由希子、ママになる

 太陽の淡い光が差し込む一室で、ゆったりとした赤いマタニティウェアに身を包んだ由希子は、ソファに足を投げ出すようにして座っていた。時折膨らんだお腹に、愛おしそうに指を這わせる。

 部屋には音楽が流れているが、それは一般的に胎教にいいと言われているクラシックの類ではなかった。

「オレの歌で、お腹の子にいい影響与えられるのかな」

 流れる曲を歌っている張本人であり、お腹の子の伯父にあたる和也は、由希子の向かいのソファに座って照れ笑いを浮かべていた。

「もちろんよぉ」

 口調はいつも通り茶目っ気たっぷりに、けれど母性に満ち溢れた瞳で、由希子はのんびりとうなずく。

「なんてったってかずくんは、あたしの自慢の弟なんだから」

 かずくんの気質を、この子にも受け継いでほしいのよ。

 そう話す彼女は、これまで通り姉の側面のようにも、和也が知らない母親としての側面があるようにも見える。いずれにせよ、女性とは改めて強い生き物なのだと、しみじみ感じずにはいられなくなってしまった。

 深山が仕事でいないとき、和也はたびたびこうして由希子の様子を見に来るのが日課になっていた。妊娠して以来由希子が買い物以外に家を出ることはほとんどないし、管理人の浩美もアパートにいるから大丈夫なのだとはもちろん分かっているけれど、やはり男手のない環境で妊婦を一人にしておくのは、いささか不安が残る。

 ……というか、単に由希子のことが心配なだけなのだが。

 充紀に『お前って、本当シスコンな』と苦笑されたことは、まだ記憶に新しい。しかし、これだけはどうしても致し方ない話だ。

 ちなみに、由希子をこれでもかと心配しているのはもちろん和也だけではないようで……。

「あ、電話だ」

 テーブルに置いてあった由希子の携帯電話が、ころころと鈴のような音を立てる。お腹の子を刺激しないよう、着信音も比較的おとなしめのものに設定したらしい。

 和也が由希子に携帯電話を渡すと、「ありがとう」と小さく微笑んだ由希子は、着信相手を見てさらに破顔した。

「やだもう、ホント心配性」

 画面をタップして、電話を繋ぐ。耳を澄ませば、相手の声が僅かに和也の方にも漏れ聞こえてきた。

「もしもし、あーくん?」

 『あーくん』こと由希子の旦那は、仕事に行ったあとも暇を見つけては由希子に連絡してくる。変わったことはないか、身体の調子はどうだ、今日は何時に帰るから……いつもそんな(由希子にとっては)至極とりとめもない話題ばかりなのだと、由希子は苦笑気味に語っていた。

「うん……そんなに無理しなくていいからね、ちゃんとお仕事してね。あたしは大丈夫だから。何かあったら浩美さんも来てくれるし、今日はかずくんもいるし。……うん、うん。分かってるわよ。ちゃんと頼る。何かあったらちゃんと連絡するから。うん……」

 しばらくの問答のあと、由希子は電話を切った。ソファに凭れて待っていた和也に向けて、呆れたような笑みを浮かべる。

「あーくん、いつも電話かけてくるね」

「ホント……大丈夫だって言ってるのに」

 困ったものだわよ、などと由希子も口では言っているが、やはり父親として、お腹の子のことを気に掛けてもらえているのが嬉しいのだろう。

「心配なんだよ。オレも、すごく気持ちわかるもん」

「あら、かずくんもあたしのこと心配してくれてるの?」

 もちろん図星なのだが、面と向かって言われるとなかなか素直なことを言う気にはなりにくいもので。

「……別に、そういうわけじゃないよ」

 男手がないと物騒だなって、ちょっと思っただけだから。

 ぶっきらぼうに言って、ふいとそっぽを向く。由希子は何もかもお見通しだとでも言うように笑うと、「ありがとうね」と囁くように言った。

「そ、それよりさ」

 雰囲気にいたたまれなくなって、和也は話題を戻そうとする。

「あーくんさ、いざ子供が生まれようものなら、きっと毎日早く帰ってくるだろうね。すごくいいパパになると思うよ」

「ふふ、そうね」

 由希子は照れ臭そうにうなずいて、もう一度お腹に触れた。「動いたよ」と微笑めば、和也が興味津々といった表情で乗り出してくる。

「触ってみる?」

「いいの?」

「だってかずくん、この子の伯父さんでしょう」

 ね? と小さく首を傾げると、和也は緊張したようにごくりと唾を飲んだ。ソファから立ち上がり、そろそろと由希子に近づく。

 ふっくらとした大きなお腹に、和也は内心ドキドキしながら手を伸ばした。意外と弾力のある皮膚から、微かな振動が伝わってくる。

「うわぁ……」

 大げさな話だが、自分の手に『生命』を感じたような気がして、和也は思わず感嘆の声を上げた。改めて母親という存在の偉大さを実感する。

 目をきらきらさせる和也を見て、由希子はひどく優しげに微笑んだ。その姿に、和也はまだ見ぬ本当の母親の面影を重ねる。

 彼女もかつて、同じ顔をしていたことがあったのだろうか……。

 もちろん、五十嵐の母親も和也の母親であることに変わりはない。まさに今の由希子にそっくりな母性に満ちた彼女は、いつもその優しさで和也を包み込み、突き放してしまった時でさえ常に自分の身を案じてくれていた。

