トライアングル・ワンルーム

0年目

プロローグ:月日は、少し遡って

 春が少しずつ足音を立て始めてきた、三月のある休日。

 築何十年にもなろうかというほど使い古された看板をひっそりと掲げる、街角の小さな不動産屋にて。

「ルームシェア、ですか」

 目の前で開かれた分厚いファイルの、店員が指差したとある箇所……に書かれた大々的なポップ文字を覗きこみながら、スーツをきっちりと着こなしている三十代くらいの男――篠宮しのみや充紀みつきが興味ありげに呟いた。

「俺、仕事柄転勤が多いんですよね。一人暮らしは気楽と言えば気楽ですけど、転勤のたびにいちいちアパート引き払わなきゃいけないから面倒で。誰かが一緒ならその人に部屋を任せて、俺は住人欄から名前を抜くだけしたら、身一つで立ち去ればいいんでしょ? これはちょっと、いいかもしれない」


 また別の日、同じ不動産屋にて。

「この部屋って、三人用ですか? 全体の家賃がこれだけということは……なるほど。確かに一人あたりに換算すると、かなりリーズナブルな値段になりますね。これはいいや」

 その部屋に関する詳しい説明に耳を傾けていた青年――五十嵐いがらし和也かずやも、まるでうまい話を聞いたとばかりに目をキラキラさせる。それはもう、まるで全面的に期待していますとでも言いたげなほど眩しい輝きだ。


 そしてまた別の日、これまた同じ不動産屋にて。

「へぇ、これいいですね。俺、親元を離れるの初めてやから、実は一人暮らしちょっと不安だったんですよ」

 一人なら心細くないですしね、とほんの少し独特なイントネーションを口にしながら、傍らで心配そうにしている両親そっちのけで真剣に話を聞いていた少年――百瀬ももせじゅんは、まだ幼さの残るあどけない童顔に安堵の色を浮かべた。


 数年前に新しくできたとあるアパートが、住民の確保と宣伝のために、町の不動産屋と結託してルームシェアのキャンペーンを行うことになったのだという。二人ないし三人で一つの部屋を共有することで、一人あたりの家賃や生活費などをリーズナブルに抑えられるという内容のお得なサービスなのだそうだ。

 そのキャンペーンに、三人の男が食いついた。代理である不動産屋の出した契約書に、三人とも異なる字体で各々のサインを書き込む。


「どうせ、また近いうちにすぐ転勤になると思いますし」

 篠宮充紀――いわゆる転勤族であり、幾度目かの転勤でこの街にやって来た、三十代のごく普通のサラリーマン。


「家賃も、一人あたりの生活費も安く済むということですし」

 五十嵐和也――家賃を滞納した挙句住んでいたアパートを追い出された、二十代の売れないミュージシャン。


「俺、自炊とかやったことなくて全然できないから……誰かと一緒なら何かと助けてもらえそうで安心だし」

 百瀬淳――本人いわく生活能力がほとんどないという、子供の幼さを多分に残した大学入学前の少年。


「「「そこにします」」」


 それぞれ年齢も立場も、何もかもが違う……本来ならば道をすれ違うことすらなかったかもしれない、三人の男たち。

 そんな彼らの共同生活は、ここから始まった。

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