国母の資格《2》

 好天の屋外に場所を移したせいか、皇后の顔色にも幾分生気が戻ったように見える。

 とはいえ、殿舎からこの風通しの良い四阿あずまやまで歩いただけで息を乱し、明麗が引いた白い手は驚くほど軽く冷たかった。


「やはり、輿を使われた方がよろしかったのではないでしょうか」


 絹布で額にうっすらと滲んだ汗を押さえる方颯璉ほうそうれんの表情は険しい。


「たったこれだけの距離だもの。用意をしている間に着いてしまったでしょう? それに、久しぶりに表の風を感じられて気持ちいいわ」


 池に張り出して造られた四阿に、水面を渡ってきた風が流れ込む。湿り気と秋の気配を滲ませたそれが、対面で腰掛ける皇后と明麗の間を抜けていった。


「屋内に閉じこもってばかりでは、嫌でも気が滞るというもの。方女官長はいささか過保護がすぎる」

「女子が皆、華月さまのように壮健だなどと思われては困ります」


 華月の訪問に備え、あらかじめ準備していたものであろう。茶や水菓子などが手際よく供され、八角の屋根の下には三人と颯璉だけが残される。

 歯に衣着せぬふたりの応酬の間で渇いた喉を湿らせた皇后が、ゆるりと口の両端を持ち上げ、昏い瞳を青磁の茶杯に落とした。


「そうね。いっそ、華月が后だったらよかったのかもしれないわ。そうすればきっと今頃は、皇子みこたちの声でこの後宮も賑やかだったのではないかしら」

「皇后さまっ! それはご本心からのお言葉ですか!?」


 眦を吊り上げ腰を浮かせる明麗の前に、隣に座す華月が腕を伸ばして窘める。


「明麗。陛下の御前です、控えなさい」


 有無を言わせぬ声音に一応は従うが、渋面までは繕えない。あえて訊ねるまでもなく、俯けられた皇后の表情が『否』と、偽りのない答えを物語っていたのだ。

 しかし皇后は、なにかを諦めたような笑みに作り変えた顔をあげる。


「わたくしね、初めてこの国の後宮のことを聞かされたとき、なんて理不尽な制度なのだと思ったわ。夫となる方が、もし自分以外の誰かに寵愛を注ぐことになったら、それに堪えられるだろうかと不安だった。けれどいまは、その制度があることに安堵さえ覚えているの」


 穏やかな口調で語る皇后は、怪訝な面持ちの明麗に肯いてみせた。 

 その顔を池に向け、虚ろな目に水面を滑る水鳥を映す。


「だって、わたくしのような役立たずの后でも、離縁されずにすむのですもの」


 葆では、基本一夫一妻である皇后の祖国のように、子が産めぬからというだけで皇宮を追い出されるようなことはまずない。国同士の結びつきを強めるための輿入れならば尚更である。そのために後宮が存在するのだから。

 皇后は、「それに」と言葉を続ける。


正妃わたくし以外の誰かから産まれた子が玉座に就いても、なんら問題にならないのよ」

 

 薄い唇はうわ言じみた虚言を吐き出す。いまにも儚くなりそうな皇后の姿に、明麗は眉を寄せた。


「そのがわたしだったのですか」

「誰でもよかったわけではないのよ。この国や陛下の……生まれてくる御子のためを考えて」

「皇后さま」

「あなたなら、家格も才覚も申し分ない。李宰相も同意してくれたわ。それに苑輝さまだって……」

「皇后さまっ!」


 抑揚のない声音は、まるで手習い用に書かれた型通りの文字を辿るようである。それでいながら虚勢と虚偽に満ち溢れた言葉を、明麗はこれ以上聞いてはいられなかった。

 明麗の叫びに、皇后は一瞬だけ目を見開く。しかし、再び色を消した瞳で明麗と華月のふたりを流し見て薄く笑む。


「あなたたちだって、いつまでもこの国の跡継ぎが決まらずにいることを、よしとは思っていないでしょう?」


 決して少なくはない妃嬪を後宮に置いていたにもかかわらず、先帝が授かった子の数はそれほど多くはなかった。そして存命する実子は、現皇帝である苑輝ただ一人。男子女子の別なく、病や戦、政争に巻き込まれて、それぞれに命を落としている。

