忠臣の苦悩《4》

 喉が渇いていた。

 文徳は膳に目を落とすが、あるのは芳しく香る蘭鳳春さけのみ。しかたなく、無理やり絞り出した唾を飲み込んだ。


「それで、その段孝甚という文官は」

「さて? 文徳のおかげで、書き換えられた箇所の特定は終了した。冱州に赴いた御史も、の者が知ることはすべて訊き出したそうだ。いかなる事情があろうとも、公に関わる文書の偽装を手助けし、公金を横領したことには違いない。今ごろはおそらく……」

「あ、もう結構です」


 すっかり冷めた魚の身を箸でほぐしはじめた博全の言葉を遮る。

 葆に於いて、文字に関係する罪を犯した場合の罰は重い。どんなに軽くとも、偽装した文字の数に十を乗じた分だけの杖刑が科せられる。そこに横領罪が加わるのだ。

 文徳は、自分が指摘した文字を指折り数えようとして止める。まだ豚肉の塊が残る器を、そっと視界から外した。


「けっきょく、偽文官の正体はまだ掴めていないそうだな。本物の馬勲も、すでに生きてはいないだろう。そうなると、姉夫婦の焼死というのも疑わしい」


 せっかく博全を制止しても、あっさりと剛燕が無に帰する。文徳の口内に残るのは、すっかり苦みだけになっていた。

 年月を経ても残る書と違い、手掛かりなどないに等しい今となっては、馬勲らの死の真相を突きとめるのは難しい。同じ新人文官の文徳としては、どこかの山奥で人知れず野晒しとなっていないことを願わずにはいられなかった。


「でも、なぜそれまで別人だと気づかれなかったのでしょうか」


 官吏の異動――それも地方へとなれば、吏部の発行する辞令書が付きものである。そこには各所の長の署名や官印が押され、さらには辞令を受ける本人の自署が、身分証明代わりに記される。異動先で新たに作る身上札と照らし合わせるためだ。これがなくては、異動先で受け入れてはもらえない。

 辞令書を一から偽造するには手間がかかりすぎる。かといって、奪ったものを使用するには、本人の手蹟が邪魔をする。

 ほかに考えられる手段は、もっと以前。採試受験時からの入れ替わりか。

 ところが博全は、その可能性を否定した。


「偶然にも同郷の者が吏部にいた。しかも、辞令への署名を見届けているそうだ」

「まず冱州への道中でだろうな。地方へ下る官吏が、野盗に襲われるのは珍しいことではない」


 それゆえ裕福な家の官人は、私費で護衛を雇い伴うこともある。しかし、そのような余裕のない馬勲は一人旅だったはずだ。そこに目をつけられたのかもしれない。

 となれば、残された方法はひとつしか考えられなかった。


「ではやはり、偽馬勲は偽筆を使って、州府に潜りこんだのですね」


 辞令に書かれた馬勲の手蹟をそっくり写しただけでなく、職務中に作成する文書まで、個性の現われやすい起筆収筆などに違和感なく書いていたのだとしたら、たいした腕前である。それを正しい道に活かす方法はなかったのか。

 と、剛燕が思いついたように疑問を口にした。


「偽書を作るのに、通常はどれほどの時がかかるものなんだ?」

「そうですね。手馴れた者が同じ形の文字を写すだけでしたら、普通に書を書くのとそう変わりはありません。感覚的には臨書に似ているでしょうか。でも文章から作るとなると、字を拾うにしても書き癖を盗むにしても、それなりの量の資料がないと難しいと思います」


 これが、書き手の想いが強くこめられた『感字』や『看字』となると、さらに話は複雑となる。その文字が書かれた背景にまで気を配らねばならないからだ。能書家の文字が偽造不能といわれる所以は、そこにもあった。


「資料……か」


 つまりは、写したい本人の書いた文字や情報が必要となるということだ。それは多ければ多いほどよい。


「荀寛はあの書をみてもわかるとおりの筆無精だ。ほとんど代書させていたうえ、一年前の洪水で多くの書が流されてしまったらしい。江霞の庁舎や仮邸でも、端書がいくつかみつかる程度だった」

