忠臣の苦悩《5》

 しかめた顔のまま、酒で湿らせた重くてしかたがない口を開く。


「僕が話したって、言わないでくださいね」

「誰にだ?」

「免官とかになるのでしょうか?」

「内容による。それに、我らが決めることではない」


 すげなく返された言葉からは、惜しげもなく苛立ちが漏れ出ている。文徳は先を急かす圧にあえなく屈し、酒気の濃い嘆息をひとつ吐いて覚悟を決めた。

  

「……あの、荀寛殿の偽書に使われていた紙と同じものを思い出したんです」

「城下にある店にでも置いてあったか?」

「いいえ。秘書省の文官の休暇願に使われていました」


 通常は支給される官製の料紙を使用する。しかし、文房四宝にこだわる者が多い書記部の中には、自分で好みの紙を用意する文官も珍しくない。ゆえにその点は、文徳も特段気にしていなかった。

 しかし、顔も素性も知らぬ文官の届書で目にしてしまった文字は、忘れることなどできない。


「その届を承認したよう祟啓すいけい殿の署名が……偽物だったんです」


 剛燕の喉が動く。みるみるうちに厳しい形相に変わっていく博全の口元からは、ぎりりと歯噛みする音まで聞こえるようだ。 


「いつの話だ? そのような話は聞いたことがない。なぜ報告があがってこない?」

「それは……」


 皇宮内で偽筆がみつかったとなれば、大騒ぎになるのは間違いない。大々的に朝議で取り上げられてもおかしくはない案件である。

 この期に及んで言いよどむ文徳に、博全の眉が跳ねあがった。


「よもや不正を知りながら黙認したと? そなた、腰のぎょくに恥ずかしくはないのか!」

「まあ、そう興奮するな。少しは新人のしがらみを察して……と言っても博全にはわからんか」


 身を乗り出し、文徳の胸倉に掴みかかろうとする博全の後ろにまわり、剛燕が羽交い締めにしながらなだめる。

 なおも文徳を捕まえようと博全が脱出を試みるが、彼の倍はありそうな剛燕の腕は微動だにしなかった。


「とにかく、その偽造された書を確認するのが先決だ。文徳、それはいまどこにある?」


 博全の手と気迫から逃れようとした上半身を仰け反らせたまま、文徳は必死で首を左右に振る。発見直後に異動を命ぜられたため、あの書の行方は本当に知らない。

 場合によっては、面倒を嫌った、被害者ともいえるはずの楊自身の手により、とうに廃棄されている可能性も高い。

 しどろもどろで紡いだ答えには鋭い舌打ちが返され、文徳の耳を刺す。剛燕に拘束されていた腕をさする博全から放たれたものだ。


「楊祟啓――楊家の嫡男では、とっ捕まえて締め上げるわけにはいかないか」


 貴公子然とした風貌と口調が、憎々しげに歪む。


「たとえ拷問したところで、あのお堅い楊礼部尚書の不肖の息子殿は、なにも知ってはいないだろうよ。逆に、己に都合のいい証言をでっち上げかねない」

「……たしかに、保身のための小細工ならまだしも、天に弓引くようなだいそれたことができる玉ではないが」


 採試を受け官吏となり、自らの力で登ってきた博全とは異なり、祟啓は資蔭により登用された、いわゆる『親の七光り』である。そのこと自体は悪ではないが、恵まれた立場であることを自覚せずに慢心する態度は、多くの官人から冷ややかな評価を下されていた。

 剛燕のもっともな見解に気勢を削がれた博全から、急速に疲労の色を濃くした顔で懇願される。


「どんな小さなことでも構わない。手がかりとなりそうなものをみつけたたら、漏らさず知らせてくれ。これは、そなたにしかできない」


 しかし、そのように頼まれたところで快諾するのは躊躇われ、かといってむげに断るには深く関わりすぎた。

 文徳は身の処し方を逡巡する。

 ところが博全は答えなど待っていなかった。まるで拒否などされるはずはないとばかりに、文徳からふいと憂い顔を逸らす。


「剛燕。江霞での淘利さまのご様子にお変わりはなかったか」


 何気ないような問いを受けた剛燕の表情に、わずかながら緊張が走るのがみえた。しかしそれもすぐに鳴りを潜め、人当たりの良い笑みが作られる。


「いまは釣りに凝っていらっしゃるそうだ。滞在中にも度々お誘いをいただいてな。魚がかかるのを待つだけではつまらんとお断り申し上げたのだが、大物を釣るには時と辛抱が必要だと、お小言を頂戴した」

