忠臣の苦悩《3》
「あの書簡の手蹟に関しては、先ほど申し上げた以上のことはわかりません」
先手を打って牽制する。
ただ一枚の紙に書かれた文字から得られる情報は極わずか。そこから、見ず知らずの書き手を突き止めるなど、どだい無理な話なのだ。
「なにも下手人の名を当てろとは言わん。だが筆者本人のことはわからずとも、偽筆についての知識は、オレたちよりあるはずだ」
剛燕は、瓶子を振り中に酒がないことを確認すると床に転がし、新しいものに手をのばす。それに先んじ、博全がきっちりと酒杯の縁まで満たした。
「しかし、数字の改ざんの件もそうだったが、この葆で、偽書など容易に作れるものなのだろうか」
剛燕とは正反対の、つるりとした顎を博全がなでる。秀麗な顔には不信感が現われていた。
書に通じた者の多い葆の中でも、その精鋭が集められている皇宮に身を置く彼には、文字を偽装し、それを悟られずにいることが不思議でしかたがないのだろう。
「たしかに、採試に合格するような人の筆蹟を真似るのは、簡単ではありません。でも一歩宮城を出れば、平然と偽装を施す輩や、その偽書により憂き目をみる人たちはいくらでもいます。そしてそれは、
貧しい農村部では、大人でも己の名を読み書きするのがやっとという者が大半だ。
苦しい生活の中で交わさなければならなかった証文の内容や数字が改ざんされたとしても、それを見抜ける目も証明する手段も持たなければ、泣き寝入りを余儀なくされる。貧困層における識字率の低さが招く悲劇のひとつだ。
実際、文徳自身も宮処へ来るまでは、筆を持ったことさえなかった。
「そういえば、この永菻でも話には聞いたことがある。偽筆を得意とする書家が裏家業にしていると」
「裏どころか、専門で請け負う者もいますよ」
書が盛んなこの国で、その道で身を立てようとすれば、必然とせめぎ合いも激しくなる。書家として大成すること叶わず、闇に身を堕とす者も少なくない。そのような書家崩れたちの手により偽造された文字は、書に疎い素人ではとうてい判別が困難だ。
そこで周楽文の邸には、鑑定を依頼する文書がよく持ち込まれていた。曰く、
売買に関わる金額が変わっている。
賃貸借の約束だったはずが、譲渡に書き換えられた。
等々。文字は残る、という最大の利点を悪用した、書家の風上にも置けない所業だ。
たとえ民間だろうが、文字の偽装は当然罪となる。公に訴え出れば、秘書省の書記官による筆跡鑑定を受けることも可能だ。ところが真贋を見極めてもらうには、膨大な費用と時間がかかってしまう。ならば心ばかりの依頼料を渡し、信頼に足る人物に直接観てもらったほうが話が早い、というわけである。
そこで偽書と確定されれば、謝礼に少々色をつけ、その旨を一筆書いてもらう。出処の確かな鑑定書を添えることにより、面倒な手間は格段に減るのだ。正式な審理にかけられることを恐れた相手側から、示談を申し出られる場合も多い。
かつての高位文官であると同時に、名の通った書家である周楽文ならではの副業ともいえるだろう。
その様子を間近でみて、時には私見を求められながら、文徳は偽筆を学ばせてもらうことができた。
「市井までそのような有様では、世にあるすべての書を疑ってかからねばならなくなるではないか」
心底困ったように、剛燕が太い眉を寄せる。
「だから、財や地位を持つ人たちは自衛手段も兼ね、模倣されない個性のある手蹟を身に着けようとしますし、たくさんの書をみて目を養うのです」
主に被害を受けるのは、十分に書を学ぶ機会を与えられなかった層だ。楽文の元を訪れる者たちもしかり。しかしそこで救えるのは、ほんの一握りにも満たない。
