4年目
大人になるってどういうこと?
「――今日のオリエンテーションは、以上です。今日配られたプリントは、来週のこの時間までにすべて埋めておいてください」
幾度目かになる説明会を終え、教室の少し後ろの辺りで座って聞いていた淳は、溜息を吐きながら立ち上がる。長時間座っていたことで少々負担のかかった腰をストレッチの要領で反らしていると、向かいからプリントを手にした学友がやってきた。
「なぁ、百瀬。就職どうするか決めた?」
この質問を投げかけられるのも、既に幾度目かになる。もうすぐ四回生になるのだから、そろそろ決めておかないとまずい。というか、同級生の中には既に希望先を決め、試験を数日後に控えている者までいるのだ。
胸に溜まったモヤモヤを吐き出すように、淳は苦笑気味に答えた。
「うーん……わかんない」
そもそも、将来のビジョンもよく決まっていないのだ。
一般的に、就職活動の始まる時期――三回生の夏頃から、これまで学内で行われる説明会を色々聞いて、就職セミナーにも出かけてみたりした。けれどどの企業も何となくピンと来ないというか……その職種で、その企業で明るい顔をして働く自分というのが、想像つかないのだ。
「やっぱり? オレも、全然イメージ湧かないんだよね」
学友もまた同じ悩みを抱えているのか、困ったように力なく笑う。「だよね」とうなずいて、淳はもう一度溜息を吐いた。
淳の通う磯ノ浜大学が、就職活動に対して特別力を入れているような学校でなければ、淳は今も何もしないで、緩慢な生活を送っていたことだろう。その部分だけは、この学校の少し特殊なシステムに感謝したいところである。
「まだまだ、俺も子供のつもりなんやろなぁ」
学生生活の中でももちろんそうだが、プライベートでも……なんだかんだで頼りがいのある年上の同居人たちに、自分は今でもべったりと甘えている状況だ。
これじゃあ、故郷にいた頃と――両親の庇護下にいた頃と、何ら変わらない。
このままではいけないと、そう、自覚はしているはずなのだけれども。
「……いい加減、大人にならなあかんっていうのに」
それは分かっとんのに、何していいんかが分からへん。
「そうだよなぁ」
淳の呟きに、重々しく学友がうなずく。
「俺らももう成人なんだから、しっかりしないといけないはずなんだけど」
――もう、成人なんだから。
その言葉が淳の胸に引っかかって、さらに気持ちを重くする。
そうだ、自分ももう成人なんだ。一人の人間として、どう生きるのかを自分自身で決めなければならない立場なんだ。
サラリーマンとして堅実に働いている充紀も、ミュージシャンという夢を未だに追いかけ続けている和也も。自分より長く生きている彼らだって、こんな時期がきっとあったはず。
そんな悩みや苦しみを全て乗り越えて、二人は今、社会人としての道をそれぞれ歩んでいる。
そうだ。これは、特別な悩みなどではない。だから、弱音なんて吐いちゃいけない。そんなことをしたら、自分はまた、誰かに甘えることしか出来ないような弱い人間のままで年を重ねることになってしまう。
乗り越えなくちゃいけないんだ、自分の力で。
それがきっと、大人になるということ。みんなから認められる、かっこよくて明るい……自分が描いた、理想の人間になれるということだ。
落ち込んでいる場合じゃない。気を引き締めなければ。
そう思うのに、気持ちはどんどん暗くなっていくばっかりだった。
◆◆◆
淳がアパートに戻ると、先に誰かいるのか、リビングの方から声が聞こえてきた。充紀は仕事で、いつももう少し遅い時間に戻ってくるはずだから、おそらく和也だろう。
「今日レコーディング行ってきた。新曲、もう少しでできるよ。……売れるといいね。まぁ、またいつも通りなんじゃないの。……うん、うん……どうかな。いずれは、ヒット曲の一つも出したいところだけど」
リビングに続くドア前から様子を見ると、案の定和也の姿が見えた。ソファの上で背中を丸め、体育座りの状態で携帯電話を片手に話している。
同居を始めてから、彼がこんな風に誰かと電話をしているところを見たことはこれまでなかった。ミュージシャン仲間や事務所の人、バイト先になど電話を掛けているところは見たことがあったが、それよりも口調がフランクで、優しい。
家族との不和が解消されてから、およそ三ヶ月。あれ以来和也はこうやって、頻繁に電話をすることが多くなった。
