鴛鴦の菊花《4》
釵や花、腕輪に耳飾りといった装飾品を取り去った。飾り以上の重みから解放された明麗の唇から、嘆息がこぼれ落ちる。
「もう着替えてしまうの?」
帯にも手をかけると、孫恵が残念そうに訊いてきた。
「だって、宴は終わりでしょう? いつまでもこんな格好をしていても、しかたがないじゃない」
孫恵が仕立ててくれた衣装は、宴に華を添えるためのものだ。軽やかな絹の、澄み渡る秋の空を思わせる青は、明麗によく似合う。だが身体の線に沿い、いつもより首元が開いた意匠は、動きやすい交領の女官服にすっかり慣れてしまったためか、妙に落ち着かない。
皇后は、菊を浮かべた湯へ向かったらしい。自分がいつまでも着飾っている意味などないようにも思われた。
「表のは、ね。
声が弾む。昼間のように催物があるわけではないが、ささやかながらも酒肴が用意されるのだ。菊酒を片手に、篝火に浮かぶ秋の草花を眺める者、珍かな甘味に舌鼓を打つ者、楽しみ方はそれぞれ。日常よりほんの少しだけ異なる夜は、制限のある生活を強いられている宮女たちの気を緩ませる。
「
「桃嘉?」
「ええ、
日が落ちてだいぶ冷えてきたようだからと、孫恵から
宴の間は外していた佩玉の綬を帯に挟みこみ、卓上の書箱を手にする。
「ごめんなさい、用事を思い出したの。先に行っていて」
「いまから後宮の外へ? 今日はあちこちでお酒が振る舞われているから、酔っ払いには気をつけてね」
宴会場となる桃嘉たちの
秋夜の空は日中よりも雲の厚みが増し、月はおろか星のひとつも見えない。しかし今宵は皇宮にある庭園の一部を開放していることもあってか、篝火や灯籠も多めに用意され、日暮れ間もない道は十分に明るかった。
退庁時刻はとうに過ぎ、普段なら人影も疎らになる皇城のそこかしこから賑やかな声が聞こえてくる。宴に浮き立っているのは、なにも後宮のみではない。昼間の興奮が覚めやらぬまま宴会へとなだれこんだ官吏たちが、花もそっちのけで酒を酌み交わしているのだ。
「よかった。門は通れそう」
書箱を抱え直し、佩玉の重さを確認する。これだけの人がいるのだから大丈夫だろう。問題は、まだ文徳が残っているかどうかだった。
気が焦り早足になる明麗の前方から、ひとりの文官がやってくる。浅緋の袍の襟は乱れ、足元も覚束ない。一目で酔客だとわかった。それを脇によけてやりすごす。その後も、幾人もの酒に呑まれた官吏とすれ違った。
中には、下品な言葉で誘いをかける者や、わざとらしくよろけて、明麗に抱きつこうとする者までいる始末。いちいち相手をしていてはいられない。右に左に避けながら歩いているうちに、人の多い道から外れ、明かりの届きにくい場所を選んでいた。
いくら宴の後とはいえ、皇帝のおわす皇宮で公人が痴態を晒すとは。呆れと憤りのままに突き進む明麗は、木立の根元にうずくまる人影に気づかなかった。
突然、勢いよく運んでいた足を取られて転びそうになる。どうにか堪えて足元を確認すると、外衣の裾を掴む手が暗がりから伸びていた。
驚きで悲鳴もあげられずに吸い込んだ息を溜めたまま、指先から続く手首、袖に包まれた肘から二の腕を通って肩へと視線を動かす。淡い緑の布地の先に、よく知る顔をみつけた。
「なに、して……いる、の?」
止まっていた息を、上擦った声とともに吐き出す。それに返されたのは、予想に違わぬ間延びした声音の問いだった。
