栄華の明暗《3》

 饅頭のような手と薄桃色に包まれた小さな足が、元気に宙を掻く。さながら、ひっくり返された亀のようだ。


「あの小さなくつしたが入ってしまうのですね」

「英世もこうであったではないか?」

「もう覚えていません。それに、兄があまり近寄らせてくれなかったのです。本当、小さ……いっ!」


 あまりに顔を近づけすぎていた明麗は、顎を蹴り上げられてしまった。


「大事ないか? この足癖の悪さはだれに似たのか。これ、おとなしくせぬか」


 朱華月は、ごろりと寝返りを打ち這いずり始めようとする末子を引き寄せ、あぐらを広げた裙で隠した膝に乗せる。赤子はなおも母の腕から抜け出そうともがくが、縛めが解かれることはない。


「なんともありません。男の子ですもの。活発なのは良いことです」 

「ほう。そなたがそのようなことを申すようになるとはな。皇后陛下の名代として現れたときは、さすがに驚いたぞ」

「わたしも、華月さまに平伏されるなんて、居心地が悪かったです」


 皇后の使いとして劉家を訪れた明麗は、丁重な出迎えを受けていた。


 仕上がったお手製の毛糸の小物を明麗に託し、皇后は「自分が届けようとすれば大事になるから」と笑ったあとに、少し寂しげな目でひと揃の襪を手のひらにのせた。


『まだ、赤ちゃんを見るのは少し怖いの』


 流れた我が子がこの世に生まれていたらと、考えずにはいられないのだと言う。

 毛糸の生産や編み物の普及に関われば、よい気分転換になるのではないか。そう考えたのだが、かえって負担になってしまったかもしれない。明麗は己の早計を後悔しかけた。

 しかし皇后は、眦に滲んだ涙を気丈に拭い、自らの名で発行した門符を用意し、見送りには笑顔を添えてくれた。


『大門の外に出るのは久しぶりでしょう? ゆっくりしていらっしゃいな』


 そういわれても、官人の出入り口である東大門を潜ってから軒車に乗り通し。帳をめくり外を覗いても、護衛の兵が跨がる馬と目が合うばかり。再び地に足をつけたときには、すでに劉家の邸宅の敷地内だった。

 それでも、内にも外にも威圧する高い壁が入らない視界には開放感を覚える。

 形式に則ったやり取りを済ませた後は、主が不在なれど、勝手知ったる将軍邸での無礼講となっていた。


「いろいろと耳にしているぞ。恐れ多くも主上を碁で打ち負かせたとか」

「あれは……。あのときは、そうするよりほかに、策が思いあたらなかったのです」


 必死だった菊宴の夜を思い出すと、顔色が赤や青に目まぐるしく変化してしまう。しかし剛燕が博全の頭髪を心配していたと聞き、明麗は吹き出すのをこらえるのに苦労した。


「今度は、後宮に医官をおけと進言したそうだな」


 おおかたこちらも、皇帝から博全、博全から剛燕へと伝わったのだろう。後宮の内情がここまで筒抜けでよいものかと不安になるが、この話が広まり、医官を志す女人が現れるのではという期待もある。


「でも、わかっていたことですが、簡単にはいきそうもありません。女の医生を認めるか、後宮内に男である医官を留めさせるか。どちらにしても、法の改正が必要ですから」


 朝廷は、当然のごとくそのどちらにも難色を示している。明麗の父、李宜珀などはその筆頭だ。あわよくば、女医官誕生に乗じて女性の採試受験資格をも認めさせようという、娘の秘かな企みまで見抜いているに違いない。

 明麗は、劉夫妻の関係を、己の両親とつい比べてしまった。おそらく、母は入宮した娘の現在の立場さえ知らされていない。家の外のことを妻に教える必要はない、夫が口にしないことは知らなくていい、そう考える人たちなのだ。母のような夫婦生活は、人生はつまらない。

 

「華月さまは、武官に――お父上のように将軍になりたいとは思われなかったのですか」


 朱華月は、あくまで自主的に父親について従軍していただけだ。どれほど功を成し、『姫将軍』などともてはやされても、とうとう正式に武官として登用されることはなかった。男と同じか、それ以上の働きをしても公に評価されないことをどう感じていたのか、実のところ明麗はずっと気になっていた。