「では、さっきの書はどちらから?」

「奏上のためにどうしても奴が書かねばならなかったものを、書庫をあさって探してきた。もう少し残っていてもいいはずなんだが……」


 剛燕が不審がると、博全が眉間に深いシワを刻み、いっそう険しい面持ちになる。手元の魚は、いつの間にかきれいに骨のみが残されていた。


「荀寛は以前、朱大将軍の下にいたらしいな。いつまで?」

「四年近く前になる。酔って酒楼でひと暴れした挙げ句、呑み代を踏み倒そうとした。それも、一度や二度のことではなかったからな。親父殿の辛抱も限界で、頭を冷やせと飛ばされた」


 ならば北の国境にすればよかったのに、などと、文徳が軽口を挟めるような雰囲気ではない。

 博全の鋭い視線が文徳を捕らえる。


「四年……いや、やり取りが始まった時期を考えると、正味三年もなかっただろう。それでも、幼子が偽書を書けるようになるものか?」


 彼の言わんとするところを察し、からからに干上がった口を湿らそうとするが、今度は唾液さえも出てこない。文徳は首だけを縦に動かした。


「それだけあれば大丈夫でしょう。筆の握り方から教え、ひたすら荀寛殿の手蹟だけを習わせれば、自在に文が綴れるようになるのではないかと……」


 掠れる文徳の言を聞き、博全は確信を得たように肯く。


「おそらく荀寛が宮処にいた際には、演習記録など、多少なりともなにかしらを書き記していたはずだ。馬勲の手蹟は、採試の答案に残されている」


 文徳がみた荀寛の偽書は、ずいぶんと簡潔な文章だった。少ない書から字を拾い集め、間を繋げたものだとしたら、それも納得がいく。

 一方、成人である偽馬勲が改ざんした文字は、偽装しているという書き手の想いを隠しきれていなかった。しかし、馬勲の真蹟を詳しく知る者がいない冱州に彼の書が留まる限り、特徴をある程度捉えるだけでも事は足りるはずだったのだ。

 多岐にわたり大量にでる採試の答案用紙は、その者の筆致を習うに最良の教材ともいえた。


 遠く離れたふたつの地で作られたどちらの偽筆も、はじまりは皇宮なのかもしれない。

 導き出された予想は、廷臣三名の顔を曇らせるに十分だった。


 息苦しいくらいの静寂に包まれた房内に、とくとくとく、と酒を注ぐ音が響く。


「狙いはなんだ?」


 剛燕は苦々しげに呑み干す。空になった酒杯が床に叩きつけられた。びくりと肩を揺らし、文徳が姿勢を正す。

 それなりに大きな音がしたにも関わらず、扉の向こうは変わらずに静けさが保たれていた。

 自分はなぜこんなところにいるのかと、天を仰ぐ。

 仮にいまここで斬りつけられて、助けを求めたとしても、きっと誰も来ないだろう。

 魔除けのはずの丹で塗られた藻井の枠を瞳に映す文徳の頭に、物騒な想像が浮かんだ。

 ごくわずかに眉間のシワを動かした博全が、粉々に砕けた酒杯へ憐憫の一瞥を投げる。


「冱州の件は金銭目的だといわれれば片がつく。問題は江霞だ」


 よしんば密書通りにことが運び、梛国が多少なりとも江霞州の土地を削りとれたとしても、それは一時にすぎない。さすがの苑輝も、領土を侵されてまでは看過しないだろう。梛は葆軍に反撃され、またしても属国へと逆戻りの道を辿る可能性のほうが遥かに高い。

 はたして葆の者が、先の描けない梛国に恩を売ろうとするだろうか。しかしながら状況から推測すれば、国内に主犯がいると考えるのが妥当だ。

 では、いったいなんのために?

