将軍の愛馬《1》

 雲ひとつ見あたらない蒼天に向け、明麗は組んだ両手を突き上げた。肩や背中の筋といっしょに、心まで解放された気分になる。たった一枚の塀を越えただけなのに、同じはずの空が広く見えた。


 皇后にはいまだ目通りがかなわない。せめて、ひと目姿を扉の隙間からでも覗けないものかと寝所の周りをうろついていたら、方颯璉にみつかり追い返されてしまうこと数回。


「百合后さまもこの青い空をご覧になったら、少しはお気持ちが晴れるかしら」


 足を止め上空に向けられた明麗の呟きは、数歩先をいく文徳には届かなかったようだ。


せんせい!」


 俯きがちに歩く丸い背中に呼びかけるが、ふたりの距離はさらに開く。


林師りんせんせい林文徳りんぶんとくせんせい!」


 文徳は三度目でようやくびくりと肩を揺らして立ち止まり、忙しなく周囲を見渡してから振り返る。不機嫌に口を曲げて立つ明麗を見留めると、照れくさそうに耳の後ろをかいた。


せんせいは止めてくださいと最初に言いましたよね」

「だったらせめて、行き先を教えてくれるか、並んで歩いてもらえませんか?」


 声を張り上げ大股で間を詰める。見知らぬ場所で、男女の歩幅の差を気にされずに歩かれては、たとえ皇城内とはいえども迷子になってしまいそうだ。


「行き先?」


 ほんの少しだけ上向けた視線の先で、文徳の目がなにかを探すように泳ぐ。書庫から連れ出しておきながら、どこへ行くのかも決めていなかったというのか。


「だいたい、筆も紙も持たずに、どうやって書の練習をするというの?」


 空っぽの両掌を文徳の前でひらひらさせる。

 埃っぽく薄暗い書庫で卓と紙に向き合うことに若干飽きのきていた明麗は、「表に出よう」という文徳の提案に一も二もなくのったのだが、その目的は知らされていなかった。


「そちらは別に問題ないけれど。そうですね、なにか気になるものはないですか? 草花や生き物など。まあ、皇城ここで見つかりそうなものに限られますが。それを今日の題材にしましょう」


 突然奇妙なことを言われ、戸惑いながらも明麗は即答する。今、気がかりなのはただひとつ。皇后のことのみだ。


「皇后さまのお心を安らかにして差し上げたい」


 抽象的な注文を受けた文徳は人通りの多い官庁街を見回し、やがてなにかを思いついたように肯いた。


「たしか皇后陛下は西の出身でしたね。でしたら、お故郷くにに関連したものは?」

「西国の……」


 言葉や所作では生国をほとんど感じさせない皇后の暮らしの中から、西の薫りがするものを探す。

 たわわに実を結んだ麦の穂色の髪や、瑞々しい新緑のように澄んだ瞳の色は、どちらも葆では珍しい。輿入れの際に持参したという玻璃の花瓶は、不注意で自分が粉々に割ってしまった。

 馬車を使ってさえ幾月もかかるというほど遠い、遙か西方にある国のことなど、永菻から出たことのない明麗には想像も付かなかった。


「馬車で……。そうよ! 馬はどうかしら。西域は名馬の産地だと聞いたことがあるし」


 山間にあるというアザロフ王国がそうだとは限らないが、少なくとも葆に来るまでの旅程をともしたはずである。見たことも聞いたこともない、ということはないだろう。それに馬ならば、この皇城にもいるはずだ。


「馬ですか。――うん、それはいいかもしれない」


 文徳は左右に首を動かして方向を定めると、またしてもいいのかというひと言もないままに歩き始めてしまう。ため息ひとつで説明を諦めた明麗は、そのあとを追いかけた。


 整然と棟が並ぶ通りから離れしばらくすると、おもむろに緑が目立ち始める。明麗には聞き慣れない怒声や金属音など雑多な音が耳に届き、文徳の目的地を察した。


「鍛錬場?」


 皇帝と皇宮を守る禁軍の兵たちが日々の訓練を行う場なら確実に馬が、それも選りすぐりの名馬がいることだろう。

 喧騒の方角へ目を向ければ、照りつける陽射しの下、ゆうに文徳の倍は目方がありそうな武官の号令で、槍や刀を一心不乱に振る者や遠い的に目がけ矢を射かけている者、組み手を交わす者たちが額から滝のような汗を滴らせている。眺めているだけで、こちらが倒れそうだ。