 宗達そうたつが帝位に就いた際に行われた粛清は、自身の血縁にまで及ぶ大々的なものだった。万一皇子不在のまま苑輝の身になにかあれば、後継選びに困難を来すほどに遺された琥家直系の血は薄まっているのだ。多かれ少なかれ、国が乱れることは避けられない。


「――だからといって」


 明麗は腿に置いた掌に力を入れて、必死に起立と声を抑え込む。


「百合后さまご自身で、そのお心を傷つけるのは間違っています。陛下だってそのようなことを望まれていらっしゃらないと、おわかりにならないはずはありませんよね」


 真っ直ぐに見据えた皇后の背後で、颯璉の眉間から消えないシワの深みが増す。劉将軍の妻である華月が後宮の事情をどれほど把握しているか、伏せられた瞳と結ばれている口元からは推測できないが、明麗は走り始めてしまった口を止めることはしなかった。


「それに! 皇后さまが、わたしの気持ちを無視なさるとは思いませんでした」


 いつまでも恋に焦がれる娘のように瞳を輝かせていた皇后が、明麗に一服盛ったことに、少なからず失望を覚えてしまったのは無理もないことだろう。歪めた表情に浮かんだ僅かな落胆の色はごまかしようがなかった。

 ところが、皇后の空虚だった瞳は小さな困惑の光を灯す。


「明麗の、気持ち?」


 声に出すことで明確になった疑問は、そのまま戸惑いに揺れる瞳とともに明麗へと向けられた。


宜珀ぎはくからは、あなたに許婚はいないと聞いていたわ。それともまさか、将来を約束した者や心に決め……」

「そんな人はいませんっ!」


 被せた事実に、皇后が小さな安堵を吐き出す。


「ならばよかった。これからたくさんの縁談が持ち寄られる前にと、少し急かしてしまったのだけれど」

「なにもよくはありません! わたしは、誰かの妻になるつもりなどないのです」

「けれど、もう十六でしょう? いつ縁組みがまとまってもおかしくはないはずよ」


 世の婚姻の大半は、家同士を結ぶもの。親が見合った相手を選び、そこに当事者である子の意思など存在しないのが常である。それは国が変わろうが大差ない。

 当然ながら名家の姫である明麗もそうだと、華奢な肩に祖国を背負って嫁した百合后も考えていたのだろう。

 だが明麗は、自分が誰かの妻となり、家や夫に縛られ、今以上に窮屈な日々を送るなどとうてい我慢できないし、想像もしたくなかった。それよりもっと、やりたいこと、みたい世界がある。


「わたしが後宮ここへきたのは、皇帝陛下の妻になるためではありません」


 昇陽殿に入る前に内側に隠した佩玉を裙の上から探り、そこに浮かぶ文字を指の腹でなぞった。


「葆の、陛下と百合后さまのお役に立ちたかったからです」

「だったらお願い。あなたがあの方の皇子を産んでちょうだい。どうやらわたくしには、母親になる資格がないようだから」


 的外れな解釈が、ただただ明麗の苛立ちを募らせていく。それが声を荒らげさせた。


「資格がないなんて、いったいどこの誰が決めたんです!?」

「……それは天が」


 勢いに気圧され、皇后はびくりと肩をすくめる。助けを求め、それまでのやり取りに無言を貫いていた華月を見やった。

 だが先んじて、明麗が華月に問いを投げかける。


「華月さまにお伺いいたします。四人のお子さまを授かった際、何か天啓のようなものはありましたか? こう、身体の中を雷が通ったように頭が真っ白になるほどの衝撃を受けたとか、雲海を突き破り天上から降り注ぐ光明を浴びた心地がしたとか」


 急に話を振られた華月が、茶を含んでいたわけでもないのに盛大にむせ込む。しばらくして息が整うと、これまた大きな歎息を卓子に落としてから、おもむろに顔をあげた。その引きつったようにも見えるかんばせは、呼吸を乱したためなのかほんのりと朱い。