 一周まわって剛燕の問いに戻ってしまう。


「それにしても、梛の王はまだ若いとはいえ浅慮がすぎる。あのような国主を戴かねばならぬ民が気の毒だ」

「目の前の好物に、手を延ばさずにはいられない年頃なのだろう。周りにまだ話の通じる年寄りが残っていてよかったではないか」


 曲がりなりにも一国の王に対し敬意の欠片もない物言いだが、巻き込まれる民のことを思えば、笑って済ませられる話ではない。

 文徳は荀寛の偽書を思い浮かべ、ほかに不審な点がなかったかを探るが、気を抜けば見誤りそうによくできていた手蹟に感心させられるばかりだ。あのような書を送り付けられたら、葆の文官たちとて容易く真筆だと信じてしまうだろう、と思い至り違和感を覚えた。


「梛には、葆ほど書に詳しい者はいないと聞いていますが、実際はどの程度なのでしょう」

「昔の名残で、文を読むには不自由しない者も多いらしいが、書く方は限られるだろうな。ましてや、者がいまの王宮に残っているかどうか」

「だとしたら、あれほどの手間暇をかけて、荀寛殿の手蹟に似せる必要はないと思いませんか。そもそも、どうして密書が真蹟だと信じられたのでしょう」


 自国でさえ照合に困難を極めた人物の筆蹟が、他国で詳細に分析されるとは考えにくい。ではなにをもって王の信用を得たのか。

 文徳の疑問には、剛燕が答えをくれた。


「梛王の元に届けられた書には印があったという。あれにも官印が押されていただろう? 関の通行符にも使用される荀寛のものだ」

「あ……」


 文字にばかり気を取られていた文徳だったが、文末には朱色の方形がたしかに存在していた。筆蹟と印影。このふたつが揃ってしまったら、葆ではどう言い繕おうとも逃れられはしない。

 それを儚み縊死したとしても、誰ひとりとして不審に思うことはないだろう。だが剛燕は違ったというわけだ。


「印などどうとでもなる。おおかた、どこぞで酔い潰れて寝入っている隙に使われたのだろう。いつか寝首を掻かれると、再三忠告はしたのだがな」


 酒癖の悪さが身を滅ぼした。自業自得である。

 それだけでは納得できない無念が、剛燕の苦笑いには濃く表れていた。

 思案顔の博全が螺鈿の飯卓の縁を指先で叩く。一、二、三、四……。数えているうちに閉じそうになった瞼を、文徳は必死で持ち上げた。


 正確に刻まれていた音が止む。 


「本物の印章に加えて、真筆に酷似した手蹟という念の入りよう。梛国へ向けてというより、我が国を欺くための工作とは考えられないか。例えば――」

「しくじった際、荀寛に罪を着せるため。あるいは、端からなすりつけるつもりだった。どちらにせよ、己の身を確実に守るためだろうな」


 怒りを押し殺した剛燕の平坦な声音は、かえって凄みが増す。飯卓から移動した指先が、博全のシワが消えない眉間を揉みほぐした。


「密書の運び役は?」

「深手を負ったまま河に飛び込んだらしい。遺体はあがらなかったが、あの水嵩と流れではおそらく……」


 剛燕が苦渋に満ちた顔を横に振ると、真相に繋がるもの少なさに博全からは落胆のため息が出る。しかし、まったくないというわけでもない。


「まずは偽書の作成者を探すのが得策だろう。少なくとも馬勲と荀寛、両者の書を持ち出せた者が関わっているはずだ」


 打開策かと思われた博全の案に、剛燕が肩をすくめて待ったを掛ける。


「皇宮に出入りする者が何人いると思う? 現にオレができたではないか。なあ、文徳」 

「え? あ、はい。もちろん例外はありますが、書庫に保管されているたいていの書は、官人なら閲覧も持ち出しもできるはずです」


 日常的な記録や採試の一次、二次試験の答案などが、最重要書類として扱われるとは思えない。場合によっては、用済みとなり処分に回されたものを、こっそり手に入れていたとしても不思議はない。それが可能な人数を考えれば、途方もない数字となってしまう。