「明麗こそ。いくら皇宮内でも、こんな晩の独り歩きは危ないですよ」
地面近くから見上げてきた文徳の顔は、夜目にもわかるほど疲れ切っている。明麗も腰を下ろし、書箱を挟むようにして膝を抱えた。
「具合が悪いの? 大丈夫?」
顔を覗くが、彼から酒気は届かない。酔って体調が悪くなったというわけではないようだ。「いいえ」と振りかけた文徳の首が止まる。彼を探している声が、夜風に乗って近づいてきたのだ。
同僚や知人なら、引き渡して自宅まで送ってもらうのもいいだろう。明麗は立ち上がり、声の主に居場所を知らせようとした。
「待って! やめてください」
あげた片腕を掴まれ、さらなる暗がりへと連れて行かれる。葉をだいぶ落とした木々の隙間から、かろうじて石灯籠の明かりが届く程度の闇に、身を隠して息を殺す。
呼び声は少しだけ大きくなったが、また離れていき、やがて聴こえなくなった。
「知り合いではないの?」
「たぶん、書記部のだれかじゃないかな」
「なら、隠れなくたって……」
盛大な嘆息が聞こえた距離が思いのほか近く、明麗は両腕で螺鈿の箱を胸に引き寄せる。気配が動き、乾いた落ち葉が崩れる音をたてた。
「菊宴が終わって帰ろうとしたら、名前や筆蹟しか知らない人たちから、次々と宴会に誘われたんです」
「あなたの書が両陛下のお目に留まったのだもの。そうなるでしょうね」
「でも、全部に出席することはできないし。……それに宴会って、お酒を呑むでしょう?」
「恐れ多くも皇帝陛下の杯を断っておいて、いまさらじゃない。嫌なら同僚だろうが上司だろうが、突っぱねたらいいんだわ」
皇帝皇后、両陛下の覚えめでたい人物と、ぜひともお近づきになりたい。官吏でなくとも、そう考えるのは当たり前の流れである。門閥に属さない文徳にとっても、人脈を広げる良い機会のはずだ。
明麗は毅然と言い放つが、文徳は曖昧に微笑むだけ。「酒も菊も当分は遠慮したい」と、あくびまでする。
「それにしても、次席は残念だったわね。わたしには文徳の菊が一番に見えたもの。徐克さまのは、きれいな花ではあったけれど個性がありすぎて」
「そんなことありませんよ。集められた中で、長寿を願う想いが一番強かったのはあの書です。たしかに、独創的な書体でしたけけどね」
「ええ、本当に。画を観ているみたいだったわ」
限界まで崩されていた徐克の字を思い出す。あそこまで字形も筆順も無視して自由に書かれた文字を、明麗は目にした記憶がない。幼少時から李家の邸で見せられていたのは、礼儀正しく並び形の整った、美しい筆蹟による書ばかりだった。
「あれも表現のしかたのひとつです。文字が持つ意味、形、音、そのすべてが詰まっていました。あのお年で、あの筆勢。さすがは皇太子の師を務められた方だとしか言い様がありません」
文徳の指先が宙を切る。薄闇に慣れた明麗の瞳がそれを追いかける。一画ごと、確認するように運ばれる筆順は、またしても飽いたはずの菊だ。
「やっぱり僕には無理だな」
肩が落とされ、見えない文字を綴っていた指先はこめかみをかく。
「絵心が皆無だのもね」
「それだけじゃなくて。ひと筆ひと筆に、徐克殿が送られてきた人生の重みや深みがのっているんです。師匠は年齢じゃないって言うけど、やっぱり積み重ねてきたものは間違いなく顕れる。僕もいつか、あんな文字を書けるようになるのかな」
遠大な夢は、静かに闇へと吸い込まれていった。