 それを横目に簡素な木の柵で囲われた外側を回り込むと、ほどなく兵舎が現れる。その横に並ぶ細長い建物は厩舎のようだ。大量の藁や桶を抱えた従卒らが、ひっきりなしに出入りしているのが見て取れた。

 ただし、殺伐としたその中へ、見るからに貧弱な文官の文徳と、華奢な宮女姿の明麗が潜り込む余地は、どう考えてもなさそうである。それでも明麗は構わず歩を進めようとした。


「え? あっ、ちょっと待って」


 活気と熱気に圧されていたのか、呆然と作業を眺めていた文徳が、慌てて袖を摘まんで引き留める。


「どうして? 馬に会いに来たのなら、あそこに行かなければ意味がないでしょう」

「さすがに君をうまやに入れるわけには」

「大丈夫よ。邪魔をするつもりはないわ」


 唇を尖らせて睨み付ければ、焦ったように袖から手を離す。文徳はその手で兵舎の奥を指し示した。


「たぶん、あの辺りだと思うんです」


 そう告げただけでまた歩きだしてしまう。あきらかに場違いな二人連れをみつけた者たちが、にわかにざわめき始めていることには、どちらも気づかないままだった。


 辿りついた兵舎の裏手には、鍛錬場とは別に柵で囲われた敷地が広がっていた。幾頭もの馬たちが青々と茂る草を食んでいる。その奥には、伸び伸びと駆ける駿馬の姿もあった。


「ああ、やっぱりいた」


 文徳は柵に手をかけ眺めやる。その声に驚いたのか、一頭の馬が頸を持ちを上げこちらに鼻面を向けた。その傍らには二回り以上小さな馬が寄り添い、母親の陰から様子を窺っている。


「放牧場だったのね。見て! あっちにも仔馬がいる」


 よくよく探してみれば、ほかにもこの春から夏にかけて産まれたとみられる仔馬が、あちらこちらにみつかった。

 頬を紅色に染めた明麗が興奮気味に柵から身を乗り出すと、数頭が嫌そうに頸を振って離れて行ってしまう。慌てて口元に手をあて声量を控える。


「いろいろな馬がいるのね」


 鹿毛、栗毛、毛の色だけではない。体格も気質も様々のようだ。


「ここへ皇后さまをお連れするのは……たぶん無理か。ねえ、文徳。あなたが書にして、見せて差し上げることはできない?」


 彼の腕をもってすれば、あれらの馬たちを生き生きと書き分けることができるに違いない。新たな期待と希望で満ちる瞳を向けた明麗に、文徳は呆れ顔で返す。


「なにを言っているんですか。それは明麗の仕事でしょう? ここにいるたくさんの“馬”を書いて、皇后陛下にお届けしてください」

「わたしが?」

 

 当然といったふうに肯いた文徳は、箸ほどの太さをした枝端を拾い上げて半分に折り、片方を明麗に渡した。


「文字で書くと皆同じ“馬”だけど、人といっしょでそれぞれに違う個をもっています」


 文徳はしゃがみ込み、土がむき出しの地面に枯れ枝でなにかを書き始めた。決して手を休ませることなく、口も澱みなく動く。


「見ての通り、“馬”はその姿を文字にしたもの。それが段々と形を変えて、現在のこの字になりました」


 遥か昔、動物の骨や青銅器などにやいばによって刻されたという文字が、棒切れで地面に再現される。終いには五種類の“馬”が、右から左へ時を追って姿を見せた。

 膝を抱え文徳の左隣に腰を下ろした明麗は、時代の新しい、馴染みのあるものから順に確認していく。なんの変哲もない土の上に刻まれた単純な線は、驚くほどに滑らかだ。吸い寄せられるように伸ばした指先を、地につく寸前で引いた。これは墨文字と違い、軽く触れただけで形を損なってしまうものなのである。


 ふと明麗は、整った形の美しさの中に奇妙な感情がわいた。それは、右端に書かれた、文字と呼ぶには少々難があるでいっそう強まる。目を凝らして見てみれば、ほかの四つとは線質も異なっているように感じられた。


