくんに、過去に縛られるなって言われたばっかりやのに」

『淳を、救ってやってくれんか?』

 懇願するように揺れた、学の瞳を思い出す。

 見た目はあんなんだし、ちょっと変わった人間だと思ったけれど、彼も彼なりに淳のことを心配しているのだろう。

 なんだかんだ言っても淳は、いい友人に恵まれたと思う。

 本人に、言うつもりはないけれど。

「あかんね、俺……いつまで経っても、大人になれん」

 淳の口から零れた弱音を聞いた充紀と和也は、そっと互いに目配せし合う。そして……。

「っ!?」

 ほぼ同時に、淳の頭を叩いた。

 ぼすっ、ぼすっ、と左右から感じた衝撃に、淳は驚いて閉じていた目をぱっちりと開く。

 目の前に広がっていたのは、頼もしい二つの笑顔だった。

「そんなの、逃げじゃねぇよ」

 まず、充紀がそう言った。

 和也も同じようにうなずき、続ける。

「淳ちゃんは、立派な大人になりたいんでしょ?」

「そのためなら、遠回りだって必要なんだ」

「遠回り……?」

 今まで自分が『逃げ』と表現してきたものの、新たな観点と言い回しに、淳はさらに目を大きく見開いた。

 そ、と二人揃って力強くうなずく。淳の頭に乗せていた手を動かし、いたわるように撫でながら、和也が続けた。

「悩んで、迷って、挑戦して、失敗と遠回りを何回も繰り返して……そうやって、人ってのは成長してくの」

「みっくんもそうだった?」

「あぁ、そうだよ」

「和くんは?」

「オレだって、そうだったよ。今でもそう」

 自信に満ちたうなずきに、淳は信頼を寄せずにいられなかった。

 あぁ、二人が言うなら、きっとそうなんだな……。

「とりあえず、やってみな。お前、教師目指すつもりなんだろ」

「う、うん……一応は、そのつもりだけど」

「だったら、まずは教育実習に行って。大学院のこと視野に入れつつ、教員採用試験も今年やれるならやってみたらいいと思う。まぁ、無理にとは言わないけどさ」

「オレたちも、ばっちりサポートするよ。だから、頑張って」

 左右からわしゃわしゃと異なる力で頭を撫でられ、淳は張りつめていたものが全身からほろほろと解けていくような安堵を覚える。

 頑張ろう、と素直に思えた。

 これまで全く見えなかった未来への入り口が、徐々に見えてきたような……真っ暗な闇の中に希望が差したような、気がして。

 あぁ、何だ。もう少し早く、こうやって誰かに相談していればよかったんだな、なんて、今更なことを考える。

 きっと学が言っていたのは、このことだったのだ。

「ありがと、二人とも」

 俺、やれるだけやってみるよ。

 心に生まれた決意をそのまま伝えたら、二人は顔を見合わせ……花開くような、満面の笑みを見せてくれた。

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