国母の資格《3》

 ふと、置き去りにされた書箱が目に入る。明麗は、「失礼を」と手を伸ばして蓋を開けた。

 何事を始めるのかと訝しむ一同をよそに、箱を逆さまにして中身をぶちまける。

 すると卓上に、いきなり馬の群れが現れた。当然のことながら本当ではない。紙面に書かれた書の馬である。


「この文字は馬ね。ここにあるもの全部?」

「ほう、軍馬のようです。おや、こちらには仔馬もおりますよ」


 紙の山をめくれどめくれど、出てくる文字はすべて馬。紙面いっぱいに堂々と書いたもの、躍動感溢れる筆致で書かれたものなど、黒一色で書かれた“馬"は多彩な表情をみせている。

 明麗は、初めて鍛錬場を訪れたあとも数回にわたって赴き、馬たちを書き続けたのだ。文徳は紙と筆を持ち出すことを許さなかったので、ひたすら地面を棒切れで刻み、各々の馬の印象を手と頭に覚えさせた。

 書庫に戻ってはそれを思い出しつつ、墨で紙に書く。そんな一日を幾度か繰り返して、文字の馬群を創りだしたのである。


「あら、これは違うわ」


 皇后が手にしたのは、明麗が昇陽殿にくる直前に描き上げた馬の絵だ。


「お気づきでしたか? 馬の字は、この姿を変化させてできあがったものです」


 絵と字の馬を並べ、明麗が「ここは鬣、これが脚」と指差しながら解説をする。祖国とは異なる文字の成り立ちに興味を示した皇后は、一時いっとき憂いを忘れたように、熱心に耳を傾けた。


「わたくしの国では、いくつかの文字を組み合わせてひとつの言葉を作るの。でもこれは、たった一文字で"馬”を表しているのね。それに、同じ字を使っていても、ここにあるのは全部違う"馬”なのでしょう?」

「それが葆の文字です」


 すっかり感じ入る皇后へ、明麗は誇らしげに答えた。

 さらには未知なる言語への探究心をくすぐられ、己の立場も忘れて懇願する。


「今度はぜひ、わたしに皇后さまのお国の文字や言葉を教えていただきたく存じます!」


 しかし皇后は、期待に燃える眼差しへは曖昧な微笑のみを返して視線を下げた。 


「それにしても、明麗は絵が上手なのね。やっぱりわたくしに書は難しいのかしら」


 さほど巧いともいえない絵を眺め、一転して気落ちする皇后の前に、群の奥から探り当てたとっておきの一枚を差し出す。その書を目にし、四阿にいる明麗以外の三人が一斉に息を呑んだ。


「ご安心くださいませ、皇后さま。これを書いた者が描いた馬は、妖怪変化のようでした」


 明麗の励ましも届いていないのか、皇后は恐る恐る書に手を伸ばし、いま教わったばかりである文字のをそっと撫でる。そこには、筆をどのように使ったのか、墨の及ばない白い筋があった。


「もしかして、このは天河?」


 目を細める皇后の指先は、なびく鬣から隆々たる肩、滑らかな背を順に辿る。大地を駆る逞しい脚の最後の一本まで撫で尽くしたその指で、最後に目尻をおさえた。


「彼女は元気そうね。もう、あれから三年くらい経ったのかしら」

「天河をご存じでしたか」


 懐かしそうに語る皇后に驚いた。目を丸くする明麗に、皇后はいたずらっぽい笑みで応える。


「一度だけ、乗せてもらったことがあるわ。でも彼女、わたくしを振り落とそうとしたのよ。主人を盗られると思ったのかしらね。だから、苑輝さまに後ろから手綱をとっていただいて……。そうしたら、別の馬みたいによくいうことを聞いてくれたの。葆に来て馬に乗ることなどなくなってしまったから、あれはとても楽しかった」

「あの馬はどうにも気位が高く、なかなか私にも懐いてくれませんでした」


 浮き立つ口調に応じた華月が、不機嫌に眇めた眼で『天河』を睨み付ける。紙面から、歯を剥きだしたせせら笑いが聞こえそうだ。


「まあ、馬の扱いに慣れた華月でも無理だったの? 新しいご主人の奥方なのに。それは困ったね」

 

 愛し子の不出来を嘆くような苦笑いが、硬さを残していた皇后の面持ちをじわりと溶かす。

 この機を華月は見逃さなかった。さすがは、相手の隙を突いた速攻を得意としていた姫将軍である。 


「ところが最近になって、なぜかあちらから近づいてくることが多くなりまして。先日、ついに背に乗ることを許可されました。あの名馬に跨がるという永年の願いが、ようやく叶ったのです」

まことですか!? わたしなんて、髪を食べられそうになったのに……」

「いっしょにするでない。明麗とは、付き合いの長さが違う」


 日参してもいっこうに天河との距離が縮まらなかった明麗のむくれ顔を無視して、華月は皇后へと向き直る。


「陛下が抱えられているご心痛は、周りがいくら言葉を重ねてお慰めしたところで、なくなることはないでしょう。ですが、何事にも好機があるもの。転機とは得てして唐突に訪れるものです。いましばらく、様子を窺ってみてもよいのではないかと、私は……ここにいる皆は思っております」 