「将軍か」


 率直な問いに、華月は懐かしむように目を細めた。口元には穏やかな笑みが浮かぶ。


「たしかに、力ではどうあっても男に敵わぬと臍を噛んだり、功を焦ったこともある。父の後に続けぬ身を理不尽だと嘆きもした。だがいまとなっては、やはり己は人の上に立つ器ではなかったのだと得心している」

「そんなことはありません」


 いまだ軍では、彼女の武勇を讃える声がきかれる。たとえ任官していなくとも、その実力と人望は確かなものだった。

 しかし華月は、それを過去のものと捨て去るように首を振る。

 

「官人である限り、時に私情を捨てねばならぬこともある。それは文も武も変わらない。なれど、人の妻となり母となったいまの自分は、当時と同じ気持ちで戦場に立てる自信はない。――まこと、母親とは面倒な職掌よ」


 かつては剣を取り弓を引いた手が、膝の上で暴れ疲れて寝息を立てる我が子の細く柔らかい髪を梳く。国を衛るために尽力していた手は、我が子を護るためのものに変わっていた。だが幼子へと注がれる華月の眼差しに、悔恨の色はうかがえない。

 あの姫将軍をして、国家への忠義にも勝ると言わしめたか弱き存在へ、明麗は恐る恐る手を伸ばした。肉付きのよい頬に触れると、赤子は弾かれたように目を覚ます。黒目勝ちな潤む瞳で見つめられた。


「あ、ごめ……」


 泣かれる。引こうとした指が握られた。思いのほか強い握力に感心してると、赤子は明麗の手を自身の口へと誘導し、くわえてしまう。力強く吸われる指先に感じる、湿り気と生えそろう前の歯の硬さ。


「え? ちょっっと、なに!?」

「よさぬか、こう


 息子の口から明麗の指を引き抜く。よだれにまみれたそれを、華月は自分の袖で拭い清めた。


「すまぬな。もう腹が減ったらしい」


 授乳のために中座する、と皓を抱き上げ立ちあがる。


「ご自身でお乳を与えられているのですか?」

「これはほかの姉兄きょうだいに比べても大食らいでな。乳母のだけでは足りぬと泣くのだ。まったくだれに似たのやら」


 夫婦ともに大酒呑みで知られる華月は、嘆息しながら退室していった。


 ひとり残された明麗が冷めた茶を飲んでいると、水を張った桶と手巾を携えた孫恵が、疲れ切った顔でやってくる。


「どうしたの? 星南せいなんの相手をしていたのでしょう?」

「二の姫さまから逃げてきたわ。鞠遊びをしていたのだけど、動きが激しすぎてついていけない……」


 邸に着いたそうそう劉家の二女に気に入られ、手を引かれるまま庭に連れて行かれた孫恵が、ぐったりした様子で座りこんだ。


「明麗のところへ持っていくという下女から、口実をもらったの」


 抱えてきた桶を差し出した。 


「でも星南は、英世とひとつくらいしか変わらないはずよ」


 冷水で清めた手の水気を拭いながら、記憶の中の甥を頭に描く。李の家を出た春にはまだ、歩くのも危うげな足取りだった。


「あの年頃の成長を侮ってはダメ。一年の差なんて、私たちの十年以上に匹敵するんだから。それに、幼くてもあのおふたりのお子さまよ。基礎が違うわ」


 明麗は手巾を水に浸し、薄ら額に汗を滲ませる孫恵に渡す。礼を言い受け取ったそれを、孫恵は無言で絞り直した。

 遠くから甲高い声が近づいてくる。星南が孫恵を探しているらしい。


「いいわ、わたしが行ってくる。あなたは休んでいて」


 明麗が最後に星南と会ったのは、彼女が歩き始めたばかりのころ。きっとあちらは覚えてもいないだろうか、その成長が楽しみだ。

 夕刻までに大門を潜ればいい。十分に時間はある。明麗は、久しぶりのを満喫することにした。


 暖められていた室内から出ると、きんと冷えた外気が身に沁みる。明麗は大袖衫の衿をかき合わせた。


「そんけえ、どこいったのお」


 少し舌足らずな声を頼りに庭を進む。しかし幼い声を、少女の怒号がかき消した。


「待ちなさい、義侑ぎゆう! 今日こそは逃さないんだから!」


 声の主より先に、少年が明麗の目の前を駆け抜けていく。一瞬合った目が見開かれたが、足を止めることはなかった。


「隠れても無駄よ。おとなしく出てらっしゃい」


 双髻に結った髪を若葉色の組紐で飾った少女が、遅れて到着する。立ち止まり、腰に手をあて周囲を見渡すが、少年の姿はとうに消えている。かわりに明麗をみつけ、慌てて頭を下げた。