「さて。身に覚えは……ない、かな」


 あらぬ方へと視線を投げて、珍しく歯切れの悪い回答する。

 一方で欲しかった答えを得た明麗は、勝ち誇るように肯いた。


「ほら、やっぱり。お聞きになりましたか!? 天が人を選んで子を授けているわけではないようです。当家にあった『閨房大全』にもそのような記述は見当たりませんでしたもの。となれば、誰にでも母親になる資格はあるのではないでしょうか!――百合后さま?」


 両手を卓上につき、身を乗り出して詰め寄ってみれば、皇后までもが両の頬を手で覆い、指の隙間から覗く肌を薄桃色に染めていた。


「どうなさいました? もしや、お熱でもあがられましたか?」

「いえ、そうじゃないのよ。ただね、本当に苑輝さまは、あなたになにもなさらなかったのだと……」

「当然です。陛下の御心には、百合后さま以外の何者であろうと、髪の毛ほども入り込む隙間はないと、わたしはあの夜にあらためて思い知らされました」


 射竦めるように冷ややかな眼差しを向けられたのも、公では決してみせることのない弱音じみた吐露も、すべて皇后の立場と想いを守るためだ。それは、酔いと薬で鈍っていた明麗の頭でも十分に理解できた。


「おふたりの間にお産まれになる御子ならば、珠のようにお美しく聡明な皇子に違いありません。そして必ずや、立派な後継となられるでしょう」

「明麗……」

「どうかわたしに、おふたりの皇子を、陛下が平らかになされたこの葆を、さらなる安寧に導く君主にお育てするをお与えくださいませんか」


 産まれた御子はこの後宮で育てられる。慣例に従い、いずれは一流の師らによる教育を受けることになるだろう。その一画を己が担えたら――。

 明麗は、ようやく見え始めた一筋の道に胸を高鳴らせる。


「ご懐妊、ご出産に向け、わたしもできるかぎりのお手伝いをいたします。きっと策はあるはず。ですから、皇后御自ら妃嬪をあてがおうだなんて、悲しいことは決してなさらないでください」

「ありがとう。でもね、わたくしにはもう……」


 高揚する明麗とは逆に、ほんの束の間色味のついた皇后のおもては、再び蒼白へと戻っていた。

 そこへ、さらに冷水を浴びせかけるような言葉が注がれる。


「たしかに、母となるための資格などありませんが、国母となると話は別。誰しもがその地位を手にしてよい、というわけには参りますまい。それこそ、様々なも必要になりましょう」


 表情を強ばらせる皇后の前に明麗が持参した書箱を引き寄せ、華月は蓋にある花に指を添える。


「陛下がおっしゃったように、李家は過去に数名の妃嬪を輩出し、公主が降嫁されたことも一度や二度ではない、この葆では屈指の家柄です。ご当主の現宰相、嫡子である博全殿、ともに主上の覚えめでたい重臣。もし、この明麗が皇子を授かるようなことになれば、皇宮の誰ひとりとして皇太子冊立に異議を唱えることはできないでしょう。李氏は一門を挙げてその御子を守り立てていくはずです」

「そうよ。だからこそ、わたくしはこの娘にすべてを托そうと決めたの」


 いまさら、と不審な顔をする皇后の目の前で、華月が李の家門の象徴ともいえるすももの花を掌で覆ってしまった。華やかだった蓋が漆黒に変わる。


「力のありすぎる外戚をもつ皇子が、その後帝位に就いた御代の例は知っているね、明麗」


 その問いの意味を悟り、明麗は柳眉を逆立てた。両手を卓を叩きつけて立ち上がり、目を剥きだして反論する。

 音に驚いた水鳥たちが一斉に羽ばたきを始め、静かだった水面に波が立つ。


「無礼な! 我が李家がこの国を意のままにするつもりだと、そうおっしゃりたいのですかっ!? 父たちに限って、そのようなことは決して起こりません」


 臣下が君主をお飾りに仕立て上げて実権を握り、国を我がもののように動かし世を乱した時代は、葆の歴史の中にも幾度か存在していた。そして、その不忠者の多くは外戚――すなわち母方の親族なのである。

