旅立ちと門出

「え、採用試験受けないの?」

 久しぶりに訪ねた管理人宅で、ソファに座って紅茶を飲んでいた浩美は、驚いたように目を丸くした。

 その向かいのソファに座った淳は、彼女に向け穏やかな笑みを作る。

「何かさ、今年は見送ることにしたんだって」

 淳の隣で珈琲を飲んでいた和也が、淳の代わりに答えた。淳は何を言うでもなく、ただ黙ってうなずく。

「でもかずくん、言ってたじゃない。淳くんは頭いいって。今年受けても合格できたんじゃないの?」

 浩美の隣に座る由希子が、無邪気に首を傾げた。手にしているカップに注がれたハーブティーは、妊娠中の彼女のために浩美がわざわざ取り寄せたものらしく、ノンカフェインだという。

 穏やかな表情を崩さないまま、淳は静かに首を横に振った。

「やっぱり付け焼刃じゃ無理そうですし……大学の先生とも話したんですけど、そんなに甘い世界じゃないって。だから、やるならしっかり時間をかけてやりたいんです」

「じゃあ、来年はどうするの?」

「一応、講師登録ってのをしたんですよ。正式な教師になるまでは、勉強しながら臨時教諭としてこの街で働くつもりです」

「そっか」

 淳の言葉に納得したようにうなずく浩美の隣で、由希子は落ち着き払った笑みを浮かべる。そのお腹は少し見ない間に膨らんでいて、新しい命が宿っているということを否が応でも実感させられた。

「そういえばユッコ、ずいぶんお腹大きくなったね」

 そちらへ無遠慮に視線を注ぎながら、和也が言う。それを咎めることもないまま、由希子は自らのお腹を撫でながら「えぇ」と答えた。

「半年を過ぎたもの」

「もう、そんなになるんですね」

 彼女の妊娠を知ったのは、まだ春の始まりの頃だった。

 あの頃咲いていた桜は、今ではもうすっかり散り、新緑だったはずの若葉ももうほとんどが赤や黄といった彩り豊かな色に染まっている。つまりあれからもう、半年以上もの月日が流れたということになるのだ。

 時の経過を感じしみじみとする淳の横顔を覗き込むようにして、和也が曖昧な笑みを浮かべる。

「いろいろ、あったもんね。特に淳ちゃんは」

「……うん」

 なんだか照れくさくなって、淳はそっぽを向いた。

 就職のガイダンスを何度も受けた。説明会を聴くために、たくさんの企業を回った。ただ漠然と、大学四回生としての毎日を送っていた。

 そんな時、学と再会して……今まで見て見ぬ振りをしてきた、自らの心の闇と、改めて向き合うことになった。そして学と、同居人の二人が、迷う自分の背中を押してくれた。

 あれ以来、大学の先生とも以前より積極的に話すようになった。離れて住む家族にも、一緒に住む充紀や和也にも、これまで相談しようとしてできなかったことを包み隠さず相談できるようになった。

 悩んで、迷って、周りに励まされて……そうやって日々を積み重ねて、それで今の自分がいる。

 あの頃は、未来の自分がどうなっているのか全く見えなくて、そのことに不安と焦燥を感じていたけれど……ある程度月日が過ぎてしまった今となっては、そんなものなのかなぁと、割と冷静にこの現状を受け入れている自分がいる。

 来年からは、この街のどこかの学校で、臨時教諭として働いているのだろうか。うまいこと空きが見つかればいいが……そうでなければ、否が応でもどこかで働くしかないだろう。しかしその時には和也がバイトを紹介すると言ってくれているし、大学の先生からも仕事を手伝ってもらっていいと声掛けをもらっているから、あまり心配していないというのが正直なところだ。

 以前なら、自分はまた逃げるのかと、自己嫌悪に陥っていただろう。

 でも、今は……。

「たくさん遠回りをした方が、成長できるんよね」

 誰にともなく、呟いた言葉。

 隣にいた和也も、向かいで彼を見守っていた浩美や由希子も……小さく目を見開き、やがて穏やかに微笑んだ。

「若いうちに色々な経験積んどくのは、いいことよ」

 と、浩美。

「人生には、少しくらいの波乱も必要だと思うわ」

 と、由希子。

「そう」

 最後に、淳の頭を撫でながら和也が言った。

「これからも、大変なことはたくさんあると思う。でもそれが、淳の人生ってものだから……ね。胸張って、行っておいで」

 三人を順番に見ながら、淳は笑顔でうなずいた。

「ありがとう、みんな」


    ◆◆◆


「ほんなこつ……」

 駅のホームをバックに立ち、古びたキャリーバッグを持っていた学は呆れたように、それでいて少しだけ照れ臭そうに頭を掻いた。

「わざわざ三人揃って来るなんて、ほんなこつ暇な奴らじゃのぅ」

 右腕を充紀の左腕に、左腕を和也の右腕にそれぞれ絡め、淳は機嫌良さそうに「へへん」と答えた。

「だって俺、久しぶりにがっくんに会えて、嬉しかったんよ。お礼も言いたかったし……何より、二人にも会わせてあげたかったから」

 充紀と和也を交互に見ながら、淳が弾むような声で言う。充紀と和也は、淳越しに目配せし合い……それからほぼ同時に学の方を見て、気まずそうに苦笑を浮かべた。

 結局、あの日のこと――充紀と和也が学に会い、話を聞いた日のことは、淳に打ち明けていない。というのも、学があの日『頼むで、淳には今日のこと言わんとってけぇ』と頼んできたからだ。

