書家の矜持《3》
◇
筆が舞う。その穂先が宙に書く光の軌跡を、周楽文の双眸は見失うまいと無我夢中で追いかける。
嘲笑うかのように現れては消える筆跡は、暗闇を切り裂く稲妻のようだ。
――否。何者かが操る筆先から迸る光線は、天翔る龍となって楽文の周囲を縦横無尽に旋回していた。
その尾を掴もうとしわがれた手を伸ばす。だが、力強い払いから姿を変えた龍の尾は、すんでのところでかわされ、楽文の手をすり抜けてしまう。
彼がどれほど
「……の。周楽文殿。どうなされました」
遠い声に楽文は
「おや、これは珍しい。李博全殿ではありませんか」
歳は遥かに下だが官品はとうに抜かれている若者に、座したまま拝礼しようとするが、押し止められてしまう。博全の憂い顔は弱り顔に変わっていた。
「先々帝のもと、一度は秘書省の監まで勤められ、今も書の大家として誉れ高い周楽文殿に、頭を下げていただくわけには参りません。それより、どこかお身体の具合でも悪いのでしょうか」
正面に腰を下ろした博全の眉が寄せられる。その表情をみた楽文は、思わず笑みを零した。
「ますます父君に似てこられましたなあ。なあに、人は年を重ねると、眠気が時と場所を選ばず訪れるようになるもの。ご心配は無用」
真っ白い口髭を揺らしてみせれば、博全の眉間に刻まれたシワが僅かに開く。そのままさほど広くはない房内に視線を巡らせた博全は、再び顔を曇らせた。
「ところで明麗はどこに?今朝も門を飛び出していったと、守衛から聞いたのですが」
「妹御でしたら今は表へ。なにか急ぎのご用でしたかな?」
「いえ、たいしたことでは……。これを妻から預かってきたので」
博全が手にしていた包みを卓の上に置く。そこから漏れてくる芳ばしい香りに、楽文は眉で隠れてしまう目の尻を下げた。
「愚妹がご迷惑をおかけしているでしょうから、と。よろしければ口慰みにいかがですか」
包装を解くと希少な糖をたっぷりからめた黄金色の揚げ菓子が現れ、漂う香りに甘さも加わる。楽文は誘われるように腰をあげた。
「それはありがたい。さっそく茶でも淹れましょう」
当然の如く博全は年長者の手を煩わせることに遠慮するが、城下に構える小さな邸では、自分か養い子のどちらかが動かなければ茶など飲めないのが常である。慣れた手つきで用意をすると、ひたすらに恐縮するばかりの博全の前に茶杯を置き、自身もひと息つくことにした。
「ほかに人は?」
粗末な器を恭しく持ち上げた博全は、ひと目見ればわかることを痛ましげに聞いてくる。楽文は遠慮なく菓子をひとつ摘まみ、口に放り込んでから首を横に振った。
「ご覧の通り。ここは私と文徳のふたりきりでも、十分に手は足りておりますから」
甘くなった口の中を茶で流してから答える。すると博全は静かに茶杯を置いた手を膝に乗せ、姿勢を正した。
「いずれ三公に就かれるとまでいわれたお方が、なぜこのような扱いを受けなければならないのでしょう。やはり、先帝の奉元の際に代書を断られた件が、未だ尾を引いているのですか?」
「いやはや、ずいぶんと古い話をお出しになる」
楽文は豊かな口髭の下で薄く笑みを作る。おそらく博全は、端からみれば不遇とも思える老爺の現状に同情や憐憫の念を抱き、義憤すら感じているのだろう。しかし理知的な瞳の底にある、代が替わってもなお人の口に上る事の真相を知りたいという好奇心が、隠しきれていない。
この冷静沈着な次期宰相候補の李博全には、あの奔放な明麗と間違いなく同じ血が流れているのだ。堪えきれず零れそうになった笑いを、楽文はもうひとつ菓子を囓ってごまかした。
「昔のことだとおっしゃるのでしたら、なおさらです。私からも陛下に……」
「博全殿は、奉元の儀の起こりをご存じですか?」
なおも世話を焼こうとする言を遮り、目の前の、面差しばかりでなく性質も父親によく似てきた若者を遠い目に映す。
「無論。琥家の家長が、正月に一族の繁栄を祈願した書を祖廟に納めたのが起源だと聞いています」
