国母の資格《1》

 最後は慎重に、穂先から圧を抜きつつしなやかに払い、詰めていた息を吐いて筆を置く。

 墨が乾くのを待って、早くも衣替えに備え長櫃をひっくり返している孫恵そんけいに紙面を向けた。


「どう?」

「今日は外へ出ないで書の練習をしているのかと思ったら」


 孫恵は衣を畳む手は止めずに、明麗が掲げる紙へちらりと視線を寄越す。


「馬の絵なんか描いていたの」


 ため息交じりの呆れ声だが明麗はほっとする。彼女にもどうやら馬に見えるらしい。満足の笑みを浮かべたところへ、時刻を告げる鼓が鳴った。


「もうこんな時間!」


 馬の絵を一番上に載せた書箱を抱え、立ち上がろうとする。が、慌てたために膝頭が座卓にあたった。卓上の墨壺が不安定に揺れ、口まで満たされていた墨が漆黒の波を打つ。咄嗟に壺を両手で押さえた結果、当然として持っていた書箱は放り出されることになった。

 音を立てて落ちた漆塗りの箱のすももの花が描かれた蓋は外れ、中から飛び出した大量の料紙が床に散らばる。墨が零れるという大惨事は免れたが、急いでいるというのに余計な手間を増やしてしまった。

 もはや文句を言う気も失せた孫恵の手を借り、紙をかき集める。裏表や上下に構っている余裕はない。だが、無造作に書箱へと戻していた紙の一枚に目が留まってしまった。


雪晏せつあん? 皇宮ここにそんな名前の方っていたかしら」


 手元を覗き込んできた孫恵の問いに、明麗は首を傾げることで答える。料紙には覚えのない誰かの名、それもおそらく女のものが、隙間なく書き連ねられていた。

 その手蹟から書き手は一目瞭然。明麗はこの紙がここにある経緯に思い当たる。

 先日、林文徳に教えを請いながら書いたものに紛れ込んだのだろう。時間を忘れて書庫に滞在してしまった明麗は、あのときも、傾き始めた陽に急き立てられながら、所狭しと卓上に広がる書をよく確かめもせず適当にまとめていた。その際、文徳のものまで持ち帰ってしまったらしい。

 それにしても、と孫恵は心なしか顔を赤らめ吐息を漏らす。


「どなたかはわからないけれど、きっとお美しいのでしょうね」

「そう……みたい、ね」


 いくつも書かれた同じ名は、すべての筆致が微妙に異なっていた。しかしどの『雪晏』からも、女性らしい丸みと柔らかさが感じられ、艶めいた雰囲気を醸している。同性の明麗たちまでもが、その色香に酔いそうなほどだ。

 明麗は、文徳と、彼にこの様な文字で名を書かせた人物との関係が無性に気になった。


「どこかへ行くつもりだったのではないの」


 すっかり手をおろそかにしている明麗に代わり、残りの料紙を箱に戻し終えた孫恵の声が、意識を呼び戻す。


「いけない! そうだったわ」


 件の紙を折り畳んで襟元に差し込み、書箱を受け取る。少し遅れて腰を上げた孫恵を制した。


「あなたは待っていて。まだ終わっていないのでしょう?」


 確実に近づく秋、その後訪れる冬に備えた衣装やそれらに附随する装飾品などが、またしても李家から大量に届けられている。早く整理をしないと、今度こそ墨でも撒いてしまいそうだ。


