涙をこらえ、それぞれの道へ

 十一月下旬、少し肌寒くなってきた頃に、淳の受けた教員採用試験の結果が届いた。

 結果から言えば、一勝一敗。つまり、故郷の採用試験は受かっていたが、現在住んでいる地方での採用試験は落ちていたのだ。

 こうして淳は、来年度からアパートを出て実家へ戻り、故郷で教員となることが決まった。

「これで、良かったんかもしれん」

 ヘタに選択肢があると、また迷ってしまうから。

 そう言った淳は、心中にはきっと複雑な思いを宿しているだろうに、どこか清々しくあっけらかんとした顔で笑っていた。

 ちなみに、九月ごろから続けられてきた『修業』は、無事に成果が出たようだ。充紀が言っていたように、淳は不器用ながらも呑み込みが早いので、少しずつではあるができることが増えてきた。

 年末には、ひと通り全ての家事をこなすことができるようになったので、約束通り年明けに『成果発表』を行った。他の部屋より広い造りとなっている、管理人である浩美のアパートを借りて、食事会を開いたのだ。

 食事会には家主である浩美とその夫だけでなく、由希子とその家族、そして学も招待した。ちなみに学はその時九州にいたのだが、淳が電話を掛けると、文句を言いつつも参加してくれた。相変わらず彼は、淳に甘い。

 淳がキッチンに閉じこもり、一人でほぼ丸一日かけて作った手料理たちを、みんなたくさん食べてくれた。美味しいとか、最高とか、ありがとうとか、繰り返される賛辞を淳は嬉しそうに、照れ臭そうに聞いていた。

「これで、一人でももう大丈夫やな」

 その呟きは、僅かに寂しげな響きを伴ってはいたけれど、確かに未来を見据えた前向きな言葉だった。

 淳が願っていた『自立』が、完成したかは分からない。本当は、完成なんてどこにもないのかもしれない。

 それでも、自分の足で立っていられるようになったことが、淳には嬉しかったし、そのことを目標だとするなら、それは十分に達成された。

 自信をつけられた、淳にはそれだけでよかった。


 和也は、メディア露出が日を追うごとに増えてきて、首都近くへ赴いて仕事をすることも増えてきた。

 そうして、淳が予想していた通り――また本人がそうほのめかしていた通り、本格的に首都への進出を決意した。新しい住み家であるマンションも、ある程度目途がついたらしい。

「オレだけ先に出ていくのは寂しいから、来年の春からね」

 アーティストとしては果たしてそれでいいのか、いささか疑問が残るところであるが、和也本人がそれでいいと言っているのだからいいだろう。

 そんな折、和也のもとに実家から手紙が届いた。

 どこかに存在しているという両親――五十嵐の両親ではなく、彼を産んだ本当の両親の方だ――から、和也の実家へ連絡があったらしい。

 本当の両親は、おそらく和也がテレビに出ている姿を見たのだろう。今まで接触を断っていた理由は分からないが、一言何か伝えたかったのかもしれない。

 淳はその件について何も声を掛けることができなかったが、充紀はただ一言、和也に告げた。

「お前が、思うようにすればいいさ」

 今更本当の両親の話を聞かされても、きっと血が繋がっているだなんて思えない。紆余曲折あったものの、和也は今、五十嵐の家族こそが本当の家族だと信じている。

 そんな状況で、生みの親に会ったところで……という気持ちは、もちろんあるだろう。

 和也はしばらく迷うそぶりを見せていたが、知らされた本当の両親の住所宛てに、手紙を書くことを決めたようだ。

「今更、オレを捨てたことに対する言い訳なんか、聞くつもりはないけど。でも、今オレがこうして生きていられるのは、その人たちのおかげだから。……ありがとうって、それだけでも伝えようと思うんだ」