明麗は、夜陰の中でも白く浮かぶ自身の右手を目の前まで持ち上げて、結んだり開いたりしてみる。
「あなたは書が一番なのね。死ぬ間際まで筆を握っていそう」
「まさか! でももしそうなったとしたら、きっといい一生だったんでしょうね」
ふふっと含み笑いがした。本当に書以外に興味がないらしい。
と、石敷きの道を歩く複数の足音と話し声がこちらへ向かってくる。ふたりは再び声を潜めた。
「例年になく盛大な菊の宴でしたな」
「ご健康が懸念されていた皇后陛下も、今年はご臨席なされたからでしょう」
「相変わらずお美しくて、お若くて」
かなり酒が入っているようで、本人たちが思っているよりも声が通る。明麗たちが身を隠している茂みにまでもよく届いた。
話題にのぼった皇后の名に反応して、明麗の耳が研ぎ澄まされる。
「たしかにまだお若いが、あのように蒼白いお顔で、健やかな皇子を授かれるのであろうか」
「陛下のお年を考えれば、あまり気の長いことを言ってはおられますまい」
憂いているような会話だが、その声音に含まれる色はやや異なる。しらず、明麗は書箱を抱く手の力を強めていた。
「しかし、異国の血が混じるよりよいのでは? 龍のお怒りが降りでもしたら一大事」
「李宰相もそれを危惧して、後宮にご息女を送りこんだのやもしれんな」
大きく息を吸いこみ腰をあげかけた明麗を、文徳が衣を引いて止める。「なぜ」と視線で問えば、無言で首を横に振って返す。
酔い覚ましに夜風を愉しんででもいるのか、彼らの歩みは鈍い。ふたりが隠れる茂みの前に差しかかった。
「それです! 始めから李家は異人にの后に御子を産ませる気などなかったのでは?」
「自分の娘が年頃になるまでの繋ぎとして、西国から姫を連れてきた、か。あり得ん話でもないな」
「もしや、皇后の懐妊を妨げるために、毒でも……」
「こら! 滅多なことを口にしてはこちらの身が危うくなる」
さすがに声を抑えるがもう遅い。明麗は書箱を放り出すと、すっくと立ちあがった。
「ダメだ、め……」
「いやっ! 離して!」
文徳の制止を無視して、明麗は暗がりから飛び出す。羽織っていた外衣の背を掴まれたので、抜け殻を脱ぐように腕を引き抜き振り切った。
話に夢中になっていた男たちは、突然聞こえてきた争うような男女の声と、闇から飛び出た人影に驚愕を隠せずにいる。明麗は道筋に置かれた灯籠の明かりの中に、官位の異なる文官三人の姿を見留めた。しかし、彼らのほうが明麗の顔貌を確認する前に、その花の
「なにするのっ!?」
批難の声がくぐもる。衣を剥ごうとするが、後ろから抱きかかえられてしまい身動きができない。
「すみません。でも、黙っていてください。それから、君の……李家のためにも、絶対に顔を見せてはいけません」
明麗は、文徳の腕の中で動きを止める。衣越しでもわかるように近づけられた彼の口からは、柄にもなく緊張感をはらんだ言葉のみならず、吐息の熱までもが耳に伝わってきた。
傍目には、睦事でも囁いているように映ったのだろう。官吏たちはあからさまに侮蔑の色を浮かべる。濃緋の官服を着た文官が手にした灯りを文徳にかざし、彼のまとう若草色を確認すると、尊大に反り返った。
「あのような暗がりでなにをしていた。そちらの者は……」
提灯が横に動く。文徳は、その明かりから守るように明麗を背に隠す。するとますます眉をひそめた。
「
「ええっと……、はい。いえ、まあその……」