「なるほど、魚釣りを……」


 再び物思いにふける博全を横目に、剛燕は久しく止まっていた酒を再開した。瓶子を手に、呑めると判明した文徳にも勧めてくる。目の前で呷ってしまっていてはもう言い訳のしようがなく、葆国屈指の武将手ずからの酌を受けることになってしまった。

 文徳はしばらく手の中でさざ波を打つ水面を睨み付けていたが、意を決して口元まで杯を運ぶ。そのまま傾け、一杯目と同じように胃の腑まで流しこもうとした。

 そのとき剛燕が、空けた酒杯の縁を武骨な指で弾き、合図のように音を鳴らす。


「オレはな、博全。別に苑輝さまの血を引く御子が次の玉座に就かなくても構わんと思う」


 文徳の手が固まった。思わず目玉だけを横に滑らせ、扉がしっかり閉まっているかを確認してしまう。そこが変わらずの沈黙に守られていることに安堵した。

 澄んだ音に反応してあげられた博全の顔が、酔いとはあきらかに異なる朱に染まり、眦が吊り上がる。膳をひっくり返しそうな勢いで、飯卓に手の平を打ち付けた。


「剛燕! おまえ、己が発する言葉の意味まで理解できなくなったのかっ!?」

「わかっているさ。わかろうとしないのは、おまえたち父子おやこだろう?」

「なにを、いったい……」

「この先、いくら待っても明麗が妃になることはない。苑輝さまがあの娘を抱くことは、ない」


 あくまでも静かな剛燕の声に、落ち着きを取り戻した博全から冷笑がもれる。


「李の家の女だからか? その点なら心配は無用。父も私も自ら退く覚悟はできている。それでもというならば、ほかの適当な家から……」

「そうではない。本当は知っているはずだ。苑輝さまには、あの西の姫さんだけだということを」


 妻帯を拒み続けていた皇帝の頑なな心を溶かしたのは、遠い異国の姫だった。いやまやふたりの仲の睦まじさは、この国の誰もが知るところだ。そして皆が、一日も早い世継ぎの誕生を心待ちにしている。


「しかしこのままでは後継が望めない。国のためには、陛下にお心を曲げていただくことになっても皇子が必要なのだ」


 葆の東宮位は、苑輝の即位以降空席が続く。そのことを不安に思う者もまた多い。不安はいずれ、不信を呼ぶ。

 それを知る博全が、焦燥に駆られるのも無理はない話なのだ。再び鼻息が荒くなっていく。

 剛燕はもどかしげにひげで覆われたの頬を掻きつつ、駄々をこねる子どもへ向けるような眼差しを送った。


「だから、そもそもそれが違うのではないかと言っているんだがな」


 博全の非難と侮蔑のこもる視線を真正面から受けながらも、二十年以上苑輝を傍で見続けていた剛燕の主張は惑わされることはない。


「国や民のためというだけならば、その才がある者が上に立てば良い。人には皆、同じように赤い血が流れている。それだけではいけないのか?」

「龍の加護はどうする。あれは琥家の血脈に与えられるものだ」


 噛みつくような意見は、薄ら笑いで一蹴された。


「その龍がなにをしてくれたという。日照りで干上がった地に雨を降らせてくれたか? 暴政を布く国君の喉笛を噛み切り、安寧の世を招いてくれたことがあったか? どうだ、文徳。おまえさんのいた村は、常に実り豊かだったか?」


 唐突に話を振られ、杯を落としそうになりながらも、文徳はゆるりと首を振って否定を示す。

 雨が降らず、田畑に撒く水どころか飲み水にも困った酷暑の夏や、長雨で蒔いた種子がすべて流されてしまったこともある。両親と、恨めしげに空を見上げたことなど数しれない。


「僕がいまここにいられるのは、陛下の御厚恩によるものです。そして劉将軍にも、感謝してもしきれません」


 家族と住む家を一夜で失くし頼る宛てもなかった文徳が、命を永らえ官として職を得るまでになれたのは、ひとえにあの悪夢の夜の出逢いがあったからである。見たこともない、伝承の中だけに棲まう龍の恩恵を感じたことなど、ただの一度もなかった。