 和也の瞳には、自分を捨てた両親に対する憎しみの色など、どこにもなかった。ずいぶん悩んだだろうが、和也はもともと自分の置かれた状況を前向きに捉えるのが得意だ。

 だから、今回のこともきっと彼なりに、前向きに捉えたのだろう。

 彼の選択に対し、充紀も淳も口を挟むことはなかった。和也がそれでいいと言うのなら、それでいい。

 これからの彼の人生が、幸せであれば、それで。


 そして、充紀は……。

「だいぶ、片付いたな」

 さっぱりした充紀のデスクを眺めて、営業部長が感慨深げに呟く。

「転勤なんてもう、何回もしてますけど」

 荷物をまとめながら、充紀が口元だけで淡く微笑む。

「こんなに寂しく思うのは、初めてです」

「そりゃあ、誰かと一緒に暮らすなんて初めてだっただろうからなぁ」

「それももちろんありますけど」

 しゃがんでいた充紀は立ち上がり、営業部長の目をまっすぐに見据える。訝しそうに眉根を寄せる彼に、にっこりと笑いかけた。

「ここが、今までで一番居心地のいい支社だったからです」

 営業部長はきょとんとした後……ふふっ、と小さく笑った。

「そりゃあ、嬉しいことを言ってくれる」

「また、来ることがあるかもしれませんが、その時はよろしくお願いします」

「あぁ、もちろん」

 いつでも、連絡してくれたまえよ。

 とん、と軽く胸を叩く営業部長が、充紀には頼もしく、そしてどこか眩しく見える。

 転勤してから、彼にはずいぶんと世話になった。迷惑もかけたし、ずいぶん無理も聞いてもらった。温厚で寛容な彼には、何度も救われた。感謝しても、しきれないほどだ。

 今では充紀も、将来彼のような上司になりたいと強く願っている。その姿を目に焼き付け、これからも仕事に励もうと、素直に思える。

「お世話になりました」

 深々と頭を下げる。

 顔を上げた後、微笑みと共に差し出された営業部長の手を、充紀はしっかりと握りしめた。


    ◆◆◆


 暖かな春の陽気に包まれた、三月のある晴天の日。

 アパートのドアを開け、出てきた三人は、それぞれ自分の持ち物を手にしていた。

 淳の荷物は多いので、事前にある程度実家の方へ送ってある。和也の荷物は淳ほど多くないが、自家用車があるので、既にそちらの方へ全て積んである。充紀はもともと自分で持っていけるほどの量しか荷物がないので、全て手持ちだ。

 充紀が部屋に鍵を掛けると、三人は連れ立って管理人の部屋――つまり浩美の部屋を訪ねた。出てきた彼女にそれぞれが持つ鍵を返すと、ふわりと微笑んだ浩美は切なげに目を伏せる。

「寂しくなるわね」

「まさか三人とも、同じタイミングで出ていくなんてね」

 ちょうど浩美の部屋へ遊びに来ていたらしい由希子が、腕の中で佑也をあやしながら言う。いつも静かな佑也が珍しくぐずっているのは、どことなくしんみりとした空気を感じ取ったからなのだろうか。

 生え始めたばかりのふわふわとした髪を梳き、和也が言った。

「また、実家の方に顔出すから」

「でも……」

「元気でやるよ、ね。充紀くん、淳ちゃん?」

 和也の問いかけに、充紀と淳は揃ってうなずく。

「深山くんに、よろしく言っておいてください」

「浩美さんの旦那さんにも」

 浩美と由希子はそれぞれ眉を下げた……が、三人が笑顔を作ろうとしている様子に何かを感じたのか、口角を上げてうなずいた。

「元気でね、三人とも」

「また、機会があったら遊びに来てよ。あたしたち、いつでも歓迎するから。ね、浩美さん」

「もちろん」

 姿が見えなくなるまで、部屋の前に並んで手を振り続けてくれた浩美と由希子に、去っていく三人も、幾度も振り向きながら手を振り返した。


「じゃあ、和也とはここでお別れだな」

 アパートの駐車場に着くと、充紀と淳が和也に向き直る。和也は冗談交じりに、拗ねたように唇を尖らせていたが、既に瞳は潤んでいた。

「あーあ、ホントなら駅まで二人を乗せていきたかったんだけどな」

「乗るとこないだろ」

「後部座席はおろか、助手席にまで荷物乗っちゃってるもんね」

 充紀も淳も笑っているが、刻一刻と迫り来る別れの時を惜しく思う気持ちは、どうしても隠し切れない。最後くらいしんみりしないようにしたいから、わざと明るく振る舞ってみせてはいるのだが。

「まぁ、冗談だけどさ」

 目を伏せて、和也が笑う。泣きそうになっている表情を、見られまいとしているのかもしれない。その姿が逆に痛々しくて、充紀は彼の顔をまともに見ることができなかった。

「じゃあ……二人とも、元気で」

「お前の活躍、応援してるからな」

「俺も、テレビ見るよ。和くんの出てるやつ、全部録画する」

「コンサートにも、都合がついたら来てほしいな」

「考えとく」

「ひどいなぁ、充紀くん。……淳ちゃんは?」

「気が向いたらね」

「えぇっ」

「ハハッ……」

「冗談だよ、和くん」

 交わされる会話は、いつもとほとんど変わらない。これまで過ごしてきた日常がそうであったように、他愛なく、くだらない。それが、自分たち三人らしいのだと思う。

「じゃ、またね」

「元気でな」

「うん……」

 幾度かためらいがちに、和也は車へ乗り込む。やがてエンジンが掛けられ、ゆっくりと動く車を、充紀と淳は並んで見送った。

「またね!」

 運転席の窓を開けた和也が、手を振ってくる。「前見ろよ」と苦笑しながら、充紀はそれでも律儀に手を振り返した。その横で淳は、唇を結んだまま、何かに耐えるような表情で和也が乗った車を見つめていた。