 明麗は大きく肯いて同意を示した。颯璉の伏せた瞼が一度だけ上下する。

 総意を確認した皇后は細い眉を下げ、もう一度、困り顔で皆を見回す。


「本当にわたくしはまだ、あの方の御子を諦めなくてもいいの? 望むことは許されるのかしら?」

「無論。妻には、愛する夫との子を望む資格も権利もございましょう」

「妻の、資格と権利……・」


 瞑想するかのように閉じられた皇后の瞳から、ついに一筋の涙がこぼれ、頬を伝い落ちた。


「ご不安になられたら、この華月めになんでもお聞かせください。これでも一応、人妻で四人の子の母です。恥じらい知らずの乳臭い小娘や、固い蕾のまま石になろうとしている女官長よりは、有益となる助言ができるものと自負しております」

「お気を付けくださいませ、皇后陛下。華月さまは、心身を鍛えるためと称され、雷珠山での山ごもりをご提案なさるかもしれません」


 これまでも、おそらくこの先も独り身であろう颯璉は、すかさず釘を刺すのを忘れない。だが眉間のシワは若干薄くなっている。

 まだ乾かない涙の跡を袖で拭いながら瞼を持ち上げ、皇后は憑き物が落ちたように晴れやかな笑顔をみせた。


「それは楽しそうね。ぜひ、皆で登りましょう」

「ではさっそく御膳所に、肉類を増やすように申し付けるがよろしいかと。そのお身体の薄さでは山の寒さに耐えられますまい」


 華月自身とて四人目の子を出産後間もないとは思えぬほどの細身なのだが、皇后の痩躯には眉をひそめる。ほかにも、体力を取り戻すための滋養のある食材などを、いくつか颯璉に伝えていた。


「少々風が冷たくなって参りました。どうか殿へお戻りくださいませ」


 向きを変えた風を気に揉む颯璉の言葉に肯き、皇后はすっくと立ち上がる。その挙措からは、ここへ来たときに明麗が感じた頼りなさが薄れていた。

 流れるように滑らかな所作の明麗ときびきびと無駄のない動きをする華月が、拝礼で送り出す。


「またね、華月。今度は子どもたちにも会いたいわ。それと、明麗。明日からでも書の練習を再開しましょう」


 それぞれに声をかけ、皇后は自らの脚で居殿へと帰っていった。


 明麗は身体の方向を変え、一旦戻した頭を再び深く下げる。


「華月さまのおかげで、皇后さまもお気持ちをお改めくださいました。ありがとうございます。……ですが、どこまで剛燕さまからお聞きに?」


 おそらく、明麗ひとりの力では頑なな心を解かすことはできなかっただろう。それゆえ、いまさら劉剛燕が他言無用の約束を違えたことに文句を言うつもりなどないが、すべてを熟知していたかのような華月の言動は気になった。


「夫はとくに何も。ただ、そなたを皇后陛下の元へ送り届けてくれとだけ」

「それなのにあのような……」


 ふたりのやり取りから複雑な事情を察し、ものの見事に皇后を説得してみせたのだ。華月の機転は、戦乱の時代を乗り越え、明麗の倍の年月を生きてきた経験により培われたものである。書物の中の出来事しか知らない彼女が、同じようにできるはずはなかった。


「嫁した女子おなごが心身を病むほどに抱える悩みは、たとえ皇家だろうが百姓の家だろうが変わらぬ。そなたの入宮と陛下のお変わり様から、おおかたの予想はついた」


 前回お目見えしたときからの変化が、華月の表情を曇らせる。明麗が知っている数ヶ月でも、かなりのやつれようなのだ。華月の言うとおり、まずは健康の回復を図らなければならない。

 食事内容の改善はもちろん、適度に身体を動かすことも必要となる。皇后の体調をみながら、徐々に進めることになりそうだ。調べるべき内容は、枚挙にいとまがない。

 そう思い至れば、いても立ってもいられない。さっそく明麗は、華月に辞去を申し出ようとした。


「子を授かるということは、そなたが考えているほど容易くはないぞ。こればかりは、時が解決するとは限らない。さらには、世継ぎとなる皇子を望むとなれば、あとは天の采配にお任せするよりほかないだろう」