「それに、いくらなんでもふたり分ごまかすのは難しそうだもの」

「……やっぱり、私も」

「皇宮の外へ出るわけじゃないから大丈夫よ。片付け、お願いね!」


 不穏な言葉を口にした途端、懸念で顔を曇らせた孫恵から逃げるように、明麗はへやから飛び出した。


 ◇


 明麗は、床に視線を落としたまま覚えのある香を嗅いでいた。


「拝謁を賜り恭悦に存じます。皇后陛下におかせられましては、お健やかにお過ごしのこととお悦び申し上げます」


 落ち着いた声は、型通りの口上ながらもよく通る。声の主の後ろに控えていた明麗にまで、心地好く届いた。


「これが健やか、というのかしらね。華月こそ、まだ子を産んで間もないのでしょう? 大事ありませんか」


 久しぶりに耳にする声はどこか力なく思え、明麗は筒状に巻かれた織布の塊を抱く腕の力を強める。皇后の様子が気がかりではあるが、視線をあげてしまえば、せっかく荷物の陰に隠している顔が露わになってしまうだろう。いまはまだ、その頃合いではない。

 織物と共にもどかしさを抱えたまま顔を伏す明麗の前方で、ふたりの親密さが窺われる気易げな会話は続けられていた。




 あのあと明麗は鍛練場の片隅で、りゅう剛燕ごうえんと林文徳に、皇后懐妊の手助けをするつもりで後宮入りしたこと、しかし皇后が自分を妃に推そうと目論んでいたことなどを説明した。そして、おそらくそれは、皇帝はおろか、企てた皇后さえも本心からは望んでいないだろうということも。

 話を進めるにつれ文徳が腰をそわそわと浮かせはじめたので、逃亡防止のため、袍の裾を捕まえる羽目になった。

 一方、泰然と構えていた剛燕は次第に表情を険しくさせ、明麗が口を結ぶと同時に深く長い嘆息をついた。

 そして、こう訊ねてきたのである。


『それで、おまえさんはなにがしたいんだ』


 その問いに、明麗は迷うことなく膝を進めた。

 だが『元気な子をつくるを教えて欲しい』という願いは、あえなく却下されてしまう。

 ならばと気を取り直して請うたのは、あの夜以降叶わない皇后への目通りだった。

 何度皇后のもとを訪れても、ことごとくほう女官長に阻止され面会が叶わないことを剛燕に相談したところ、妻、華月かげつの謁見に紛れ込むことを提案されたのだ。


 終始及び腰だった文徳を介して知らされていた約束の時刻から、少々遅れて通用門に到着した明麗は、華月自らが軽々と担いできた異国の織物だという筒を渡され、予想外の重さによろめく。自分が持ってきた書箱は、案内役として遣わされていた若い宮女に託すことになった。

 明麗に気づいた宮女は、彼女が昇陽殿まで伴うことを躊躇ったが、華月の「責任は劉家が持つ」という言葉に渋々了承させられたのである。



「劉将軍は、お産には間に合わなかったのでしょう? 役目とはいえ、申し訳ないことをしたわ」

「夫は畏れ多くも主上の兵をお預かりする身。国を守ることこそが、なによりの務めです。私事でそれをおろそかにするなどあり得ません」


 きっぱり言い切ったあとに極々小さな舌打ちが聞こえた気がして、明麗は思わず顔をあげそうになる。


「四度目ともなれば、目新しさもないでしょうに」


 少し間を置き続いた苦々しい声音とため息が、空耳ではなかったと知らせた。そこへ、くすくすと抑えた笑いが重なる。


「聞きましたよ。雷珠山のいただきが見えるや否や、隊を置き去りにして馬を駆り、やしきへ戻ったとか」

「まったくもってお恥ずかしい限り。三十路を過ぎても、脱走癖は直らないようで」


 ここからどのくらいの距離ならば、万年雪を冠する霊峰を確認できるのか。永菻を遠く離れたことがない明麗には想像もつかない。だが天河の脚をもってすれば、瞬く間に愛する妻と生まれて間もない我が子の元へと着いたことだろう。


「出産は命がけと聞くもの。いくら文で母子ははこの無事を知らされてはいても、少しでも早く自身で確かめたかったのでしょう」


 劉家に次男となる第四子が誕生したことは義姉からの書簡で知らされていたが、そのような顛末があったことを明麗は初めて耳にした。そもそも、剛燕が南方から戻っていたことさえ先日偶然に知ったのだ。後宮の閉塞性をあらためて思い知らされる。


