忠臣の苦悩《1》
写し終えた竹簡を皇宮の蔵書閣まで返却に来た文徳は、入れ替わりに古びた装丁の巻子本の束を渡された。こちらも負けず劣らずの年代物らしく、外側からでも無数の染みや虫食いが見て取れる。広げたらどんな文字が飛び出すのかという期待に胸をふくらませながら、ここへの異動を願い出ればよかったと思い至った。
そうすれば、厄介事や面倒な人たちと関わり合いになることもなく、書と文字だけに囲まれた至福の仕事にありつけただろう。
とぼとぼと回廊を歩く文徳は、早まったことをしたといまさらながらに気づいて肩を落とした。
「思ったより膂力があるじゃないか」
不意に行く手を塞いだ影と声にのそりとあげた目が、珍しく朝服に身を包んだ劉剛燕の巨躯を見留める。
「これは劉将軍。失礼いたしました」
脇に退き、頭を下げてやりすごそうとした文徳の腕から、ごっそりと巻本が抜かれていく。
「ええっと?」
「どうせ暇なのだろう? 持ってやるから、ちょっと付き合え」
剛燕は
方向は、戻るはずだった記録係がある皇宮の外と真反対。三省六部の中でもその中核を担う各機関が収まる棟の群を抜けても、剛燕の歩みは緩まない。
すでに数回通り覚えのある道のりに、文徳は引き返したい思いを募らせる。
「周楽文殿にご助言を願いたい件があって記録係を訪ねたら、おまえさんのほうが適任だと教えられ探していたのだ」
「僕が?
「そうらしい。なに、難しいことではない。陛下のところまで行くだけだ。用が済んだらすぐに返してやる」
予想通りの行き先を告げられ、なぜ自分が、という疑問が喉まで出かけるが呑みこむ。ここで抵抗したところで徒労に終わることは、この短い期間の付き合いでも十分に心得ていた。
目的の部屋を守る衛士に取次を頼むと、ほどなく入室が許可された証に扉が開く。
近侍の先導もなく、何ら気負わずに皇帝の執務室へと足を踏み入れる剛燕に続いた文徳は、先客がいることに気がついた。その後ろ姿に既視感を覚え、余計に身構える。
「やはりここにいたか。ちょうど良い」
君主にたいしての礼もそこそこに切り出した剛燕に、李博全は眉をひそめて振り返った。
「皇宮嫌いのおまえがなんの用だ。陛下のご公務の妨げにならぬうちに、さっさと済ませてとっとと帰れ……ん?」
剛燕の陰に隠れるように立つ文徳をみつけ、博全の涼やかな目が細められる。鋭さを増した視線に、ますます文徳の身は縮こまった。
「熊将軍のところの従卒にしてはずいぶん貧弱だと思えば、林文徳ではないか。
実妹に対してはあまりに酷な物言いだが、誰も異を唱えようとはしない。それどころか、上手からは忍び笑いまで聞こえてきた。
「その暴れ馬を、
「あ! いえ、決してそのような……」
笑みを収め、奥底に剣呑な光を灯した苑輝の瞳から逃れるように、博全は数歩下がって拱手する。
その横で剛燕が複雑な想いを顔に映した。
「たしかにあの娘は天河よりも手強そうです。なにせオレに『陛下に子のつくり方を教えて差し上げろ』などとぬかしたくらいですから」
初耳だった博全は、両手を重ねて作った腕の輪を潜りそうなほどさらに頭を下げる。できることなら、床に穴を掘って入りたい気分なのだろう。
その場に居合わせていた文徳は、半ば伝説化している葆の名将が小娘相手にあたふたと取り乱す様を思い返し、堪らず緩みはじめる口元を手で覆った。
「まさか、それを教授に来たわけではないだろうな」
「とんでもない! オレなんぞの出る幕などないでしょう」
剛燕は大仰に首をすくめてから、手にしていた巻子の束を脇の卓に置き、中からひと巻き手に取る。比較的新しい装丁のそれは、彼が元から持っていたもののようだ。そこへ懐から取り出した書簡を添えて、苑輝の前に並べた。
剛燕に促され、それらを繙き見比べていた苑輝から嘆息がもれる。