 それを、明麗の父兄たちが行うのではないかと、あらぬ疑いをかけられたのだ。黙っていられるはずがない。

 憤慨が収まらず鼻息を荒くする明麗の腕を、小柄な体格に見合わない力で引いて座らせた華月は、嘲りの笑みを薄く浮かべた。


「どうして野心がないなどと断言できる? そなたが後宮ここにいることがなによりの証拠であろう」

「それは……」


 皇后をちらりと窺い、唇を噛みしめる。

 乞われたとはいえ、宜珀はすべてを了承して明麗を後宮に送ったのだ。自分も父親に「娘を駒にするつもりか」と息巻いたではないか。

 押し黙ってしまった明麗に、華月はなおもたたみかける。


「たとえ今はその気がなくとも、絶大な権力が手の届く範囲までやってきたとしたら、目の色を変えぬ男がどれほどいようか。若いそなたには、まだわかるまいな」

「おやめなさい、華月! 宜珀にはわたくしが頼んだの。彼にそのような二心ふたごころなどあるはずがないわ」


 冷笑を崩さない華月を、細くとも凜と張る声が制止する。しかし今度は、鋭い言葉の矛先が皇后へと向けられた。


「なれど、周りの者たちはそうは思いますまい。李家の権威に媚びへつらう者、あるいは追い落としを試みる者などが入り乱れ、さぞや宮廷は荒れましょう」

「……そんなことは陛下がお許しにならないわ」

「御意。主上ならば、災いの種子たねが芽吹く前に良計を講じられるはずです」


 回避策があることにほっと息を吐き、緩められた皇后の白い容は、続いて聞かされた案ですぐに凍り付く。


「おそらくは、早々に李家を政から遠ざけられるのではないかと」


 ぎこちなく首を動かした皇后が、息を忘れたように瞬きさえしない明麗を見つめた。

 詔勅に従っても逆らっても、李家が辿る道は暗い。李宜珀はどちらを選ぶのだろう。


「それは……だめよ。この国にも、あの方にも、李の家の者たちは必要なの」

「ですが、李明麗が皇子を産むということは、その様な事態を招きかねないです。皇后陛下」

「なら、どうすればいいの? わたくしにいったい何ができるというの?」


 色を失った唇に手をあていやいやと首を振る皇后を、華月は幼子に語りかけるように諭す。


「まずは、お心とお身体を健やかにお保ちくださいませ。そうでなくては、御子も安心して御身に宿れますまい」

「あなたまで、わたくしに産めと?」


 すがるようだった目に不満の色を滲ませる皇后へ、華月は鷹揚に首肯してみせた。


「誠に失礼ながら申し上げます。皇后陛下のお国はここより遥か遠い西の小国。国力も葆とは比べるべくもないと耳にしております」 


 隠しても仕方のない事実を皇后は肯定する。再び両国の間で戦が起こったとしても、三日と持たずにアザロフの王都は陥落するだろう。

 大国、葆に刃を向けたところで、かすり傷ひとつ負わせることができない弱小国だ。


「ときには、遠く離れた異国より、すぐ傍らにある身内のほうが脅威となり得る場合がございます。皇家にとっては、李家と縁をもつ皇子より、異国の血の流れる御子のほうが都合が良いといえましょう」


 ずいぶんとあけすけな物言いに、明麗も皇后も目を白黒させている。華月は口の端をゆるりともちあげ、慈母の如き笑みを湛えた。


「国家の安寧を守れることが国母の資格ならば、それをお持ちなのはここにいる李家の娘ではなく、皇后陛下にこそあられると、私は存じ上げます」


 戦に臨む兵を鼓舞するかのように力強い声に、異論を挟む余地など一片もない。しかし皇后は、薄い腹を庇うように手を添え、長い睫毛を震わす。


「でも怖いの。もしまた……」


 繰り返し腹の子を喪った皇后の悲しみと苦しみは、とうてい明麗などが計り知ることなどできようもない。ありきたりな慰めさえかけられず、己の不甲斐なさに膝の上で拳を固くしていた。

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