 明麗の足を縫い留めたのは、皇后に伝えたものとは真逆ともとれる言葉だった。


「ですが華月さまも、先ほど望んでも良いとおっしゃったではありませんか」


 出鼻をくじかれ鼻白む。

 すでに皇后の姿は視界から消えている。ようやくともった希望の灯火までが、頼りなく揺れ消えてしまいそうになった。


「何人であろうと生き死にを自在にできぬように、命の誕生に人が手を貸せることなどないに等しい。それは侵すことのできない天の領域なのだよ」

「そんな……。それでは、百合后さまはどうなるのです? この国は!?」


 明麗以上に苦渋で顔を歪める華月を責めても仕方がない。だが、やり場のない思いは、身のうちに留めておけずに口を突く。歯痒さで裙を握りしめた手が翡翠の佩玉にあたった。


「わたしは本当になにもできないのですか」

「……天に乞うてみるか」


 華月は本気とも冗談ともつかない声音で仰ぎ見る。高い青空では、筆で刷いたような薄い雲が流れていた。

 いたずらに向きを変えた風は、四阿にも流れ込んで渦を巻く。そのままになっていた紙の山が崩され舞い上がった。

 慌てて四阿に飛び込み、明麗と華月は手分けして集めたが、取り損ねた数枚の馬が水面に落ちて、墨を滲ませながらゆっくりと池の底に沈んでいく。その中には、文徳が書いた"馬”も混じっていた。

 欄干から身を乗り出して池を覗き込んだ明麗が、大きく肩を落とす。

 

「ああ、無理を頼んで書いてもらったのに」

「あの天河を書いたのは、林文徳とかいう文官か?」


 未練がましく、水面に手を伸ばそうとする明麗の帯を華月が掴んで、縁から遠ざけた。


「はい。そういえば、華月さまとご縁があるとか」


 当時、朱家で姫と呼ばれていたのはこの華月以外にはいないはずだ。商家に文徳を薦めたのは彼女だろう。


「そうらしいな」

「なぜ彼を? ほかにも孤児はたくさんいたと伺いました」


 いくらなんでも、出逢った戦争遺児全員の世話を焼くわけにはいかなかったはず。勇猛果敢な武門として名を馳せる朱家の姫君が、文徳にだけ目を掛けたのはなぜか。その頃の文徳は、自分の名さえも満足に書けなかったのだから、書の才能をいち早く見出したというわけではなさそうだ。

 古い記憶を引き出すように少し首を傾けた華月は、突然、思い出し笑いで顔を緩める。


「ああ、別にその子どもを薦めたわけではない。ちょうど酒舗の主人が若い奉公人を欲しがっていたのを思い出し、者がでたらもらってもらえればよいと思うただけ。だがやはり、あの子どもがそうなったか。見るからに要領が悪そうだったからな。それがあのような書の腕をもつ官吏となるとは、天の巡り合わせとは異なものよ」


 すでに"馬”の影も形も見えなくなった水面を眺めやり、感慨深げな笑みを作った。


「稀にこの世には、想像もつかなかったことが起こり得る。ならば、必ずや陛下の御身にも、良き天運が巡ってくると信じようではないか」


 四阿をあとにしようとする華月を、今度は明麗の低い声が引き留めた。


「なにもかもを天に任せるなど、わたしは嫌です」

「私とて、ただ手をこまねいて見ているだけなどは性に合わん。しかし、我らができることなど限られている」

「だったら、やるべきことはすべてやってみます! さらにできることはないかを探し続けます! 林せんせいだって、何もせずに書が上手くなったわけでも、採試に合格したわけでもないはずだわ。それらは天が定めた道などではなく、己の手で掴んだものではないのでしょうか」


 そう啖呵を切ってはみたものの、明麗の脳裏に、努力や必死といった単語が似合わない師の丸めた背中がちらついたので、「たぶん」と心の中で付け加えておく。

 書を習い始めてしばらくが経つが、いまなお林文徳の人物像を掴みきれずにいる。それでも明麗は、彼の書く文字を、単純に「天から与えられた才能」と言い括る気にはなれなかった。


「だからわたしは、百合后さまの御為に力を尽くします。それでも結果が出なかった場合は、新たな方法をいくらでも考えます」


 努力は無駄にならない。心血を注いだ分だけ報われるべきである。

 しかし、明麗が熱弁をふるえばふるうほど、華月の表情は苦みを増していった。 


「自分が嫁ぐことも考えられないそなたには、理解するのは難しいか。いや、私とて、わかっている気になっていたにすぎぬのであろうな」


 苛立たしげに舌打ちし、瑪瑙がはまる釵を引き抜き髷を解く。かぶりを振ると、自由を得た黒髪が華月の背で波を打った。その髪の中へ片手を突っ込み、乱れるのも気にせず乱暴にかき混ぜる。

 明麗には、華月の焦りの原因も言葉の意味も不明で、困惑するほかない。


「時として、過度な期待や激励は、重荷にもなりかねないということだ」


 一段と強さを増した風が木々の葉を揺らし、水鳥の戻らぬ池に細波を立てる。


「もしや我らは、あのお方をさらに追い詰めてしまっただけなのかもしれない。――李明麗。今後、皇后陛下への言動には細心の注意を払うことだな。さもなくば、この後宮はあるじを失うことになりかねんぞ」


 釵を握りしめ、不穏な忠告を口にした華月の前で、明麗の顔からはみるみるうちに血の気が引いていった。

 

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