 もしかしたら、照れ臭かったのかもしれない。学が何より淳を心配していたということを、淳本人に知られることが。

 不遜な態度といい、軽薄な見た目といい、決して印象は良くなかったものの、小野寺学とは本当はいい奴なのかもしれないと……いや、間違いなくそうなのだろうと、二人は思う。

 だって、淳がこんなにも信頼を置いている幼馴染なのだから。

「ほら、二人とも。がっくんに自己紹介しね」

 何も知らない淳に促され、充紀と和也は順番に名乗ることにした。

「初めまして。淳と同居してます、篠宮充紀です」

「同じく、五十嵐和也です」

 嫌がらせのようにわざとにこやかな笑みを浮かべてみせれば、学は耐えきれなくなったようにそっぽを向き、淳にできるだけ悟られないようクククッ、と小さく笑った。

「んや……話には、聞いちょるよ」

 にぃっと見せた八重歯は小ぶりで、鋭いけれど子犬のように可愛らしい。

「おれは、小野寺学。淳の幼馴染じゃ」

 よろしゅうの、と差し出された手を、充紀と和也が順番に握る。握手を終えた学は、少し自嘲気味に呟いた。

「まぁ、もう知り合って早速お別れせなあかんけどの」

 淳の顔が曇った。

 この街にかれこれ半年(本人いわく、これまでで最長記録らしい)滞在していた学は、今日再び出発するという。

 気分屋な学のことであるから、いつかはこんな時が来るだろうと、ある程度覚悟していたはずだ。とはいえ、やはりその時が来ると寂しいものは寂しいな……と、淳は心細く思ってしまっていた。

「……今度は、いつ会えるん?」

「言うても、気ままな旅やけんね。いつか気が乗ったら、そん時またこの街に……お前の顔見に、来たってもえぇよ」

 遠まわしな言葉は、きっと彼なりの照れ隠し。

 今まで彼がどこにも行かず、長いことこの街に滞在していたのは、きっと淳のことが心配だったからだろう。

 けれど学は照れ屋だから、面と向かっては言えないのだ。

「何ニヤついてんねん」

 じろりと睨まれるが、それもあまり怖くはなかった。初めて会った時と違って、彼の本当の姿がどんどん見えてきているからだろうか。

 彼が本当は優しい人間なのだと、淳からの受け売りでなく、自分たちも少しずつではあるが理解し始めているからなのだろうか。

「いいや、何でも。なぁ、和也?」

「そうだよ。ねぇ、充紀くん?」

 ふふっ、と笑いあう二人を、不機嫌そうに見つめる学。そんな三人に、淳は首を傾げた。

「初対面のはずやのに、やたら仲良ぅなるの早いねぇ」

 がっくん、人見知りやのに。

 不思議そうに放たれた言葉に、学の表情が軽くひくついた。一方の充紀と和也は、意外そうに目を見開く。

「え、だって……」

 あの時は初対面であるはずの自分たちに、あんなにためらいもなく声を掛けてきたのに。

 なのに、人見知り?

 唖然とする二人と、未だ不思議そうに首を傾げる淳。いたたまれなくなったのか、学は「とにかく!」と取り仕切るように大声を上げた。

「おれ、もう行くでの」

 直後、タイミングよく彼らのいるホームに電車が来る旨のアナウンスが鳴り響いた。もうそんな時間かと、三人は我に返る。

 改めて向き直った淳は、また寂しそうな顔に戻り、言った。

「また、絶対この街に来ねの。半年おったでわかると思うけど、えぇとこやざ」

「ん」

 まぁ、気が向いたらの。

 そっけない答えを残し、軽快な音楽と共にホームへ着いた電車に乗り込む。ドアが閉まる間際、学は三人に向けて一瞬だけニヤリと笑いかけ、それからひらりと軽く片手を振った。

 数分の猶予も与えられぬまま、電車は学を乗せて走り出す。

 ガタン、ゴトン……。

 その姿が見えなくなってからも、淳は彼の消えた方向へ、名残惜しげに手を振り続けていた。


「――お別れだな」

 充紀の呟きに、ようやく手を下ろした淳は力なくうなずく。まだしばらくは、友人との別れを惜しむ気持ちが強いままだろう。

 できるだけそっとしておいてあげようと思いながら、和也はうなだれた淳の頭をそっと撫でた。


 だが――……。


 淳も、そして和也も、まだ気づいていなかった。

 充紀がこの時発した、言葉の真意に。

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