 常に身近な存在だった育ての親と、どこの誰かさえ知らない産みの親。

 考えがいまいちまとまらない頭で二人のことを思いながら、和也はその温もりを欲するように、縋るように、活発に動く由希子のお腹に手を這わせ続けていた。


    ◆◆◆


「深山くん」

 食堂でもどかしそうに携帯電話をチェックしている深山を見つけて、充紀は『またか』というような顔をした。自分も親になったら彼のような気持ちになるのだろうか、としみじみ思う。

 彼の妻である由希子が第一子を出産したのは、もう一月も前のこと。会社の計らいで少しの間育児休暇を貰っていた深山は、こうして仕事に復帰してからもどこか上の空で、暇さえあれば由希子と生まれた子供のことを気にしているようだった。

 充紀に気付いた深山は、気まずそうに苦笑した。

「篠宮さん……いや、見苦しいところを」

「ユッコさんと赤ちゃんの様子はどう?」

 彼の座るテーブルの向かい側に定食の乗ったお盆を置き、充紀は訳知り顔で尋ねる。えへへ、と覇気などすっかり抜けきった締まりのない笑みが返ってきた。

 紅潮する頬からも、どれだけ嬉しいのかがうかがえる。

「俺も全面的に協力したいから、なるべく早く帰るって言ってるんですけど……由希子ってば、仕事の方が大事でしょ、なんて」

「いい奥さんじゃないか」

 定食の肉じゃがをつつきながら、充紀は感心した。

 さすが、あの和也の――厳密に言えば、血は繋がっていないのだが――姉であるだけのことはある。

「おかげさまで」

 既に食事は終えていたらしく、のんびりとお茶を飲みながら、深山はどこか自慢げに答えた。

 子供が生まれると、夫婦間の愛情は冷めてしまうものだと聞いたことがあるけれど、深山にその様子はなさそうだ。むしろ由希子でさえ鬱陶しがりそうなほど、母子ともども溺愛しているだろうことが、見なくても分かる。

「で、男の子だっけ」

「そうです。ホント、毎日元気で……」

「名前はどうしたの?」

 そういえば聞いていなかったことを、ふと深山に聞いてみる。深山は待ってましたとばかりに身を乗り出してくると、持っていた携帯電話に何やら打ち込み始めた。

「『ゆうや』です」

 少しして深山から見せられた画面には、ご丁寧に眠る赤ん坊の写真付きで『佑也』と記されていた。『佑』の字を指しながら、深山が饒舌に解説を始める。

「この字には、人を助けるという意味があるんです。見返りとかそういうのを抜きにしても、人を助けてあげられるような優しい子になりますように、って」

「いい名前だね」

 と、そこで充紀はふと気づいたことがあった。隣の『也』という字を指さし、まさに幸せの絶頂とでも言わんばかりの深山に尋ねる。

「和也の『也』だよな?」

「そうなんです」

 いいところに気付きました! と深山はさらに興奮したように言った。

「この子が生まれる前、由希子が言ったんです。生まれてきた子供の名前には、和也の名前を一文字入れたいって。だから、もし女の子だったら『和花わか』って名前にするつもりでした。ほら、あいつ和也のこと大好きだから」

「まぁ、否定はしないけど……深山くんは、それでよかったの?」

 充紀が首を傾げると、深山は迷いもなくうなずいた。愛おしそうに細められた瞳が、柔らかく光る。

「由希子の気持ちを、否定はしません。俺は、そういうところも含めて彼女を愛しているんですから」

 彼と由希子は、幼馴染だったという。

 きっとその頃から二人の間にあったのであろう絆に、その深い想いに、充紀は純粋な憧れと羨ましさを覚えた。

 そんな風に、自分もいつか人を愛せたなら。

 そうして、生まれてきた子供を――二人の結晶を、二人で慈しみ育てることができるなら。

「そういうところに関しては、深山くんの方が先輩だね」

「はい。篠宮さんもご結婚された時には、安心して俺のこと頼ってくださっていいですよ」

「そうする」

 守るものが増えた『父親』としての彼の顔は、これまでにないほど輝いていて……それが充紀にはただ眩しく、誰よりも頼もしく映った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る