皇后の憂慮《2》

 苑輝が置いていった手本を前にして、百合后はようやく筆を執る。まずは一画目。ただ横に線を引くだけだ。それなのに筆先が紙の上を彷徨さまよう。たまらず明麗が口を挟んだ。


「百合后さま、お手本をよくご覧になってください。そちらと同じ位置に……」

「わかっているわ。わかっているのよ」


 何度も緑の瞳が二枚の紙の上を往き来し、筆を下ろすべき場所を確認する。深呼吸の後、ついに意を決したのか一度僅かに穂先が上がった。が、


「あら」


 皇后は不思議そうに小首を傾げ、白い紙の上にできた黒い染みを眺める。長いこと躊躇っていたため、含めた墨が落ちてしまったのだ。

 明麗は紙を新しいものと替え、苑輝が書いた『百合』の文字を主の視界から丁重に扱いつつ遠ざける。見事すぎる手本というのも考え物。その上、夫が自分への想いを込めて書いた感字を真横に置きながらなど、並の神経では難しいという女心に、明麗はようやく思い至る。よかれと思ってしたことが、裏目に出てしまったようだ。


「やはり、まずは運筆を徹底的に練習しましょう」


 葆の子どもは、物心つくころにはもう筆を握らされる。それに対して、皇后が文字を書くために筆を持ったのはついこの間。ただ字の形を教えればいいというわけではなかったのだ。


 その後の皇后は、ひたすらに筆を真横に運ぶ動きを繰り返す。一枚の紙に幾本もの横線が並んだが、どれひとつとして明麗がと思えるものはなかった。

 力が入りすぎて起筆が太くなってしまったかと思えば、送筆では手がぶれ波を打つ。収筆も上がりすぎたり下がりすぎたりと定まらない。それは卓の上が使用済みの料紙で埋め尽くされても同じだった。

 結局は先に、皇后が音を上げる。


「少し休ませてちょうだい」


 いつの間にか硯の海にたたえられていた墨はなくなり、気のせいか筆も疲労を訴えているかのように穂先が乱れている。変わらないのは、数歩離れた場所に姿勢を崩さずに立つ颯璉の硬い表情くらいだ。


「そうですね」


 明麗の同意を受け、すぐさま別の卓に茶の用意がされた。程なくしてふくよかな香りが房内に漂う。百合后はゆったりとした椅子に嘆息を漏らしつつ腰を下ろし、茶杯を傾ける。いつものように同席を命じられた明麗も、白地に白茶の薄い水色すいしょくが映える器を取った。


 ひと息ついた百合后は空になった茶杯を侍女に片付けさせ、自分の正面に葆国民譚を置く。表紙の文字を一文字ずつ、薄紅色の爪も艶やかなすらりとした指でたどたどしくなぞり、声に出さずに読んでいった。明麗は、微笑ましくも思えるその様子を、茶と共に出された水果の果汁に気をつけながら見守る。筆順が多少間違っていても、今は仕方がない。


「さきほど、少し目を通したのだけれど」


 皇后が慎重な手つきで表紙をめくると、さっそく物語が始まっている。第一話は、両親の留守中、家に残された幼い兄弟が言いつけを守らずに戸を開けてしまったため、恐ろしい妖怪に追いかけられるというものだった。

 妖艶な美女に変化した化け物が、甘い言葉で訝しむ兄弟にかんぬきを外すよう誘う姿や、真夜中の山中を幼子おさなごが鋭い牙や長く伸びた爪から必死で逃げ惑う様子が、などが正しく表された楷書で綴られている。

 年少者でも理解できるよう、平易な言葉や文字を使って語られいるなずなのに、そこからは年端もいかぬ子どもたちまで惑わす色香をまとった美しい女の媚びた声色や、恐怖に震える兄弟の引きつった顔までもが、まるで目の前で繰り広げられている光景のように浮かび上がってくるのだ。


「どこの国も同じね。こういった種類の寓話は、わたくしの故郷くににもあるわ」


 親のいうことを聞かないとひどい目に遭う。そうした教訓を、わかりやすい物語にして子に教えようとするのは、古今東西変わらぬということなのだろう。


「葆の子どもたちは皆、これを読むものなの?」


 彼女が紙をめくるたび、乾いた墨の匂いが微かな風に乗って向かいに座る明麗まで届く。飛び込んでくる文字に意識を奪われないよう、明麗は目の焦点を本から僅かに逸らした。


「いえ、たいがいは口伝です。母親や乳母が寝かし付けるときに話して聞かせることが多いでしょうか」

「こんな怖いお話を? 小さな子でなくても眠れなくなりそうよ」


 流し読みをしていた百合后は、ちょうど妖怪が兄弟に追いついた場面に出くわしたのか、ぶるりと身を震わせる。たしかに、これほど真に迫る感字で書かれては、就寝前の読みものには向かないだろう。明麗は自分の幼い頃を思い出し、くすりと笑みを零した。