だれもが文字を習うことができる国になるといい。そんな想いもこめて文徳が記したのが、採試の論文である。
いつか、皇帝が叶えてくれる日がくるのだろうか。
葆国民譚の写本を所望する苑輝の前に召されたときを思い出し、ぼんやりとしていた文徳の意識が、手を打つ音に覚まされた。
「なるほど。さしずめ、名門李家のご嫡男も同様、といったところだな」
「おまえはもう少し学んだほうが良い。あの殴り書きを書と呼ぶのは、文字に対して失礼だ」
得心の視線を送っていた剛燕を、博全は鼻先で笑う。
武人である剛燕の筆蹟を目にする機会は、末端の文官である文徳にとって、さほど多くはなかった。それでも、黒光りするような濃い墨で書かれていた彼の自署は、この場でもありありと目の前に浮かんでくる。
「ご安心ください。劉将軍の力強い筆致には、豪胆なお人柄がよく表れています。あれを真似できる者などそうはいないでしょう。きれいなだけが良筆ではありません」
剛燕の筆蹟ほど自身の姿を捉えているものも珍しい。
初見では、重みがありはみ出さんばかりに豪快な筆の線は、舞うように身軽だった小柄な少年と結びつかなかった。ところが、ひと度同一人物だと知れば、型にはまらない奔放さに合点がいく。
読みがまだまだだったと、己の未熟さを思い知らされたものだ。
「聞いたか、博全。オレの字は名筆らしい。未来の書聖がそうおっしゃったぞ」
「書を見る目だけではなく、人の話を聞く耳まで悪いとは気の毒に。いまのは、決して褒め言葉ではなかろう」
高くなった剛燕の鼻を、軽口でへし折った博全の面持ちが真顔に戻る。
「もちろん民の間で起こる問題を捨て置くことはできないが、まずは官に潜む不正をどうにかしなければならんだろうな。こうも
「文徳が見抜いたという改ざんは、
「ああ。以前、
「でも、数字が改ざんされていたことを、博全さまはご存じだったと……」
文徳の指摘は、すでに判明していた不正の詳細な特定に役立てられただけだ。それを知り、よけい身に余る報奨を受け取る気にはなれなかった。
「あの不正が発覚した経緯は、いささか変わっているのだ」
博全は用心深く扉の外の気配を探る。人払いは行き届いているようで、耳をそばだてても微かな虫の音が聞こえるのみ。
それでももう一度室内に目を配ってから、永菻より北の地にある冱州で起きた珍事を語りはじめた。
事の発端は、冱州府に勤めていた
いまから五年ほど前、採試に合格したその年に宮処から赴任してきた馬勲は、先の冬にまだ三十そこそこの若さで胸を患い、独り寂しくこの世を去る。
世話焼きの上官が同僚たちに訊いても、彼は人付き合いが悪く妻帯もしていない、それに加えて故郷にも身寄りがないはずだという。それでも念のため、身上書に記載のある彼の里へ知らせることにした。
すると、幼くして父母を亡くし、唯一の肉親である年の離れた姉夫婦に引き取られた馬勲と、血の繋がりはないが縁ある仲なので、ぜひに墓を造ってやりたいと申し出る者がいたのだ。
聞けば、医者をしていた馬勲の義兄にたいそう世話になり、彼のことも子どもの時分からよく知っていたらしい。弟の採試合格の報に喜んでいた矢先に起きた火災で死亡した医者夫妻に代わり、手厚く葬るために駆けつけたとのことだった。
冱州は寒さ厳しい土地である。湖を厚い氷が埋め尽くす真冬だったこともあり、傷みが少ないうちに無言の対面を果たすことができた。
ところが、土気色に変わった馬勲の顔を見るなり、妙なことを言いだす。「これは本当に彼なのか?」
久しぶりのうえに死顔のせいでは、と言ってみても、別人だと譲らない。本人なら右腿に古傷があるはずだと、いきなり遺体の衣を剥いだのである。
果たしてそこに、目的の傷痕はみつからず。
では、この男はいったい誰なのか?
