忠臣の苦悩《2》

 至るところが丹で彩られ艶めかしさを醸す。そこかしこからもれる楽の音や嬌声を聞けば、この場所の正体は自ずと知れるだろう。

 玉華楼ぎょくかろう。その屋号が示すとおり、匂い立つ花のかんばぜに玉のような肌をもつ妓女が数多在籍する、ほう宮処みやこ永菻えいりんでも一二を争う妓楼である。

 訳知り顔の女将のあとに続くのは、劉剛燕、李博全、そしてひとりきょろきょろと辺りを見回しながら最後尾をいく林文徳だった。

 ほどなく一行は、喧騒も届かない奥まったへやに案内される。数ある皇宮の宮殿にも引けをとらないほど質の良い調度で揃えられたそこは、上客――それも特上の客をもてなすためのものだと一目でわかった。内を照らす燭架の脚を載せた亀は、いまにも歩き出しそうなくらい精巧だ。

 あんぐりと口を開けたままの文徳が見上げた藻井の、正方形に区切られたひと枠ひと枠には、色彩豊かな百花紋が描かれていた。


 皇帝のもとを辞したあと、そのまま帰ろうとした文徳は、剛燕に首根っこを捕まえられ、この高級妓楼まで連れて来られたのだ。


「すぐに酒肴のご用意をいたします」


 丁寧に一礼し、厚く塗り固められた化粧で年齢不詳の女将が下がっていく。

 剛燕はどさりと腰を下ろして襟をくつろげ、博全もそれに倣って席に着いた。しかし文徳はいまだ腰を落ち着かせず、折屏風に書かれた書を食い入るように眺めている。


「いったん座れ。屏風は逃げん」

「気づきましたか!? ちゅう源応げんおうの真筆があるなんて! さすがは玉華楼ですね」


 呆れた剛燕が着席を促しても、百年以上昔に名を馳せた大家の書を目の当たりにした文徳は、興奮を隠せない。


 湖に浮かぶ明月を捕まえようと舟を出したが、ついぞ手に入れることは叶わなかった。


 そう詠われた詩は、湖面で揺らぐ満月の儚い美しさと、届きそうで届かない手のもどかしさが表れた、繊細な筆致で綴られていた。

 泡沫うたかたの如き一夜の夢を与える妓楼にふさわしい詩である。

 

「なんだ、こういう場所は初めてか? ここは酒も料理も旨いぞ。荀寛の無実を立証してくれた礼だ。好きなだけ楽しめ。それよりも妓女おんなのほうがいいか?」


 名筆の余韻を打ち破る、からかうような口調の勧めを、文徳は必死で首と両手を左右に振り断る。


「とっ、とんでもないっ! 僕は見たままを言っただけで。そもそも、たかが一文官の鑑定を丸呑みにされてもよろしいのですか?」

「では、自分の見立てに自信がないと? 陛下に偽りを申したというのか?」

「嘘はついてません。あれは偽筆です」


 棘のある博全の言葉には間髪を入れず、曲がらない主張を返す。

 思いのほか力強い断言に、博全は軽く目を瞠った。その目を細め、鋭角的な顎を上向ける。


「ならば見苦しい謙遜など不要。そなたの能力を評価なさった陛下にも不敬にあたる」

「……すみません」


 ようやく着いた座で身を縮める文徳と、先ほど御前で朗々と持論を披露した姿との差がおもしろく、博全は口の両端を持ち上げた。


「それに実績ならあるではないか。先だっての改ざんの件でも、文徳の書に関する力量は証明されたばかりだ」

「そうだ! 改ざんというと、例の……」


 片眉を跳ねあげた剛燕の問いを遮り、色めいた声が訪いを告げる。


「失礼いたします。御酒をお持ちいたしました」


 衣擦れと甘い香りを伴って現れたのは、歳の頃二十歳はたちほど。大きく開けた胸元からのぞく膨らみの雪のような白さと、ぽってりとした唇に刷いた紅の対比が鮮やかな妓女だった。