「そうですね。この本では大人でも難しいかもしれません。でも、枕辺で兵法や法令を説かれても眠れないものですよ」

「まあ。あなたの乳母は、そんなものを女子に?」


 手を止めた百合后の大きな瞳がさらに見開かれる。やはり自分の育った環境は、異国人からみても少々変わっているらしい、と明麗は改めて実感した。ふるふると頭を振り苦笑する。


「犯人は兄です。寝付きの悪いわたしに困り果てていた乳母を助けるつもりだったのでしょう。退屈な話を聞かせれば眠くなると思ったらしいのですが」


 爛々と目を輝かせ話の続きをねだってくる妹を面白がり講義を始めてしまった博全は、父に厳しい叱責を受け、母からは呆れられたそうだ。それでも家の者の目を盗み、己の復習も兼ねて、度々明麗の寝所に現れたのだから、兄も自分に負けず劣らずの変わり者だと思っている。


「葆国民譚は怖い話ばかりでもありません。仙界に迷い込んだ猟師と仙女の恋物語や、口減らしのため山に捨てられた子どもが白虎に育てられ、後に武勲を立てる立身出世伝なども人気がありますが」


 明麗に言われ百合后は本をめくる手が速まる。目まぐるしく変わる場面に、彼女の表情も驚いたり微笑んだりと忙しい。

 葆国民譚に収められている説話は、地域や時代によっていくらか違いがあるが、大筋は変わることなく人々の間で語り継がれてきた。その数ある話の中でも、古くから子どもたちの心を惹きつけ続けているものがある。


「なんといっても一番は、雷珠らいじゅ山に棲まう荒ぶる龍を四書仙が封じた物語でしょう」


 この国の成り立ちにも関わるという伝説は、葆に生まれた者ならば誰でも一度は耳にするはず。だが異国からやってきた皇后は、初めてこの本でそれを知ることとなる。

 まだ琥氏がこの一帯を統べる首領に過ぎなかった、遙か昔の話。

 天地を暴れ回り多くの災厄を招いたという龍を、四人の書仙がそれぞれの揮う筆で雷珠山の中腹に建つ、現在は琥家の宗廟となっている堂に封じ込めた様子が、あの達筆でどのように再現されているのか。話の全貌を知る明麗でも期待に心が躍る。

 気づけば、早くその話まで辿り着かないかと、百合后の手元を覗き込んでいた。

 墨の文字を追う皇后の指先が時折停止する。読みや意味が分らない字に遭遇するためだ。そのひとつひとつに丁寧な解説で応えているので、逸る気持ちを抑え最初から読み直した物語はなかなか先に進まない。だがそれが、この冊子本来の目的でもあった。

 美しい筆致で正確に綴られ豊かな表情で語る文字は、皇后の素直な気質も幸いして、すんなりとその意味と形を彼女の記憶に刻んでいく。ひとつの話を読み終える頃には、心地好い達成感と興奮による軽い疲労を覚えた主従だった。


 あまりに熱中してしまい喉の渇きを訴えたふたりに、新たな茶が用意される。再び潤いを取り戻したそれぞれの紅い口からは、ため息が止めどなく出続けた。


「弟の衣の背が爪に引き裂かれたときはどうなるかと思ったけれど、ふたりとも助かって良かったわ」


 皇后はうっすらと潤んだ瞳で安心する。


「実際に自分が目にしたものではない話を、ここまで詳細に書けるなんて」


 明麗はひたすらに感嘆を繰り返す。これが子ども向けの物語とは思えない。今まで数え切れないほどの書物を読んできたつもりでいたが、ここまで情景や感情がつぶさに伝わってきた本は初めてだった。


「このように素晴らしいものを、陛下は百合后さまのために書かせたのですね」


 ただ読み書きの教本とするだけなら、わざわざ新しいものを用意せずとも簡単に手に入る冊子である。それを、これほどの手蹟の持ち主に皇帝自らが指名し新調させたのだという。それだけでも、十分にふたりの仲が窺い知れた。


「お優しい方なのですね、我が国の主上は」


 明麗は、両親があのように穏やかに微笑み合う姿を目にしたことがない。口うるさく気難しい父に、高官の妻として出しゃばらず奥に下がっている母。彼らが特別に仲が悪いというわけではないだろう。どこの夫婦もそういうものだと思っていた明麗の認識が、皇帝夫妻によって改めさせられた。

 だが、百合后の表情は予想に反して暗く沈む。


「そうね。こんな役に立たない后でもお見捨てにならないのだから」


 長い睫毛が翡翠色の瞳に影を落とした。白百合のようなかんばせが白さを通り越し青ざめているようにも見え、明麗は茶杯を置いた手を膝の上で重ねて姿勢を正す。自分が皇宮ここへ何をしに来たのかを伝えるのは、今だと思った。