「やはり余には同じ者の手蹟にみえる。秘書省の鑑定官たちの見解は?」
「長を含め十名ほどに確認しましたところ、八名からは陛下同様の答えが返ってきました」
「残るふたりはどう申した」
「一名は違うような気もする。もうひとりはおそらく違うだろう、と」
筆跡鑑定の専門家をもってしても曖昧な返答しか得られなかったことに、剛燕は苦笑で苛立ちを隠していた。
その苦虫を噛み潰したような顔のまま、文徳を手招きする。
「おまえさんならこのふたつの書、どう見る?」
訊ねられ、自分がここに連れてこられた理由が判明した。
おずおずと御前まで進んだ文徳は、広げられた書に目を落とす。左右に二度ほど目玉を動かしてから、首を横に振った。
「あきらかに別人の手蹟ですね」
「それは確かか? 陛下の御下問でもあるのだ。よくよく考えてから答えねばならぬ」
葆でも選りすぐりの鑑定官たちが数日かけた結論をいともあっさり出すと、博全が眉根を寄せる。
しかし文徳は丸まっていた背を伸ばし、書を指し示して断言した。
「間違いありません。ここのはねの部分。こちらの方が、やや角度が甘いですよね?」
比較的わかり易い相違箇所を指摘してみせれば、三対の目がそこに集まる。ところが、誰もが首をひねるばかり。ならば、と両方にあるひとつの文字を例に出す。
「ご覧ください。『王』の一画目。横画の中心部分が少し上に膨らんでいます。この
文徳はこともなげに言うが、その差はおそらく髪の毛一本分もない。
「どこがだ! さっぱりわからん」
まずは武官である剛燕が脱落した。
残るふたりはしばらくの間、ためつすがめつ書と向き合っていたが、ついに苑輝が手をあげる。
「博全。そなたには違いがわかるか」
「言われてみれば、そのような気がしないわけでもありませんが……」
悔しそうに口を濁す。それに同意するように肯いた苑輝は、大きく息を吐き出した。
「書の国の
偽筆を見抜けなかったことを嘆く皇帝に、慌てた文徳がしどろもどろで弁明する。
「そ、そんなことはありません! これは人を欺くための文字です。ここまでそっくりに書かれては、惑わされてもしかたのないことです」
「しかし文徳は簡単に見抜いたではないか。それになぜ、書簡のほうが偽の筆跡だと思う。逆はないと?」
「それは、ですね……」
目を泳がせ口ごもるが、訝しげに問い詰めるような視線にごまかしは効きそうもない。文徳は観念して感じたままを伝えた。
「名前が教えてくれました」
「名前? ここの記名のことか」
それぞれの文末に添えられた荀寛の名。傍目にははねも払いも同じ筆致に見える。ところが文徳の眼には、それが全く別のものとして映るのだ。
「荀寛殿はちょっと大雑把な性格ではありませんか。いくつか筆の始末の粗いところが見受けられます。書簡の手蹟の
どんなに真似て書いたところで、そこに込められる想いが異なればまったく違う文字になってしまう。特に個人の名は、それが顕著に現われるものだ。
「たしかに、茶の残る器に酒を注いでも、そのまま平然と呑むような奴だったな」
面識があるのか、剛燕が遠い目で顎髭を撫でると、すかさず博全の揶揄が入る。
「単に互いが泥酔していただけではないのか。――それにしても、たった二文字をひと目見ただけで、そこまで見極められるとは。周楽文殿が一目も二目も置かれるのも肯ける」
感嘆の呟きとうめきが、博全の口からこぼれた。
父親同様、達筆でも知られる李博全からの過剰な讃辞に、文徳はなんとも居心地を悪くする。そのうえ、淡々と用件だけが記されている書状の内容が、さらに気持ちを沈めていった。
「しかし、これが偽書となると、少々面倒なことになります」
「荀寛を死なせてまったのが、つくづく悔やまれるな」
「面目次第もありません。オレが無理にでも
「