「いくら新入りといえど、禁則を知らぬわけではないだろう。深酒ゆえの過ちではすまされんぞ」
自分たちから発せられる濃い酒気で、文徳が素面なことには気づかないらしい。己の赤ら顔を棚に上げて問い質す。
皇宮に住まう女は皆、皇帝の所有物も同然。無断でそれに手を出せば、厳罰に処される。このままではふたりとも身に覚えのない罪に問われ、引ったてられてしまうだろう。
「違っ……」
前に出ようとした明麗は、文徳の背と広げられた腕に阻まれた。
「この人は悪くありません。こちらから声をかけ、無理に引き留めてしまったのです。ですが、少し話をしただけ。どうか、お目こぼしを」
文徳はその場に跪いて拝礼する。それを見下ろす官吏たちの口元が、いやらしく歪んだ。
「さて。いかがいたしましょう?」
深緋の官吏が、より高位を示す紫の袍を着た文官に指示を仰ぐ。
「ふん。娘、まずはその被りを取って顔を見せぬか。無礼であろう」
衣を被いていても、裾から覗く薄絹の裙が包むほっそりとたおやかな脚の線までは隠せていない。文徳はますます平身低頭した。
「それはどうかご勘弁を」
明麗にも彼らの望みなど、閉ざされた視界の中でも手にとるようにわかる。この場はやはり面と佩玉を見せ、己が鞠躬尽瘁の玉を賜る李家の者だと明かすのが得策であろう。明麗は、息苦しさを覚えはじめていた外衣に手をかけた。
しかし、こもる熱と興奮で紅潮した顔が、冷たい外気を感じる前にその手が止まる。
「いま、あいにく手持ちがなくて……。こちらでご容赦願えませんでしょうか」
まるで、衣の中の明麗の動きを察知したかのように、おずおずと文徳が申し出た。小さな包みを懐から取り出し、頭上に捧げ持つ。その両手を胡散臭げに提灯で照らした男の顔色が、おもしろいように変わる。柔らかな光沢を放つ鬱金色の絹布の中心では、銀の釵が鈍い光を跳ね返していた。
「……そなたは」
問われてあげた文徳の顔が、橙色の明かりに晒される。
「あ、すみません。申し遅れました。秘書省の林文徳にございます」
紫袍の男がユリの花を象った釵と、文徳の顔を見比べてからはたと気づき、自身の顔を背けた。咳をする素振りをし、鼻から下を袖で隠す。
「そなた、昼間の……」
「本日の菊の宴では、両陛下に過分な御恩情をおかけいただきました。こちらはその際に賜りましたお品。おかげをもちまして、李家や劉家の皆さま方からもお褒めの言葉をちょうだいし、今後は
書付を読み上げるような文徳の口上で一気に酔いが醒めた三人が、それぞれにあらぬ方向へ視線を彷徨わせる。端下役人と一宮女の醜聞で少々懐を潤そうとしたことがきっかけとなり、事によれば己の進退を揺るがしかねない可能性に思い至ったからだ。
「どこからだ」
「はい?」
「我らの話を、どこから聞いておった!」
「ああ。木立の下、あの辺りにおりました」
文徳は、目を凝らしても闇との判別が困難な茂みを指さした。的外れな返答が、高官の苛立ちをさらに煽る。
「そうではない! おまえたちは、いったいいつから盗み聞きしていたのかっ!」
「盗み聞きなんて、めっそうもない。ただ、どなたでも深酒すると間違いをおこすものだなあ、と。いやあ、呑みすぎはいけません。本当にお酒は怖い」
しみじみと肯く文徳の声音には、やけに実感がこもっていた。
「ま、まさに! まさにそのとおり。みな、酒が悪いのだ。酔いは心にもないことまで言わせてしまうもの。――で、ございますな?