 しみじみと言えば、剛燕は満足そうに肯く。


「それにもし、生まれた皇子がどうしようもないだったらどうするつもりだ」

「陛下の御子に限って、そのようなことには決してならない! 我々がしない!」


 博全の盲目的な考えに、今度こそ剛燕は嘲笑を隠さなかった。


「ならば博全は、琥家の血さえ流れていれば、帝位に就いたのが苑輝さまの兄君でも構わなかったというわけか。オレはまっぴらごめんだな。玉座を守っているわけじゃない。苑輝さまだからこそ、お傍にいるんだ」


 同腹ながら、血の気が多く短慮だった苑輝の兄は、臣下の支持が厚い弟に皇太子の座を奪われると誤解し、実弟の暗殺を試みた。その際に負った傷が原因で、苑輝は生死の境を彷徨ったこともある。

 先帝の世に前線で討ち取られ、とうの昔にこの世からいなくなった者だとしても、剛燕の心証がこの上なく悪いままなのはしかたのないことだ。

 本心では、博全とて抱く想いは変わらぬのだろう。「口を慎め」と窘める声には力がない。


「いっそ博全、おまえが次の皇帝にならないか?」

「劉剛燕! 貴様っ!」


 耳をつんざく怒号と、自らの手から転げた酒杯のたてた音が、文徳の心臓を縮こまらせた。こぼれた酒が膝を濡らし大きなしみを作ったが、その冷たさも気にならない。

 泰然と笑みを湛える剛燕の喉元には、博全が握る箸の先が向けられていた。


「李家に……この私に、簒奪者になれというか」


 燭の灯が燃え移ったかと思うほどの怒りの炎が揺れる瞳とは裏腹に、語気は肝が凍えるほど冷たい。

 ぴたりと据えられた箸先が、日に焼けた肌に沈む。それでも剛燕の表情は、急所を狙われているとは思えぬほど凪いだまま。

 剛燕は蓄えたひげの下でおもむろに口角をあげ、博全の手首を無造作に掴んで払いのけた。


「君主の器に足らない、薄まった古い血を呼び起こすくらいなら、その方がいい。そう思うたまでよ」

「そうならないために、こうして知恵を絞っているのだ」


 箸を取り落とした博全が、娘のような白肌についた赤い痕を押さえて唇を噛みしめる。


「陛下も御年四十になられた。無論、このままで良いとは思われていないはずだ。なにかお考えをおもちなのだろう」

「それは承知している! しているのだが……」


 博全をさいなむのものの中には、主君の深意が読めない自分への苛立ちも含まれているのだろう。手首に当てた手が、自身の肌に爪を立てていた。


「やっぱり兄妹だなあ」

「なんだとっ!?」


 博全の不機嫌極まりない声で、文徳は失笑と胸のうちが己の口からもれていたと知る。 

 自分の存在など忘れ去られたかのごとく、なにやら物騒な話題が始まってしまったので、懐から手巾を取り出し、袍に作ってしまったしみを拭いていたのだ。しかし、いくら耳に入れないように気をそらしたつもりでも、当然ながらこの距離では不可能だった。

 射殺されそうな博全の目に睥睨されて、亀のように首をすくめる。


「いえ、すみません。あの……同じだと思いまして」

「どこがだ!?」

「明麗も、皇后陛下を想って心を痛め、たくさん怒って悩んでいました。博全さまがこの国や主上に寄せられるお気持ちと、まったくいっしょですよね」


 とたん、博全の顔から首から、耳の裏までもを朱に染めたのは、憤怒か、はたまた羞恥によるものか。

 剛燕からあがった大笑いが、さらに追い討ちをかける。


「違いない! 文徳の申すとおりだ。だがな、あの嬢ちゃんのほうがはるかに生産的だぞ。畏れ多くも皇帝陛下に、子作り指南をするつもりでいたのだから」

「剛燕。頼むからその話はもう勘弁してくれ……」


 だが、徐々に落ちてゆく博全の肩を愉快げに眺める剛燕の口が、そうやすやすと止まるはずもない。


「さすがにだのだのと訊かれても、こればかりは答えようがないからな。それこそ、師匠に実地で教えてもらえと、丸投げしてしまったわ」


 人の悪い笑みに、博全の下がりきっていた肩が大きく跳ねる。


「師匠に……だと?」


 文徳は、胡乱な目つきで見据えられた。今宵一番と思えるくらいに剣呑な光を帯びている。


「周殿から伺った。文徳、そなたたちは書の習練と称し、人気のない書庫にふたりきりでこもっておるそうだな。よもや……」

「とんでもない! 子どもはもちろん、妻だっていない僕に教えられることなんかなにもありませんよ! 第一それ以前の問題で……」


 文徳は語尾を濁らせ、にやつく剛燕を恨めしげに睨めあげた。


「明麗もきっぱりと断ったじゃないですか。後宮の女人が皇帝以外の男と、ま、まじ……交わるわけにはいかない、って! 劉将軍もその場にいらしたのに、博全さまの誤解を招くようなことをおっしゃらないでください」