建国より遥か以前、琥氏が雷珠山を含むこの一帯を統べる一首領にすぎなかったころから行われていたものが、代替わりの際、国の安寧を願うとともに、宗廟に封じられた龍に加護を乞うという形式に変わり続けられている。
その場で納められる語句は元号となり、新しく帝位に就いた皇帝が求める国造りの指針ともなるのだ。
葆の朝廷に仕える貴族なら、子どもでも知っている事柄である。
それがなにか、と訝しげな博全に、楽文は問いを重ねた。
「では、
これには、博全が首を横に振る。彼が受けた採試は、苑輝が即位してから実施されたものだ。先帝の存命中、仕官どころか加冠さえ済ませていなかった博全が、皇宮内に建つ正殿に足を踏み入れる機会は、皆無だったのだろう。葆国史上最年少の採試合格者が出たと、騒ぎになった当時を思い出し、楽文は鷹揚に肯いた。
奉元の儀で宗廟に奉納された書は表装され、在位期間中は蒼世殿の玉座のさらに高みから書き手の治政を見守ることとなる。
先帝の
『望界』
はみ出さんばかりに書かれた猛々しくも重厚な筆致は、目にする者を圧倒した。文武百官が、玉座の
「……先帝陛下は、龍筆を求めていらした」
「龍筆というと、あの?」
「その才を持つ者によって書かれた文字は、龍へと
かの四書仙でさえ、龍を封じることはできても、生み出すまでには至らなかった、幻の筆。それを先帝は、稀代の名筆と呼声が高かった周楽文に求めたのである。
「当然、自分にはそのような才能はない、身に余るとお断りしました。仮にその手蹟の持ち主だったとしても、代書をお引き受けするわけにはいきませんでした」
「なぜです? 皇帝の代筆など、その後の栄華を約束されたようなものでは……」
言いながら覚えた違和感の正体が、博全の顔を驚愕で歪ませた。
「気づかれましたな。過去、奉元の代書を務めるまでの腕を有していた書家たちが、新帝の御代では名も書も遺していない事実に」
ごくりと、青ざめた博全が喉を動かし唾を飲み込む音まで聞こえる。「後継である実の息子にさえ口が堅い」という項目が、楽文の李宰相に対する評価に加えられた。
「有能なあなた様ならば、いずれは知ることになるでしょうが」
もったいつけた物言いが探究心旺盛な博全の気を焦らせたのか、わずかに身を乗り出し目の力だけで続きを促してくる。異例の昇進を続け、老獪な旧臣とも対等に渡り合ってはいても、まだまだ父親のような老成さはまでは持ち合わせていない。
その若さを眩しくも好ましく思いつつ、楽文は葆の皇宮でもごく限られた者しか知り得ない、忌まわしいしきたりを告げる。
「奉元の儀がつつがなく執り行われたのち速やかに、代筆者だけでなく、その一族は勅命により秘密裏に
「書き手だけでなく、一族もろともに……」
四書仙が封じたと伝わる龍の加護は、捧げた書の筆者に与えられるもの。よって、ほかの家にそれが移るのを防がなければならない。
もたらされた情報が予想を上回っていたのか、博全は色を失した顔面を手で覆った。
「そのような無慈悲な事態を招かぬよう、一滴でも琥家の血を受け継ぐ男子として生を受けられた方々は、歩き始めるより早く書に親しみ、習練を重ねることが課せらていらっしゃるというわけです」
それでも琥氏の永きに渡る治世の間には、筆を揮うには幼すぎる者が帝位に就かなければならなかった代や、国が乱れたまま先帝が倒れた時代も存在する。その際には、より優れた代筆をたてる必要があったという。
理不尽な理屈と人知れぬ犠牲の上に、この国の平穏は成り立っていたのだ。
「本来ならばなにも知らされず儀礼に臨むところを、宗達さまはあえて私にこの慣わしを伝えました。そのうえで代筆を迫ったのです。しかしながら、私が固辞したのは、命が惜しくてのことではありません」
沈痛な面持ちのまま、博全が顔を上げた。
「あの方のご気性を慮れば、受けても断っても殺される。私には幸か不幸か、守るべき者も家もない。ならばいっそ、己の信念を貫こうと」
楽文は墨海から揚げた筆を、滑らかに紙の上で動かす。記した文字は『望界』。先帝に書けと命ぜられたものだ。
「宗達さまがこのふたつの文字に込めようとした想いは、『世の