博全と剛燕の苦渋に満ちた顔を向けられ、苑輝もまた苦悩の表情を見せる。
重苦しい気配が漂う中、文徳の手から巻子が滑り落ちた。
「荀寛殿は刑に処されたのですか? この、
苑輝の
梛国は遥か昔から、葆による支配とそこからの独立を繰り返している地だ。現在は数年前に即位したばかりの若い王の統治下にある。後継を巡る争いの中で実兄を廃した新王は、血の気が多くかなりの野心家だとの評判が、葆の中央にも伝わってきていた。
過去、長きにわたり葆の属国とされていた恨みも消えぬのだろう。僅かでもその領土を奪う機会を狙っていたらしい。
しかし圧倒的な国力の差を埋める術を持たず、指を咥えて隣の土地を眺めていたところへ、葆の内側から手助けを申し出られた。
目の前に提げられた餌に一も二もなく喰い付いた梛の国王は、いそいそと侵攻の準備を始める。だがそれも、すぐに葆の知るところなった、というわけだ。
「いいや。密書のやり取りが発覚して捕らえられた荀寛は、尋問のために投獄中だった。一貫して無実を主張していたのだが……。ある朝、獄吏が見にいくと、己の衣を裂いた紐で首をくくっていたそうだ」
剛燕は顔にも声にも後悔を滲ませた。
「自死、されたのですか」
「書簡が偽筆だとわかったからには、それも怪しいがな」
「まさか、ころっ、殺された!?」
冤罪による厳しい責め苦に耐えきれず自ら死を選んだ、手蹟しか知らない者を不憫に思っていた文徳の腕に鳥肌が立つ。荀寛が濡れ衣を着せられた挙げ句、命まで奪われたかもしれないということにも、その犯人が葆の者である可能性が高いということにも。
「それも視野にいれ調べるよう、こちらからも人を送らねばならぬか」
今後の対処を思案する苑輝に首肯しながらも、博全たちの面持ちは険しい。
「いかんせん、距離がありすぎます。時が経てば経つほど、痕跡は掴み難くなるでしょう」
「荀寛の屋敷の捜索にはオレも立ち会いましたが、めぼしいものは出てきませんでした」
「これ以外にも、なにか手がかりが欲しいな……」
忌々しげに書簡を睨みつけていた苑輝が顔を上げる。緩慢に巻物を拾おうとする文徳と目が合った。
「この手蹟から書き手の情報を引き出せなないか」
件の書を突きつけられ、方向を変えた両手で受け取る。今度はじっくり、といっても苑輝たちがかけた時間の半分ほどを使い、荀寛の偽筆を吟味した。
「ここまで個を消されてしまうと、正直難しいのですが」
「前置きは不要。どのような人物なのだ」
さすがは兄妹。まず結論をほしがるところは、明麗とよく似ている。
そう思いつつ、文徳はいつも彼女に説くときと同じく調子を崩さない。主観を理論立てて他人に説明するのは苦手なのだ。
「ご存じでしょうが、筆致は年齢とともに変化していきます。手習いを始めたばかりの人よりは、年を重ね筆に馴染んだ方が書くの文字のほうがより厚みや重みがでる。筆跡にはその人の生き様が反映されるともいわれます」
どんなに褒められようとも、文徳が自分の文字はまだまだ楽文に及ばないと思うのはそのためだ。あと何年書き続ければ師匠のような深みが生まれるのかと尋ねたら、人生の価値は長さではないと笑われたこともある。
それでもやはり、書には年輪のように刻まれていくものがあると、文徳は考えていた。
「通常は筆をもった年月に比例し、どうしても消せない癖や特徴は増えていくもの。だけどこの文字には、個性がまったくといっていいくらい現れていません。そこから推測すると、筆者は若い。たぶん十代前半、それ以下でもおかしくはありません」
「まだ子どもではないかっ!? 無理だ」
文徳が導き出した答えを、真っ先に否定し驚愕の叫びをあげたのは、剛燕だった。その気勢は硯の海に湛えられた墨液が震えるほど。
反対に博全は、静かに首を横に振る。