 だが博全は、涼しい顔で言い放つ。


「この永菻に住む人間の数を知っているか? それに比べれば、皇宮への出入りが許された者などほんの一部。端から洗っていけばよいだけだ」

「誰がやるんだ、それを」

「江霞と冱、それぞれに縁のある人物から始めるか。それより、書の名手をあたるほうが早いかもしれん」


 剛燕の抗議などどこ吹く風で、喜々として策を練る。得意げに胸を張る姿は、やはり明麗とそっくりだ。


「だから誰が……」

「私は忙しい。おまえ以外に誰がいる。陛下が心血を注いで築かれた平和な世では、将軍なんぞすることがなく、ただの俸禄泥棒と変わらん」

「暇なものか! 今日も鼻水を垂らす天河の見舞いやらなにやらで、皇城中を駆けずり回っていたのだぞ」

「ちょうどよかったではないか。戦がなくては身体が鈍るばかりだろう」


 皇帝の信も厚い高官たちが、子どもの喧嘩のように言い争う。

 その隙に、喉の渇きが限界にきていた文徳は、茶を求めて表へ出ようとした。この際、贅沢は言わない。白湯でも水でも構わなかった。


「どこへ行く」

「食い逃げするつもりか」


 いまその時まで反目しあっていたはずのニ色の声が、見事に重なって詰問する。


「お茶を一杯欲しいだけですよ。逃げるも何も、もう僕がわかることは……」


 文徳としては正直、国同士の諍いや官吏の汚職になど関わりたくはない。ただ、文字が本来の使われ方をされなかったこと、それにより不幸になった人がいることが残念でならなかった。その想いだけで、この場に留まっていたのだ。

 一介の下級文官には、これ以上できることなどないはず。

 ところがその考えは、皇帝陛下の忠実なる臣に覆される。


「なにを言っている。これからが、おまえさんの腕の見せどころではないか」


 熊のような手で力強く肩を押され、またもとの席に座らされてしまった。

 博全の射すくめられるほど真っ直ぐな眼差しは、文徳から再び立ち上がろうとする気力を奪う。


「ここまでとなると、すでに宮処でもなんらかの動きがあるかもしれん。仮に皇宮内で偽筆が広まれば、由々しき事態を招きかねない」

「でも、僕には記録係の仕事が……」


 絞りだした細い声は、博全の耳にまでは届かなかったようだ。いや、届いていても聴いていない。


「保管されている書に怪しいものはないか、一件一件調べあげる。それが『鞠躬尽瘁』の玉珮を賜った者の当然の務めだ」


 官吏の数など比ではない、無理難題を吹きかけられる。ここでうっかり了承などしたら大事になることくらいは、容易に想像がつく。無駄と知りつつも、文徳はもう少しだけ抵抗を試みた。


「明麗……さんにも書を教えなくてはいけないんですが」

「あれが成すべきは本来別のところにある。一女官のわがままに付き合ってやる必要などない」


 本人が聞いたら、顔に朱をのぼらせ、大きな目を吊り上げて反論しそうな言い分である。


「でも、皇后さまの御為だとおっしゃっていましたよ。陛下のご希望でもあるとか。これってもう、上意じゃないですか?」


 ここぞとばかりに、皇家に忠誠を誓う李家への、最大にして最強の弱点を突く。案の定、一時博全の饒舌が止まった。

 文徳は心の中で拳を握り、反撃の余地をみつけられぬうちにたたみかける。


「毎日どれだけの文書が作られるか、中書省の次官であられる博全さまならおわかりになりますよね。それに皇宮には葆でも一流の、書に通じた人たちが集まっているんですよ。そんなこと、簡単にできるわけ……っ!?」


 文徳は呻いて頭を抱えた。

 それを見たふたりが不審に思わないわけがない。指の隙間から覗くようにして視線だけをあげれば、目を見開く剛燕と冷ややかな半眼の博全がいた。


「なにを知っている」


 獣が唸るように低い剛燕の声が、夜も更けた室内の気を震わせる。もはや逃げ道はない。文徳は諦めざるを得なかった。

 ここで同僚に約束させられた件を説明するには、どうしようもなく乾いた唇をなんとかしなければとうてい無理だ。荀寛へ献げられた杯が文徳の目に入る。口いっぱいまで満たされた酒を零さないよう、慎重に両手で掲げ、黙祷を献げてからひと息に喉の奥へ流した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る