深緋の袖が引かれる。慌てて口を押さえた男の手から提灯が落ち、火が消えた。
「今宵この場で、そなたらはなにも聞いていない。我らもなにも見ていない。それで構わぬな?」
「えっと。では、こちらは?」
皇后から直々に下賜された釵は、まだ文徳の手の上だ。
「そのような品、受け取れるものか」
紫袍の高官は言い捨てると、一時でもここに居たくないとばかりに急ぎ足で立ち去る。呆気にとられていた二人の文官も我に返り、いそいそとそのあとを追いかけていく。一度も振り返ることのなかった彼らを、文徳は拝跪で送った。
「もう、大丈夫かな」
深々とため息を吐き出す文徳から許可が出る。ようやく明麗は、頭からすっぽりと被せられていた衣を外した。とたんに冷たい夜風が頬を撫で、溜め続けるだけで行き場が与えられなかった熱を冷ましていく。
「すみません。僕が考えなしに呼び止めてしまったから。危うく、良家のお嬢さんに傷をつけてしまうところでした」
「わたしたちはなにも悪いことをしていないわ」
万が一にも捕らえられたところで、出る所へ出て自分と文徳の関係を詳らかにすれば、なにひとつとして問われる罪などないと知れる。ただし引き換えに、父や兄の不興を買い、皇后に心配をかけるのは免れないだろうが。
「燃えるものなんかなくても、火を点けようとする人もいるんです、ここには」
自分と李家の名を守ろうとしてくれたのだと理解はできても、どこか納得しきれずにいる明麗に、文徳は困ったように肩をすくめる。
明麗は憤然と文官たちが消えていった方向を眺めやるが、もう背中さえも見えなくなっていた。
「ひとりはたしか――湯と言ったわね。所属はどこかしら。氏から調べられればいいけれど」
「さあ。秘書省ではなさそうだったな。でも、やめておいた方がいいですよ」
明麗と違い、文徳は顔も名も向こう側に知られてしまっている。それこそ、どこからか手を回され難癖を付けられかねない。こちらも相応の駒を握ってしかるべきだ。明麗は訴える。ところが、予想外に難色を示された。
「あなたはどうなるの?」
「うーん。たぶん大丈夫じゃないかな」
明麗の心配をよそに、適当に答えた文徳は木立の中へと引き返し、書箱を拾って戻ってくる。それを受け取りながら、明麗は不満も顕わに訊ねた。
「なぜそう思うの?」
幾度となく雑な扱いを受けているにもかかわらず、螺鈿の李花は美しく咲いている。その蓋の縁を四角くなぞる指先も、きれいなままだ。文徳が己の衣を犠牲にして拭いたらしい。
「文字で残されているわけじゃないし、結局はどちらも証拠がないでしょう? 発しただけでは、言葉は消えてしまうから。不確かなものなんです」
「それは……そう、かもしれないけれど」
明麗は釈然としない。
李家にあらぬ疑いをかけられたことも、皇后を蔑ろにする発言も、それらをなかったことにするような、文徳の言葉にも。
「それより、どこかへお遣いだったのでは? 門が閉まる刻限が近づいているみたいだけど、大丈夫ですか」
気づけばあの三人を最後に、行き交っていた人々もすっかり鳴りを潜めていた。宴の夜とはいえども、定刻までに後宮に戻らなくては、厳しい罰則が待っている。
「……箱の中を見た?」
「すみません。蓋が開いていたから」
茂みの中で書をみつけた文徳が、わずかに届く明かりに白い紙をかざし、漆黒の墨蹟を凝視する姿が、明麗には容易に想像できた。彼なら、たとえ子どもの手習いでも真剣に目利きしたに違いない。
「どう思う?」
「よく書けていましたよ。おいしそうな桃や豚ですね」
「そうじゃなくて!」
明麗は、皇后ためにできることが思い浮かばず、子授けに効くと聞いた縁起ものを書いてみた。その中でも自信作を師匠の目で鑑定してもらいたくて、宴の誘いを断ってきたのだ。しかし、先ほどの男たちの話を耳にして、考えが揺らぐ。
「葆の人でない百合后さまには、こんな書の意味なんて届かないのかしら」
桃の実が霊験あらたかな仙界の果実といわれているのも、仔だくさんのブタが子宝や子孫繁栄を象徴しているのも、この国の風習からなるものだ。