「ユッコも、元気にしてるよ。立派に専業主婦やってんじゃない? ふふ……うん。大丈夫。そっちも、身体に気を付けてね。子供達もいつも通り賑やかにやってるんじゃないかとは思うけどさ……え? あぁ、うん。お盆には帰れるかな。また充紀くんたちを連れていけるかは、分からないけど。……ん、ありがと」
やはり思った通り、電話の相手は実家の親らしい。いたわるような言葉を掛けたり、照れくさそうに返事したりしている。
「……そうだね。オレも、そろそろ夕飯の支度しないと。淳がそろそろ帰ってくるだろうし。充紀くんは、まだあと二時間くらい帰らないと思うけど」
淳が帰っていることには、気付いていないようだ。物音を立てるのが忍びなくて、ドアを半開きにしたままずっと息を潜めて立っていたから、当然といえば当然なのかもしれないが。
知らず口元を緩めていた淳が隙間から微笑ましげに見ている前で、ふんわりと優しく微笑み、和也は言った。
「じゃあ、またね」
柔らかな表情のままで、電話を切る。ほぼ同時に半開きのドアを開ければ、びくり、と驚いたように身体を跳ね上げた。
「あぁ、淳。びっくりした……お帰り」
淳の姿を認めるや否や、ふにゃり、と安心したような笑みを浮かべる。ソファの上で体育座りしたままだった自分の姿勢にハッと気づいたように、慌てて体勢を変えた。
それを見て、淳はクスリ、と笑う。
「ご家族とまた、仲良くやれとるみたいやね。よかったやん」
半ばからかうように声を掛ければ、心底驚いたような表情を浮かべた後、その顔がみるみる赤く染まっていった。
「なっ……な、何!? もしかして、さっきの見てたの!?」
「ん? うん」
「だったら何で入ってこなかったんだよー!」
「邪魔しちゃ駄目やと思って」
真っ赤な顔でわたわたと慌てる和也がツボに入ったのか、淳はさらにケタケタと笑う。
「もー……淳ちゃんってば意地悪なんだから。あの時はあんなに優しく、オレの心を解してくれたのに」
『あの時』というのはおそらく、淳が父親と血が繋がっていないことを告白した時のことだろう。
あの時は淳自身酒に酔っていたから、少し饒舌になっていたと自覚しているところもある。それでも和也が家族を許し、受け入れることの出来たあの日のことを淳は忘れていないし、あの時発した言葉に嘘偽りはなく、全て本心からのものだった。
だからこそ、和也がもう一度こうして家族と普通に話せるようになったことが、嬉しいのだけれど……。
「ん? どうしたの、淳」
黙ってしまった淳のことが気になったのか、和也が不意に心配そうな表情になる。導かれるように、淳は自然と口を開いていた。
「和くんはさ……」
――今度は俺の心を解してと言ったら、そうしてくれる?
言おうとした弱気な言葉は、喉の辺りに引っかかって、それ以上出てこなかった。口を開けたまま固まる淳に、和也が首を傾げる。
「何?」
「……ううん」
努めて笑おうとしながら、淳は絞り出すように答えた。握りしめた拳が熱く、爪が食い込んで少し痛い。
「何でもないよ」
それより、今日の晩ご飯は?
「そうだなぁ……何にしようか」
悩むように言いながら和也は立ち上がり、キッチンへ向かう。淳の隣を通り過ぎようとするとき、くしゃり、とその頭を撫でた。
握りしめていた拳から、ゆっくりと力が抜けていく。ふわりと駆け抜けた風が、ほんの少し心地よかった。
「いい子で待っておいで」
キッチンへ行き、冷蔵庫を開けてその中身を確かめる和也。いつもの光景のはずなのに、淳の心は何故か焦燥感に襲われた。このままではいけないと、頭の中で警鐘が鳴り響く。
和也の後を追い、叫ぶように言った。
「手伝う!」
「何、珍しいね」
振り向いた和也は、まるで母親のようにしっとりと笑う。その優しさがまた、淳の心には痛かった。
「いいから……手伝わせて」
近付きながらお願い、と強張れば、「わかったよ」と再び頭を撫ぜられる。
「じゃあ、まずは手を洗って。昨日ロールキャベツ作って余った材料があるから、キャベツの中華炒めとハンバーグにしよう」
「うん、いいね」
「手洗ったら、フライパンとボウル出してくれる?」
「了解」
和也に言われた通り手を洗い、必要なものを棚から出していく。
そんな淳の姿を、和也は眉を下げながら、何か言いたげにじっと見つめていた。
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