「それも文字なの?」


 左手を伸ばし、くだんの図を指して訊ねると、文徳は「やだなあ」と枝を持った右手を顔の前で振ってみせる。


「絵ですよ。馬の絵」

「これが? だって恐ろしく短いけれど脚は五本あるし、横を向いているのに目がふたつ、こっちを見ているわ」


 それだけではない。たてがみと思われる山型は背を過ぎて尻まで続いているし、耳は片側だけ兎のように長い。頸まで裂けた口は笑っているのかぱっくりと開き、牙をむき出していて不気味だ。伝説の妖怪を描いたと言われたほうが、断然納得できる。


「脚が多い? 尻尾と間違えているんじゃないですか。一、二……あれ、本当だ」


 文徳は掌で地面を撫でて、世にも珍妙な馬を消し去ってしまった。


「……文字を考えた人はきっと、絵がとっても下手だったのね」


 自分の描いた絵では伝わらなくて、誰が書いても理解できる共通の形を作ろうとしたのではないか。明麗は文徳の“馬”を目の当たりにして、そう推論する。

 しかし、文字の馬が四頭分になっても、一度明麗の中に生まれてしまった違和感は拭えない。残された、古代から現代までの書体で書かれた文字は、どれも手本のように完璧なのになぜだろうか。と、あることに思い至る。


「もしかして、文徳って馬が嫌いなの? この文字たちはいないわ。そう、まるで作り物みたい」


 確信を持った明麗は、放たれている馬たちと地面の馬を見比べた。文徳の書いた文字からは、いつだって生気が溢れてくる。それなのに、本物の馬を目の前にして書いたはずの文字は、精緻に作られたようの如く美しいが、息遣いがまったく感じられないのだ。

 明麗からの指摘に、文徳は虚を突かれたように目を瞬かせる。そのあと視線を落とし、束の間、自分の字と向き合っていた。


「参りましたねえ。明麗のその鋭い感性は、天性のものですか? それとも李中書次官の手解きの賜物なのかな」


 おどけた口調とは裏腹に顔を切なげに歪めた文徳は、残りの文字も両手を使って掻き消してしまう。真っさらになった地面の上で手についた土を払い、さらにため息と肩を落とした。


 天賦の才に恵まれているのは文徳のほうであろう。

 あれらの馬は紙の上に書かれたものではない。 筆と墨を用いるのとは訳が違う。緩急も濃淡もほぼないに等しい筆致だったにも関わらず、明麗にそれだけの印象を抱かせたのは、彼の力量によるものだ。

 だからなおさら、いつもとは様相の異なる印象を与えた筆勢が気になった。


 文徳は枝を持ち直すと、ならした場所に再び馬を書く。今度は明麗もよく使う書体でのみ、ただひとつ。それはやはり作り物めいた美しいものだったが、先ほどよりも温かみを帯びた感字だった。


「昔、父が妹に作ってやった木彫りの馬を無意識に書いていたのでしょう。正直、それほど上手い出来ではなかったんですけど、妹はいっしょに寝るほどのお気に入りにしていました」


 地面に向けられた文徳の横顔を覆う儚い笑みを目にしたら、「いま、ふたりは?」などと無遠慮に問うことなどできない。幼少の時分から周楽文のもとに身を寄せているというのは、おそらく意味なのだろう。

 父親お手製の馬は、家族の思い出とともに美しく彩られ、彼の記憶の中に残り続けた。その姿を文徳はここに刻んでいたのだ。

 明麗は、あれらの文字から生命を感じなかった理由がわかった。

 美しくて温かい、けれどどうしようもできない痛みを孕んだ文字を、明麗は白い手で乱暴に消す。でこぼこの地面は、掌によって丁寧に均された。すっかり土まみれになった手に枝を握る。


「たしかにこれならいくら失敗しても、紙や墨が無駄にならなくて便利ね。まずは、あの白鹿毛の母馬からにするわ」


 ささくれた枝の先を、対象とする馬に据え宣言した。ところが、突然先端を向けられた馬の親子はびくりと耳を立て、逃げるように早足で立ち去ってしまう。思わず溢した舌打ちに、文徳が目を丸くした顔を上げた。