 出入りを厳しく制限されている後宮に、無断で足を踏み入れただけでも罪に問われる。そのうえ、端女であろうと手をつければ、男女双方の首が飛ぶこともあり得た。後宮の女官という明麗の立場は、たとえ通用門の外に出たところで変わらないのだ。

 師匠である文徳に、そんな危険を冒させるわけにはいかない。明麗は、神妙な面持ちでそう言い切ったのである。

 剛燕の大きな背中が丸まり、思い出し笑いで小刻みに震えていた。


「博全。明麗を早く後宮あそこから出してやれ。さもなくば、いつか過剰な探究心で身を滅ぼしかねんぞ」

「退宮のお許しを願い出るにしても、それこそ縁談をまとめるくらいしか方法はない。あの暴走馬の手綱を締められる度量をもつ人物など、私は陛下以外に思い当たらん」


 この数刻でひどくやつれたようにも見える博全は深く嘆息した。


「この際だ。おまえのところで引き取ってはくれまいか」

「バカをぬかせ。義侑ぎゆうの加冠までにあと何年あると思っている。それに、劉家ウチが李家と姻戚になるわけにいかんだろうが」


 半ば投げやりな提案は、あえなく却下されてしまう。


「ああ、そうだったな。それでは本当に謀反の疑いをかけられてしまう」

 

 自嘲する博全を慰めるように、剛燕が彼の杯に酒を注ぎ足す。


「それに、乗りこなし、従わせるだけが馬ではないぞ。のんびり並んで歩くもよし、ときには自由に駆ける姿を見守るのも良いものだ。文徳も、そうは思わないか?」


 尋ねられた文徳の眼裏には、思い出の中にある木彫りの馬より、青空の下で見た天河の毅然とした佇まいや、颯爽と鬣をなびかせ疾駆する様子が強く浮かぶ。


「そうですね。僕も騎馬は苦手ですけど、気持ちよさそうに走っている姿を眺めるのは好きです」

「我が妹は馬ではない」

「え? ええっと、申し訳ありません。そんなつもりでは……」


 狼狽する文徳を鼻であしらい、博全は憤然としたまま杯を空ける。「先に言い出したのはそっちだ」と笑いながら、剛燕がまた酌をした。

 その手で文徳にも新たな杯を勧めてきたが、それを頭を下げて丁重に断る。


「ありがとうございます。でも、そろそろお暇をさせていただきたく」


 明朝も早い。家に独りでいる養父も心配だ。辞意を告げると、予想に違わず剛燕に引き留められた。


「ここに泊まり、そのまま出仕すればよいではないか。周殿が気がかりなら、人を遣って様子を窺わせよう」

「いえ、本当にもう。ご厚意は十分に頂戴いたしました」


 この小宴にかかった費用は、おそらく文徳が受け取る俸禄の数ヶ月分にも及ぶはずだ。雪晏のような妓女を侍らせて宿泊なぞすれば、年単位でのただ働きになりかねない。万一文徳がそんな事態に陥れば、支払いが気がかりで、まんじりともできずに朝を迎えることになるだろう。


「なにをこれしき。今宵の口止め料とこれから頼む仕事を考えれば、まだまだ足りないくらいだ」


 文徳の頭に一瞬、誘いを受けたとき、袖を千切られようとも振り切って逃げ出すべきだったという後悔がよぎる。分をわきまえぬ報酬を受け取る代償は計り知れない。


「もちろん、こちらで耳にしたことは一切口外しないとお約束します」


 協力の件はあえてはぐらかせ、深く下げた頭を戻して立ち上がった。


「おい。本当に帰るつもりか? ひとりで大丈夫なのか?」


 若干左右に振れた身体を心配されるが、助けを断り、足元に注意しながら戸口へ向かう。揺れる文徳の視界に、剛燕が叩き割った杯の小さな破片が目に入った。それをまたいで越そうと高く右足をあげる。

 ぐらりと左足がくずおれ、身構える間もなく仰向けに倒れた文徳は、強かに後頭部を床に打ちつけていた。

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