楽文は文官として禄を食みながら、書道家としての意地を通した。生まれながらにして官職に就くことが決まっていたような博全には、理解に悩むかもしれない。
語りすぎて渇いた喉を冷めた茶で湿らす楽文の手元から、まだ墨跡も新しい紙が引き抜かれた。
「以前父に、『命を賭してでも譲ってはならない信念もある』と説かれたことがあります。まさに、楽文殿にとっての『書』がそれだったのでしょう」
刀を持つ必要のなかった手のすらりと長い指の先が、紙面の文字の上を辿る。収筆をしっかり止めてから、ゆっくりと吐息をもらす。
「この国の
楽文は、国の外へではなく、まずは自国の隅々にまで目を向ける治政を宗達に望んでいた。その意思を楽文の文字から正確に読み取った博全に感心しつつも、静かな笑みを作るだけにとどめる。
「過ぎたことに仮定を述べてもしかたがありません。過去があって
結局楽文の諌言が届くことはなく、自ら筆を執った宗達は、渾身の力でしたためた書を奉納した。そして、その文字の意味と勢いに違わぬ政を推し進めた。それがすべてである。
楽文は首筋に手をあて、そこに加齢によるシワ以外、傷ひとつないことに苦笑した。
「どのような気まぐれを起こされたのか、この首は繋がったまま。官を辞すことも許されず、先帝陛下は私を
あの夏の眩しい陽射しを思い出し目を細めた。口元は自然と緩み、天帝が与えてくれた邂逅に感謝する。
「子をひとり養うため、根無し草になるわけにはいかなくなり、こうして陛下のお情けにすがっておるのです」
楽文が唐突に雰囲気を和らげた理由に合点がいったのか、博全は大きく肯いた。
「林文徳、ですか。彼はいったい何者なのでしょう。話には聞いておりましたが、まさかあれほどの才とは……」
声色に感嘆と困惑が混じるのは、先日呼びつけた折に文徳の書と見識に触れたからなのだろう。自分が初めて文徳が書いた地面の文字を目にした時の衝撃を思い出す。
それこそ、もし望界帝の征西が行われなければ、彼の右手はいまごろ西の地で、田畑を耕す鍬を持つために使われていたはずだ。筆になど縁の無い一生で終わっていたに違いない。
「ただの戦災孤児ですよ。
楽文は自分の言葉の中にある、己が生涯得られぬものを愛弟子は手にするかもしれないという、羨望と嫉妬を自覚する。夢の中でさえ光の軌跡を掴めなかった右手を、堅く握った。
「まさか! それは、あの者が龍筆の持ち主になる可能性があると!?」
聞き耳を立てる者などいない房で潜められた博全の掠れ声が、楽文に師匠としての冷静な判断を促す。
「さて、それはなんとも。龍筆を得るには、欲する強い想いが必要だともと伝えられております。あれに、そのような願いが生まれますかどうか」
自分に輪をかけて欲のない養い子は、好きなように好きなだけ文字を綴ることのみが望みなのだ。そんな些細なものは、龍に託さずとも叶えられる。
楽文が空の席をぼんやりと眺めていると、急にそわそわと腰を浮かせた博全が戸惑いがちに尋ねてきた。
「失礼ながら、楽文殿。我が妹はまだ戻らないのでしょうか。こちらへは書を習いに伺っているはずなのですが」
どうやら、所用を申し付けられて席を外しているのだと思っていたらしく、待てど暮らせど姿をみせない妹が気がかりで仕様がないようだ。
心配性の兄をなだめるつもりで、楽文は明麗の行方を教える。
「外へは書を学びにいかれたのですよ」
「は? 外で書、ですか」
博全は虚を突かれたように、あげかけていた腰をすとんと落とす。彼の前の卓上には、筆に硯、紙などの書道具が並んでいる。そこへ向けられた瞳には、「書の練習とはこのような場所でするものではないのか」という当然の疑問が浮んでいた。
「筆を使い、紙に墨で書くばかりが書道ではありません。彼女もきっと、新たな書を見いだし戻ってくることでしょう。ご案じなさいますな。なにも皇城の外へ出るわけではないのですから」
呵々と笑ってみせても、博全の顔から不安の色が消えることはなかった。
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