「皇后さま。実はわたし……」


 そこへ明麗の言葉を遮るようにして、二話目の一文字目に指先を添えた百合后の斜め後ろに、方颯璉が音もなく歩み寄る。腰を折り、恭しげに申し出た。


「失礼いたします。皇后陛下、侍医がお加減を伺いに参っております」

「もうそんな時期なのね。わかりました」


 別の意味のため息をついた皇后は、名残惜しそうに閉じた本を両手で胸に抱えて立ち上がる。


「続きはまたにしましょう」


 主に下げた頭に振ってきた声は柔らかだが、どこか諦めの色が混じっているような気がして、衣ずれの音と共に視界から消えていく儚げな背中を、明麗は沈痛な面持ちで見送った。


 ◇


 静かに酒盃を傾ける夫を邪魔しないよう、百合は燭台の下で静かに本をめくる。ところどころでまだわからない文字もあるが、前後の文脈と手蹟から伝わる雰囲気で物語を読み進めることができた。


「気に入ったようでなによりだ」


 寝所を訪れた夫を放って読書に夢中になっていた妻を咎めるといったふうでもなく、満足そうに苑輝は唇で緩やかな弧を描く。先方から沈黙を破られ、百合はようやく葆国民譚から目を上げた。


「ええ、とても」


 冊子を手にしたまま、寝台の上にいる苑輝の傍らに腰をかけると、皇帝のみが焚くことを許された玉香の深く甘い香りが百合を包む。


「医師の話では、もう身体に障りはないとのことだったが」


 苑輝が酒で満たされた盃を百合に手渡した。口に近づけると、薬酒独特の香りが鼻につくそれを、息を止め一気に飲み干す。舌に残った苦みが、百合の柳眉を歪ませた。


「また薬が増えてしまいました。そのうちに、身体中から薬草の匂いがしそうで困ります」

「そう申すな。皆、そなたの身体を案じてのことなのだから」


 親指で后の唇に残る薬酒を拭った苑輝は、その指先を舐め苦笑する。


「たしかに、旨いものではないがな」


 毎月の侍医による診察も、うんざりするほど出される薬も、すべては懐妊のため。わかってはいても、百合にとっては毎日が針のむしろに座らされているようなものだ。無言の圧力に、身も心も疲れ始めていた。

 その程度のことで授かれるものなら、毎日の食事が薬でも構わないというのに……。

 百合は空の腹にそっと手を当てる。我が子に、この話を読み聞かせる日は訪れるのだろうか。膝の上に乗せた冊子を撫でれば、自然と諦念の笑みが浮かんできた。


「陛下も小さいころにこれらのお話を?」

「さて、どうだったか。あまりに昔のことで忘れてしまった」


 苑輝はうそぶいて横になる。「でしたら」と百合は表紙を開いた。


「わたくしが読んで、陛下を寝かし付けて差し上げますわ」


 さっそく音読を始める。選んだのは、病を患う母のために天界の桃を盗んだ子どもの話。幾度か読めない箇所で止まることもあったが、苑輝が文字も確かめずに教えてくれた。どうやら、内容は彼の頭の中にしっかりと刻まれているらしい。

 そのようなことをしていてはもちろん寝付けるわけなどないのだが、夫も心なしか楽しそうに耳を傾けてくれている。なので、百合はこのまま続けことにした。

 母親が食べ終えた桃の種から育った木が大きく育ち、満開の花を咲かせて物語は終わる。静かに本を閉じたとき、百合は瑞々しい桃の香りをかいだ気がしていた。


「ずいぶんとこの国の文字を覚えたようだ」


 読後の余韻に浸っていた百合に感嘆の声がかけられる。やはり眠りに就くことができなかった漆黒の瞳は、真っ直ぐ妻に向けられていた。


「書く方はまだまだですが……。せんせいが良いのです」

「李明麗、か。噂以上の娘だったな」


 苑輝の表情が思い出し笑いで微かに緩む。ちくりとなにかが胸に刺さって痛んだのは一瞬。その痛みはすぐに安堵へと変わっていった。これが自身の望んだことだ。心を落ち着かせ、声音を変えずに問う。


「彼女に興味を持たれましたか?」

「……そうだな、おもしろい。さすがは李家の者というべきか」


 両端の上がった口元を燭の灯りが照らした。彼に合わせ、百合も唇で笑みを形作る。しかしその淡さに気づいた苑輝が訝しんだ。


「どうした?」


 百合はゆるりと頭を振り、髷が解かれた豊かな髪を揺らす。上手い具合に長い髪が顔を隠してくれた。手櫛で乱れを直すまでの僅かな間を使い、表情から憂いを取り払う。


「もっとこの国の文字を勉強しなくてはいけないと思いまして。いつか、陛下の皇子にもお話を読んであげられるように」


 例えそれが、自分の腹を痛めた子でなくとも。その言葉を胸の奥にしまい込んで、笑みを深めた。

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