「軍馬なのにこれくらいで怯えてどうするの!? いざ戦となったら、矢が降る中を駆け抜けなくてはいけないのよっ!」


 立ち上がって腰に両手をあてた明麗が憤然と叫ぶと、ほかの馬たちも一斉に明麗たちから離れていく。ますます怒りを募らせる明麗の気を、口元を押さえても漏れる、文徳のこもった笑い声が削いだ。


「心配しなくても大丈夫ですよ。陛下が玉座におわす限り、もうそんな争いは起こりませんから」

「それは……そう、だけど」


 この国の皇帝が無益な戦を望んでいないことは、いまや国民のすべてが知るところである。

 だが実際には、国の内外を問わず小さな諍いが皆無になることはない。現に、先ほど目にしたばかりではないか。軍を置き毎日の訓練を怠らずにいるのは、いつ何時起こるともいえない非常時に備えてのことだ。

 自分たちの子や孫の代になったとき、眼前に広がる光景と同じく、軍馬はのどかに草を食んでいられるのだろうか。


 近くから馬が消えてしまった放牧場を見渡し、明麗は裙が汚れるのも気にせずぺたりと膝をつけた。

 豆粒並の小さな馬影では、特徴を捉えて文字にすることが難しい。己が招いた事態に落胆し、枝で地面をほじくり返していた明麗の肩が叩かれた。


「な……っ!?」


 声を出そうとした唇の前に土臭い人差し指が立てられ、発言を制される。その指がゆっくりと示す方向を変えるのに合わせ、明麗は首を動かし目を瞠った。青毛が一頭、悠然とした足取りで真っ直ぐこちらに向かっていたのだ。

 近づくにつれ、その馬があきらかに、ここにいるほかのどの馬とも違うことに気づく。

 全身は艶光りする漆黒だが、光の加減で月のない夜空の色に変わる。ただし、真っ白な線が額から鼻先にかけて一筋走っていた。

 その上、馬体も桁違いの大きさだ。性別の差もあるのだろうが、仔馬を連れていた母馬がその陰にすっかり隠れてしまうのではないかというくらいの迫力がある。

 黒い巨躯は歩調を緩めることなくやってきて、手を伸ばしても少し足りない微妙な距離を残したまま柵の手前で止まった。

 高い位置から剣呑な瞳で見下ろされ息を呑む。馬を間近にするのは初めてではないが、明麗がいままで見てきた中でも、圧倒的な存在感を醸し出していた。


「良い課題が、向こうからきてくれましたね。さっそくこの馬で書いてみてください」


 畏怖さえ覚える名馬を前にしているというのに、なんの気後れもないのか文徳はのんびりと指示を出す。いや、むしろ目の前の黒馬を書にしたくて仕方がないともとれる笑みを浮かべ、棒切れを弄んでいた。

 これほど個性のある馬だ。書の題材とするに申し分ないだろう。だが明麗には、この馬のすべてをたった一文字で表せる自信がなかった。


「先にあなたが書いてみせて」


 恥を忍んで手本を請う。一方でその内心には、単純に彼の書くこの馬をみてみたいという欲求もある。それを見透かしたように、文徳は首を横に振った。


「お手本を見て書くこともひとつの練習法ですが、今回はやめましょう。君の手蹟で、君が感じたままを文字にしてください」


 素気なく断られてしまったので、明麗は自分の前の土を撫で平らにして馬と向き合う。

 挑むような視線で見上げても黒い馬が動じることはなく、「書けるものなら書いてみろ」とでも言いたそうに鼻先を天に仰向けた。

 喧嘩を売られたと感じた明麗は、勢いに任せ枝先を地に突き刺す。そこからひと息に一画目である縦の線を引いた。そのあとも手を動かし続けて地面を刻み、馬の一字を書き上げる。しかしいまにも折れそうな枯れ枝が作る線では、生まれ立ての仔馬にも見えなかった。

 当然納得などできるはずがない。不出来な馬を一瞬で消し、もっと太い棒を求めて周囲を見回した。ところがすぐに明麗は、道具の問題ではないのだと思い知らされることとなる。

 手持ち無沙汰になった文徳が、勝手気ままに細い枝で綴った文字たちが目に入ってしまったからだ。

 空、風、緑。思いついたものを端から書いたのだろう。同じ土の上に片割れの枝で表された文字は、夏の眩しい青空、雷珠山から吹き下ろされる涼風、一時ひとときの憩いを与えてくれる木々の緑だった。

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