州府はたちまち大騒ぎになってしまった。
不自然なほど数少ない遺品を調べても、真の身元を示すものはみつからない。対処に悩み議論していたところへ、おずおずとひとりの官吏が進み出た。
税の出納を担当していた
以前、馬勲にそそのかされ、帳簿の改ざんに手を染めたことがある、というのだ。
平伏叩頭で、己の知るところは洗いざらい話すのでせめて妻子の命だけは、と滂沱の涙を流す段孝甚を糾問するにつれ、州府の役人たちの表情はみるみるうちに険しさを増していくのだった。
馬勲は、冱に到着後まもなく、段孝甚に接触を試みたそうだ。
当時、病に苦しむ父親に飲ませる高価な薬の代金を工面できずに悩んでいた段孝甚は、彼の旨い話を話半分で聞くことにした。
そこで馬勲は、「中央に上げる文書の数字を少々書き換えるだけ」と事も無げに告げる。が、段孝甚とて、僻地とはいえ曲がりなりにも書を扱う文官である。葆で文字を偽装することの難しさは、十分すぎるほど心得ていた。
お互い、この話はなかったことにしたほうがいい。
席を立とうとした段孝甚を引き留め、馬勲はおもむろに筆を執る。書き上げたのは、段孝甚の名。それも、本人の手蹟がものの見事に再現されていた。
驚く段孝甚に、馬勲はこう言い放つ。
「偽装は自分が行う。段孝甚は、清書に回す直前の書を、いったんこちらに預けるだけでよい」
公文書偽装という重罪を勧める声音と目つきは淡々としていて、段孝甚は背筋に薄ら寒いものを感じた。同時に、毎夜咳き込み丸める痩せ細った父の背中が、脳裏に浮かぶ。
その後、馬勲がどのような手法を用いて不正を行ったのかはわからない。だが、原文を知る段孝甚がみても、どこをどう改ざんしたのか判別がつかないほど、偽装は完璧な出来だと感じた。
そうして段孝甚は、幾ばくかの金銭と、気弱な性には重すぎる罪の意識を握らされることとなる。
しばらくして、身を削る思いで手に入れた薬のかいなく父親が亡くなった。喪が明け府庁に戻った段孝甚は、さらに寿命が縮まる話を耳にすることになってしまう。
不在の間に届いた勅命により、用が済めば処分されるはずの偽装を施した文書までもが、宮処へ送られたというのだ。皇宮には自分よりはるかに優れた目利きなど、掃いて捨てるほどいると知れば、何度も眠れない夜を過ごした。
ようやく人目を避け馬勲を呼び出し、なぜそうそうに処理しておかなかったのかと詰め寄っても、これといった特徴のない面のような顔を少しも崩すことなく、また不正に手を貸すよう要求してくる始末。しかし段孝甚は、これ以上の協力を固辞して、一切の関わり合いを絶つことにした。
それからの数年間は、いつ発覚して首が飛ぶか、はたまた馬勲に口を封じられてしまうのか、恐れおののきながら暮らしてきたのだと、すっかり肉の削げた頬を骨張った両手で覆う。あまりの焦燥ぶりは、牢の見回りをしていた獄吏が思わず慰めの言葉をかけそうになるほどだったそうだ。
馬勲が死に、ひとつ憂いが消えたと安堵したのも束の間、その身辺を御史たちが調べ始めたと聞き、再び生きた心地がしない毎日が続く。食事も喉を通らなくなり、日に日に痩せ衰えていく父を心配そうに見る子の姿に、段孝甚はついに心を決める。すべてが明るみに出る前に己が罪を告白し、是が非でも妻子縁者には恩情を賜ろう、と。
いつどこで入れ替わったのか、身元不明の偽官吏が働いた不正。その証拠が皇帝のおわす宮処にある以上、もう州内だけでうやむやのうちに終結することは不可能となってしまった。
そこで報告を受けた朝廷が、詳細な調査のために動くことになった、というのである。
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