「それで、今日はどうして急にいらしたの? わたくしは、颯璉に居室ここから出してもらえず退屈をしていたから嬉しいのだけれど」


 皇后は控えている女官長へ恨みがましげな目を向けた。


「お身体が優れないとは知らず、無理なお目通りをお願い申し上げてしまいました」


 姿勢正しく伸ばしていた腰を折る華月に、皇后は小さく横に振った顔の微笑みで応え先を促す。


「実は、夫からこちらを皇后陛下へお届けするようにと言い付かりまして。そうそう。通用門で暇そうに彷徨うろいていた女官を一人、荷運び役としてお借りしております」


 華月が振り返る。その動きに合わせ、皇后を含めたその場にいる者たちの視線が動く。それが珍妙な荷と自分に集められていることを承知した明麗は、ゆっくりあげた顔を筒の陰から覗かせた。

 まず、正面に座す皇后の傍らに侍る方颯璉の見開かれた双眸と目が合ってしまう。ひくりと、片頬が引きつったところまで見てとれた。


「李、めい……」

「明麗っ! あなた、具合はもういいの?」


 颯璉の地を這うような声を、皇后の高い声が遮る。重そうに預けていた身体を長椅子の背から剥がして腰を浮かせた。


「皇后陛下!」


 たいして大きなものではなかった。だが、あの夜から今日までの間、明麗の胸で渦を巻き滞っていた想いは、隠しきれず声に乗ってしまう。

 それを敏感に感じ取ったのか、白い顔をいっそう青くさせた皇后は再び椅子に腰を沈める。


「わたくしは、あなたに酷いことをしてしまったみたいね」

「ええ。その通りです、百合后さま。わたし、とっても怒っているんです。なぜ、あのようなお振る舞いをなされたのですか」


 憤りとも失望ともつかない感情に任せたまま進み出ると、皇后は長い睫毛が縁取る目を下方に逸らせた。


「ごめんなさい。颯璉にも叱られしまいました」


 控え目に刷いた紅が浮き立つ唇を震わせながら、幼子のように謝罪の言葉を口にする。


「わたくしに合わせて調えられた薬を飲んだせいで、体調を崩してしまったのでしょう? そのうえ多量のお酒と共にだなんて、万が一のことがあってもおかしくはなかったと聞かされて」


 胸の前で重ねた両手を握りしめ、翠緑の瞳を揺らす。憂いを帯びた眼差しを向けられてしまい、どうにも居心地が悪くなってきた明麗は顎を引いた。


「詫びと見舞いに、あなたのところへ行きたかったのだけれど、熱が高く意識が混濁しているからと、颯璉が許してくれなかったの。――でも、思ったより顔色もよさそうで安心したわ」


 微苦笑に小さく安堵の吐息まで漏らされ、明麗は目をしばたたかせる。

 病床に就いていたのは、華奢な肩をいっそう薄くした皇后であろう。自分は発熱どころか、初めての飲酒による宿酔にさえ悩まされた覚えがない。

 そもそも、論点が微妙にかみ合っていないのだ。


「お心遣い痛み入ります、百合后さま。しかしながら、わたしはご覧の通り身体のどこにも不調はございません。それより……」

「なにやら込み入った話があるようだが、長くなるなら先に、こちらの用件を片付けさせてはいただけぬだろうか」


 真横で凜とした声が響くと同時に、明麗が抱えたままでいた布筒は、華月にひょいと取りあげられてしまった。

 皇后の居処の戸口近くまでは華月の手を借りつつ運び込んだそれが、床に広げられる。

 縦は両腕を左右に伸ばした程度。幅はさらにその倍はあろうか。鮮やかな色彩に染めた羊毛を密に織って表された風景は、名画のように精巧である。腕の良い職人が手間と暇を十二分にかけた逸品ということは、だれの目にも明らかだった。