春に萌える野を映したかの如き瞳も、たわわに実り風に揺れる麦穂のような髪も、見慣れてしまえば、ただただ美しいと思うだけ。巧みに葆の言葉を操り、近頃の読み書きの上達ぶりには目を見張るものがある。いつしか明麗からは、皇后が遠い西国から嫁いできたという意識が消えかけていた。
思い返せば、皇后の口から祖国や家族の話が出たのは数える程度。明麗が、父親の頑固さに腹を立て、なにかといえば兄を頼る様子を、どんな気持ちでみていたのか。
「いいんじゃないのかな、意味なんかわからなくても」
ところが文徳には、明麗の憂慮など気にも留める様子がない。文字がもつ意味を大切に、と説いておきながら、それはどういうことか。明麗は、螺鈿細工の施された蓋から不審に満ちた目をあげる。
「桃は――来年にするとして。皇后さまと豚肉をたっぷり包んだ熱々の包子でも頬張りながら、この文字についてのお話でもすればいいと思いますよ」
「包……子?」
「思いやりにあふれた文字を観ながらおいしいものを食べれば、きっと身も心も温かくなります。それだって、書の楽しみ方にかわりありません」
文徳は腹に手のひらで円を描き、ぽんとひとつ叩く。いっそう暗さを増した空を見上げて、下がる一方の気温に小さく身を震わせた。「今年は冬の訪れが早そうだ」と、息を吹きかけた手を擦り合わせて苦笑する。
「……帰る」
明麗は爪先を後宮のある方角へ向けた。
「用事は?」
「もう済んだわ」
「すみません。送っていけたらいいのだけど」
また誰かの目に留まる恐れもあり、並んで歩くわけにはいかない。それに、皇宮の奥にある後宮まで明麗を送り届けていたら、今度は文徳が帰れなくなってしまう。
「平気。文徳こそ、帰り道で酔漢に絡まれないように気をつけなさいよ」
「あっ! 待って」
文徳に背を向け歩き始めようとした明麗の肩が捕まえられた。身体を反転させると、絹の包みを差し出される。中身など、開けなくても明確だ。
「いざというときの武器にでもしてください」
「なにを言っているの!? この釵は、あなたが皇后陛下から賜ったものなのよ。もっと大切にしないと!」
明麗は釵にまつわる謂れを知っている。彼が口止め料がわりに差し出したとわかったときも、どうにかして悲鳴を呑みこんだくらいだ。
「筆や硯なら良かったけど、これは僕には必要ないし。いざというときの袖の下にもできないようじゃあ、売り払って付けの足しに……はいけません、よね。やっぱり」
あまりにも不敬な物言いを咎めるように睨み付けた明麗の顔がよほど恐ろしかったのか、文徳は首をすくめて背中を丸める。
「だったら、使い道がある人にあげたほうがいいかな、と思って」
普通の官吏なら、下賜された経緯も含めて誉れとし、屋敷の奥で家宝として保管されてもおかしくない品を持て余したあげく、いともあっさり手放そうとする。さらには――。
「そうだ! いっそのこと、潰してしまえば」
「冗談じゃないわっ!」
背筋に怖気さえ覚えた明麗は、文徳の魔手から守らんと釵を奪い取った。
「陛下が記念に贈られた思い出の釵を、銀塊にしようだなんて!」
「これが陛下から!?」
さすがの文徳もこの釵がもつ来歴には驚いたようだ。鬱金色の包みを困惑した様子で暫し見つめ、頭をかいた。
「なおさら僕が持っていてはダメじゃないですか。明麗から、皇后さまにお返ししてください」
「一度は、あなたにお渡しになったものだもの。それは難しいでしょうね」
明麗としてもそうしたいのはやまやまだが、なにせ文武百官が見守る中でやり取りをした品だ。返上した側は痛くもない腹を探られ、受け取る方は器の大きさを疑われかねない。
あちらでもこちらでも所有を拒まれた釵が、いまは静かに明麗の手にある。それを両手で握り、胸に押しつけた。
「わかったわ。わたしが預かります」
「はい。よろしくお願いします」
安堵の表情で文徳は両手を重ね、明麗に対してか、それとも釵に向けてなのか、恭しく礼を執る。
その頭が再びもちあがるのを待たず、明麗は踵を返した。
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