「不可能な話ではありません。むしろ自我の育っていない幼き者のほうが好都合。となれば当然、背後に指示した者がいるということになるでしょう」
「だからか。この筆跡から大罪を犯しているという、恐れも罪悪感も感じられなかったのは」
苑輝は痛ましげなため息を落とす。年端もいかぬ子どもが大人からいわれるまま綴った文字に、罪の意識は存在しない。目にする者全員を欺けるよう、手本とした書を忠実に再現することを命じられたに違いない。
「もしそれを受け取られたのが陛下でしたら、まずはその点をお疑いになったはず。宛先が葆の書に明るくない他国であったこと、そして真似されたのが荀寛殿の手蹟だったために、梛国は信じたのでしょう」
「なぜ荀寛でなければならなかった!?」
この中で唯一、生前の荀寛と交流があった剛燕の声音には険が宿っていた。
文徳は僅かに逡巡してから、申し訳なさそうに口を開く。
「荀寛殿は校尉――武官ですね。ここにある筆跡を拝見した限りでは、あまり書が得意な方ではなかったようです」
大雨による河の氾濫で流された兵舎などの被害状況を記録した書は、読む分に差し支えはないが決して良筆とはいえない。少しでも腕に覚えがある者ならば、いかに甚大な損害があったかを文字に託し、朝廷に大々的な支援を訴えていただろう。それが荀寛の文章からは伝わらなかった。
ただ現状を正確に報告しなければならないという、義務感と懸命さだけが覗える。
葆国民の誰もが、
書も採用の重要な要素とされる文官とは違い、武官ならばこの稚拙ともいえる文字も十分にあり得た。
「寒村の農奴から、剣一振りでのしあがった根っからの武人だ。つまりは字が下手くそだったため、都合いい捨て駒にされたということか。いったいどこの何奴が!」
いまはまだ向ける先の定まらない剛燕の拳が、怒りに震えていた。
「剛燕。一度は江霞でつけられた決着に疑問を抱き、こうして持ち帰ったくらいだ。知人を亡くし悔しいのはわかる。だが、この先は御史台に任せろ。ようやく会えた赤子と奥方を置いてまた江霞へ行かれては、いいかげん余が劉家の皆に恨まれてしまう」
悲痛に顔を歪めた皇帝に諭されては引き下がるほかない。剛燕は渋々ながら拳を緩めた。
「ほかになにか気づいたことはないか」
苑輝に問われ、文徳は「あっ」と声をあげる。
「紙! その書簡に使われている紙の出所を探ってみてはいかがでしょう。原材料とその配分、製造法、職人の腕によって、色味、厚さ、書き心地などまったく違うものになります。それなりに質の良い紙が使われているので、工房を絞れるかもしれません」
「この国に、製紙工房がどれほどの数あるか知っているのか」
名案を思いついたつもりだった文徳の意見は、博全の呆れた声で跳ね返されてしまう。
しかし文徳は名残惜しそうに書簡の表面を指先で撫で、その感触に首を傾げた。
「でもこの紙、覚えがあるような気がするんですよね」
「どこで? 思い出せ!」
提案を否定したばかりの口で博全が迫る。
「さあ? ただ、僕が使ったことがあるとしたら、この永菻で手に入る品のはずです」
「まったくもって当てにならん。宮処には全国各地で作られた紙が集まってくるのだ。そんな気の遠くなるようなことをしている暇はない」
「それもそうですよね。うーん……・」
博全に正論を説かれても、文徳は記憶の片隅に小さな棘が引っかかっているようで釈然としない。首をひねり続けていると、苑輝が手を打った。
「それでも現時点では数少ない貴重な証拠だ。どこまで詰められるかはわからぬが、慎重に調査するよう伝えておこう。――大儀であった」
その言に三人は礼で応えて、皇帝の御前を辞す。
表に出ると、ちょうど退庁時刻を知らせる鼓が打ち鳴らされた。
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