「夫が永菻に戻る道中で行き合った隊商が扱っていた品だそうです。百合后さまのお国の景色に似ているのでは、と」


 そこに息づく獣たちの息遣いまで感じられる濃い緑の中で深閑と佇む建物の、積まれた石ひとつひとつが確認できるまで細やかに再現されている。先端が鋭く尖る屋根をもつ塔が印象的だ。


「ええ、ええ。こんなに立派なお城ではなかったけれど……」


 身を乗り出し魅入っていた皇后は、何度も何度も肯く。 


「これが城なのですか」


 明麗が知る“城”とはずいぶんと様相が違う。今更ながらに、皇后が遠い異国からやってきたことを痛感させられた。


「書画のように壁に飾られるのがよろしいかと」


 華月の案を受け、皇后が四方に首を巡らせる。明麗はその視線が一所ひとところで留まるのに気づいた。それを辿った先の壁面には一幅の軸が掛かけられている。

 仲睦まじく並んで水面に浮かぶ二羽の鴛鴦の画は、夫婦円満の象徴として描かれることが多い。清流の中で寄り添うこのつがいも、皇帝夫妻の末永い多幸を願ったものだろう。

 画材としてはさして珍しくもない掛軸に、なぜか明麗は吸い寄せられるように近づいていった。

 いままでもこの画が明麗の目に入ることはあったが、まじまじと鑑賞するのはこれが初めてだ。

 華やかな色合いの雄鳥と控えめな雌鳥。どちらも細部まで丁寧に描かれ、本物と見紛うばかりの出来である。殊に、鳥たちが優雅に乗る川の流れからは水音が聴こえてきそうなほどなのだが、ふと、これまでには感じたことのないなにかが、明麗の意識の片隅に引っかかった。

 皇后の居殿に飾られている軸だ。余程の大家の作に違いない。ところが号を探してみても、見当たらない。そんなはずはなかろうと隅々まで確認すれば、書画紙が淡く変色を始めているところから、それなりに長くここにあることだけはわかった。


「こちらに掛けられますか」


 皇后を振り返り伺いを立てる。多少調度を移動させ軸を外せば、そのくらいの空きは確保できそうだ。


「え? そうね。……やはり、陛下のご意向を賜ってからにしましょう」


 皇后は一度肯きかけた首を横に振った。華月に礼を言い、侍女たちへ織物を片づけるよう指示を出す。 


「では、私はこれにて」

「あら、まだ構わないでしょう? それとも子どもたちが帰りを待ちわびているのかしら」


 辞去を申し出た華月を、やや強引とも思える口調で皇后は引き留めた。


「いえ、そのようなことはございませんが」


 将軍の家ともなれば、乳母たちが片時も目を離さずに赤子の面倒をみていることだろう。それを見越した皇后からの誘いにも、華月は渋い顔をして上衣の大袖をひらめかす。


「できれば、少しでも早くこの鬱陶しい衣をあらためたいと存じまして」


 床まで届く長裙の裾を摘まみあげ嘆息まで吐く様子に、皇后と明麗は堪らずに吹き出した。

 今回は正規の手続きをふんだ謁見ということもあり、礼を失しないよう夫人らしい装いに身を包んでいるが、彼女の普段の姿を知るふたりはその言い分に納得してしまう。騎射の名手としても知られる朱華月は、少女時代より、足捌きが良いという理由から、馬と親しい北方の民が身につけるような衣服を好んでいた。


「女官服の裾を翻し、皇城中を駆けずり回っているそなたには笑われとうないわ、李明麗」


 華月からもっともな指摘を受けたのみならず、方颯璉の冷ややかな視線まで送られて、明麗は口を両手で塞ぐ。そのまま上目で皇后を窺い見た。


「お願いよ。どうか、華月もいっしょにいてちょうだい。明麗の雷は颯璉のお説教より……いいえ、雷珠山の龍よりも恐ろしそうだわ」


 毒蛇に怯える仔りすのような瞳を向けられて、その願いを無下に断ることができる者などいるのだろうか。

 明麗の視界は端で、華月が乱れてしまった裾を直すのを捉えていた。

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