「ずいぶんとお久しぶりですわね、劉将軍。それに、李の公子わかさまも」


 鼻にかかった声に僅かながら無沙汰を咎めるような色をのせ、器用に大きな瞳を潤ませる。

 しかし、秋波を送っていた目が一点で留まり大きく見開かれ、数回の瞬きののちに妖艶な雰囲気は一変した。


「あら、林さんじゃない! おふた方とご一緒なんてどうしたの? さんざんあちこちの家からのお誘いを断ってまでお役人になったのに、右筆にでも鞍替えするつもり? でも、そうよね。そのほうがずっと稼げそうだもの」 


 男女の駆け引きによって培われた老獪さは鳴りを潜め、繰り出された物言いは年相応の娘らしく明朗である。


「違いますよ、雪晏せつあんさん。今日は、ええっと……おふたりのお供?」

「まあ、そうなの。なかなか来てくれないから、約束を反故にされたのかと思っていたわ」

「まさか! あなたとの大切な約束を、忘れるわけがありません」


 引く手数多の売れっ子妓女と文徳が、親しげに会話を交わす。それを蚊帳の外で聞いていた剛燕は、心底驚いたようだ。


「玉華楼一の美女の馴染みだったとは、人は見かけによらんものだな」


 感心した声音に、袖で隠した口元からころころと軽やかな笑いがもれる。


「あら将軍、違いますわ。お客なのはわたくしのほうですの。ね?」


 猫の目のように、うっとりとした表情へと変えた雪晏から意味ありげな流し目を送られ、決まりが悪くなった文徳は赤みを帯びた耳の裏をかいた。


「遅くなってすみません。下書きをなくしてしまって、書き直していたんです。ああでも、もう少し待ってもらえますか? やっぱりお仕事中の姿は違いますね。……あれじゃあ、ダメだ」


 呟き、宙に右の人差し指で文字を書く。同じ動きを幾度か繰り返して肯いた。


「うん。なるべく早く仕上げます」

「林さんにお願いできるのなら、何年でも待つつもりでいるけれど。――楽しみだわ」


 ほのかに染めた眦を嬉しそうにさげた雪晏が、瓶子を手に取る。話し込んでいる隙に、給仕の衆により膳の支度はすっかり調えられていた。

 所狭しと並べられた、料理がのる皿と酒で満たされた瓶子は、どこの大宴会が催されるのかと見紛うばかりの量である。

 雪晏が、剛燕、博全と酌をして周り、文徳の酒杯にも注ごうと酒器を傾けかけた。


「いえ、僕はお酒はっ!」


 すかさず両手で杯に蓋をして断りを入れる。それを伸びてきた厳つい手が、ぐいと掴んで退けた。


「呑めぬとは言わせんぞ。奉公先は酒屋だったのだろう」

「そんな昔。しかも子どものときの話です」

「では加冠をすませた今なら、なおさら呑まねばならんな」


 剛燕の目配せに艶然と笑みを返した雪晏が、杯になみなみと酒を注ぐ。シワを寄せた鼻まで届く香りは、文徳の苦い記憶を呼び覚ます。

 幼かった文徳の腕が重みに負け、落として割ってしまったかめからも、これとよく似た強い芳香が放たれていた。それは『蘭鳳春らんほうしゅん』という文字とともに、脳天に振り下ろされた容赦のない拳骨の痛みと、丸二日食事を抜かれた空腹に結びつく。

 とたん、文徳の腹の虫がほかの匂いに反応した。


「酒より食い物か! たしかに生きるためには、そちらのほうが重要だ」


 房が震えるかと思うほど大笑いし、剛燕は文徳の膳にある酒杯を取り上げ一気に呑み干す。さらには雪晏から瓶子を奪い、その杯を手酌で満たし再び呷る。三杯目を、と瓶子を逆さにしても、ぽたりと数滴垂れただけ。