「……」

「行くか、淳」

 和也の車が駐車場を出て行った後、しばらくじっとうつむいていた淳を促し、充紀は駅へと足を向け歩き出した。


 切符を買ったあと、駅の待合室で充紀と淳は二人、電車を待つ。淳の実家へ向かう電車と、充紀の転勤先へ向かう電車は、ちょうど反対方向。だから充紀と淳も、ここで別れることになる。

 隣同士の椅子に座った二人の間に、会話はなかった。……というより、淳がずっと黙りこくっているので、充紀の方も話しかけるのをためらってつい無言になってしまう、といった具合だ。

 淳は何かを考え込むようにうつむいている。その横顔に手を伸ばしたくなる衝動に駆られるが、充紀はぐっと我慢した。

 今触れたら、今度こそ離れがたくなりそうで。

 既に和也と別れているのに、今更そんなことを思うのもどうかとは思うのだが……いくら淳のことを一人の大人と捉えてはいても、頭ではそれをわかっていても、この期に及んでつい世話を焼きたくなってしまうのはもはや仕方のないことなのだろうか。

 腕時計を見ると、充紀の乗る電車が来るまであと十分少々だった。淳の乗る電車が来るまではあと二十分以上あるが、充紀はそろそろホームへ向かわなければならない。

 充紀が立ち上がると、うつむいていた淳が顔を上げた。揺れる大きな瞳に、心臓を掴まれたようにどきりとする。

 今にも泣きそうな顔で充紀を見上げる、まるで子供のような様相の淳。充紀は口角を上げると、その頭にポン、と手を乗せた。

「じゃあな。元気でやれよ、百瀬先生」

「……みっくん」

「また、会うことがあるかもしれないだろう?」

 それこそ、和也のコンサートとかでさ。

 クス、と小さく笑うと、淳はいよいよ目に涙を溜め、顔を歪める。

「そんな顔、すんな」

 ――決意が、鈍ってしまう。

 そう言いたくなったが、やめておいた。湿っぽくなる空気を断ち切るように、「笑え」と告げて、にぃっと笑みを作ってみせる。

「何も、今生の別れってわけじゃない。生きてりゃ、絶対どっかで会えるから」

「……ホント?」

「ホント。だから……笑ってくれ」

 笑って、俺のことも見送ってくれよ。

 不安げに揺れていた淳の瞳が、じっと充紀を見据える。涙を零しそうな目が、ゆるりと三日月形に細められ……淳は、泣き笑いのような顔をした。

「またな、淳」

「……うん」

 元気でね、みっくん。

 そう言って不器用にも、涙混じりに精一杯笑う淳。その頭をもう一度大きく撫でると、充紀は荷物を持ち直し、待合室を後にした。


 遠ざかる充紀の背中をぼんやりと見送りながら、淳は手で乱暴に濡れた目もとを拭う。嗚咽を零しそうになるけれど、男が人前でさめざめと泣くのはどうにもみっともない。

 それに……一人で何でもやれるようになると決めた時、同時に決意した。

 旅立ちの時は、笑おうって。

 淳も、充紀や和也も、これから新しい場所で新しい生活を始める。それぞれが大切にするべき居場所を、見つけに行くのだ。

 そこには、三人で過ごしていたような穏やかで優しい日常などどこにもないかもしれない。あのアパートで過ごした日々は、もうきっと戻らない。

 それでも、三人が一緒にいたという事実だけは変わらない。お互いにとって、お互いが大切な存在であったことも……これからもきっと、そうであり続けるだろうことも。

 充紀の言っていた通り、これは一生の別れではない。生きていればまた、きっとどこかで会える日が来る。

 何年後になるかは分からないけど、また三人で集まれる日が来る。

 その日を密かな楽しみとして取っておきながら、これからの新しい生活へ向かおう。

 同じ空の下では、きっと同じように、それぞれの未来へ歩み始めている仲間がいるのだから。

「――よし」

 気合を入れ、淳は立ち上がる。

 和也も、充紀も、新しい生活が待つ場所へ歩いて行った。

 淳もまた、自分自身の未来が待つ方向へと、迷いのないしっかりとした足取りで歩いて行くのだ。先に去って行った二人が、そうであったように。

 決意も新たに、淳は自らの行くべきホームへ向かうべく、待合室を出た。

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