「この調子では店の酒が底をつきそうだ。あとはこちらで勝手にやるから、女将に酒蔵を確認するようにいってくれ」


 剛燕に空瓶を押しつけられた雪晏は、まだたっぷりとある満杯の瓶子に一瞬視線を投げてからおもむろに一礼した。


「かしこまりました。万一不足するようでしたら、わたくしが酒屋までひと走りして参りましょう。では、ごゆるりと」

「ああ、すまんな」


 返答の代わりにしゃらりと歩揺を鳴らし、雪晏が退室していく。

 人気ひとけと甘い残り香が消えてから、博全が杯に口を付けた。彼もまた、水を飲むように酒を空ける。 


「おまえが、あのままおとなしく引き下がるはずはない、か」


 静かに酒杯を置き、半ば諦めたように博全がこぼす。それに剛燕は片側の口角をあげて応えた。


「オレが動けば、目立ちすぎることくらい自覚している。それゆえ、江霞こうかへ遣わされたのだから」


 大軍を動かせば先方を刺激し、進軍の口実を与えかねない。葆にとってはあまり意味のない戦を、皇帝は望んでいなかった。

 氾濫を繰り返す河川の護岸工事の進捗状況を査察する工部尚書の護衛、という名目で動かした兵はごく少数。しかしそこに劉剛燕が同道するという噂は、一行が江霞州に着くより先に国まで届くことになる。

 多分に後ろ暗いところのある梛が、葆の動きの真意を探りあぐねているうちに、万一有事の際は、都督が預かる江霞軍の指揮権を委ねるとの勅命を密かに携えた劉将軍が到着してしまった。そこでようやく梛国王は、荀寛とのやりとりに疑念を抱くようになったのだ。

 都督とは名ばかりで、日がな一日、舟遊びに耽っている風流人と揶揄されるである淘利とうりが総指揮を執るならいざしらず、兵事においては皇帝の右腕ともいわれる剛燕が、国境を護るため配備された軍をまとめるとなれば、話は大きく変わってくる。もとより葆への侵攻に消極的だった者たちが、慎重論を声高に唱えはじめた。

 結果。強引な手段で即位したばかりの若い王が統べる国家はまだ堅固な一枚岩とはいえず、計画そのものが頓挫することになったのである。


 その存在だけで見事梛国を牽制してみせた剛燕は、瓶子を鷲掴み、直接中身を口へ流しこんだ。空の瓶子が床に転がる。


「だからといって、なにもせず待つだけは性に合わん。第一、あの世へ行けずふらついている荀寛が酒の匂いを嗅ぎつけ、枕元にまでこられては落ち着かない」

「ほう。現われたのか?」


 胡乱な目つきの顔を歪め、博全が倒れたままの瓶子を立てて盆に戻す。

 その間にも剛燕は新たな瓶子を手にして、空いていた酒杯に注いだ。しかしそれに口を付けることはせず膳に戻し、束の間目を瞑る。酒好きの知人へ献げたのだろう。


「いっそ、ここに化けて出てくれたほうが、話が早くて助かるか。だから言ったのだ。酒はほどほどにしろと」


 水面を揺らす杯に向かい、まるで説得力のない説教をたれると、依然として両手を膝にのせたままでいる文徳へ、遠慮せず膳に箸をつけるよう促した。

 養父との、慎ましやかながらも欠くことなくありつける、日々の食事に不満などない。それでも目の前で湯気をあげる羹や、焼き目も芳ばしい魚などが、過分に文徳の食欲を刺激する。

 冷めぬうちにとの再三の勧めに、とうとう文徳は箸をのばした。

 ほかのふたりは、箸よりも杯が進む。差しつ差されつしながら、次々と名酒の入った瓶子を空にしていくさまは、見てるだけで酔いが回りそうだ。

 濃さを増す一方の酒の香に惑わされぬよう、文徳は甘辛く煮た豚肉を口に入れる。それは、歯を立てるまでもなくほろりと口の中でほぐれていく。落ちるのでは、と緩んだ頬を思わず掌で支えた。


「どうだ、旨いだろう。こちらも食え」


 剛燕が自分の膳から文徳の前に、手のつけられていない肉がのった器を移す。ここは素直に礼を言い、八角の香る飴色の塊を頬張った。

 それを見届けた剛燕がいたずらに瞳を光らせる。

 

「代わり、といってはなんだか、もう少々知恵を貸してもらいたい」


 やはり旨いだけの話などありはしない。

 文徳はまだ口に残る甘みを飲み下し、諦念のため息を添えて箸を置いた。

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