「失礼いたしました。ご無沙汰しています、明麗姐さま」

「しばらく会わないうちに大きくなったわね。彩葉さいよう


 劉家の一の姫だ。きりりとした目元が母親によく似ているが、全体的な印象はまだあどけない。


「弟を見ませんでしたか? こちらの方へ来たはずなのですが」

「では、あれはやっぱり義侑だったのね」


 見覚えがある気はしたが、下男のような粗服を着ていたので見逃してしまった少年は、この家の嫡男だったようだ。


「どこへ! どちらへ行きましたか!? また書の練習を抜け出してしまったのです。早く捕まえなくては」


 息巻く彩葉の手には、筆ではなく、身の丈よりはるかに長い矛が握られている。弟を捕らえたら、血の雨を降らせそうな剣幕だ。明麗が素直に答えてよいものかと躊躇していると、半泣きの星南までやってきた。


「ねえさま、足、いたいー」


 星南が、握りしめていた長衣をさらにたくし上げる。姉を追っていて転んだのか、現われたはかまの膝頭には薄く血が染みているのが見えた。


「大変。早く手当てを――」

「それしきの傷で泣くのではありません! わたしたちは武人の家の子なのですよ」


 幼い妹に無理難題を要求する。

 星南の前にしゃがみ込んで土を払ってやっていた明麗は、半ば呆れて口を挟み掛けた。ところが星南は衣から手を放し、反り返るほどに背筋を伸ばす。


「はいっ!」


 しっかりした口調で返事をした。その得意げな頭を彩葉が撫でる。


「よし! では中に入りましょう。傷口を洗わなくてはね」


 右手に矛、左手で星南の手を取り、姉妹は邸へ向かって歩き出す。が、数歩進んで思い出したように振り返った。


「お先に失礼いたします。もし愚弟をみつけたら、殴り倒してでも捕獲していただけると助かります」

「……わかったわ。がんばってみる」


 承諾すると、ふたりは揃って折り目正しく礼をとり、色違いの組紐を揺らしながら戻っていった。


 さて、と明麗は義侑が消えた方角へ足を向ける。主人の性情を反映してか、劉家の庭は野趣に富んでいた。ここで鍛練もされているらしく、幹に的をつけた松などもある。身を潜める場所には困らないが、しょせんは年端もゆかぬ子どもが相手。すぐに発見できると高をくくった。

 ところが、大木の後ろに回り込んだり、茂みをかき分けたりしてみるが、いっこうにみつけられない。塀に囲まれた敷地内から出るはずはないと、注意深く辺りに目を配る。


「おばさん」


 どこかから声が聞こえた気がした。だが、明麗は自分が呼ばれているのだとは思わない。


「おばさん。ねえ、おばさんってば!」


 重ねて呼び声がしたかと思うと、明麗の前に少年が降ってきた。膝をやわらかく使い落下の衝撃を吸収して、難なく着地する。


「呼んでいるんだから、気づいてよ」


 驚いて声も出ない明麗を下から覗きこみ、枝から飛び降りてきた義侑は白い歯をみせた。


「おばさんって、英世の叔母さんだよね?」

「お……ば、さん?」


 固まった顔をどうにか動かし声を発する。


「そっくりだからすぐにわかったよ。最近会ってないけど、あいつ、元気?」


 明麗は答えの代わりに、礼儀知らずの脳天にげんこつを落とそうとした。それをひらりとかわした義侑は、再び逃亡を企てる。


「いきなり、なんだよ!」

「書道の時間に脱走したそうじゃない。そんなことでは、立派な官吏になれないわよ」


 脚に絡まる裾をからげて追いかけながらも、説教を続けた。


「おれ、文官になるつもりないし」

「武官だって、勉強は必要よ。兵法書を読むにも、書は、学ばなければ……」

「武官にもならないよ」


 息も絶え絶えの明麗に対して、余裕で返す義侑との距離はなかなか縮まらない。だが、彼が向かっている先には邸を囲む塀が待ち受ける。


「どういうこと?」


 ついに壁際に追い詰めた明麗は、将軍家の跡取りを問いただした。


「別に、親と同じ仕事でなくてもいいんだろう?」


 賤民では、それ以外の選択肢を与えられない者が大部分を占めるが、義侑は将軍職を賜る剛燕の長男だ。両親の血からいっても、彼は当然武官になるものだと、少なくとも、明麗は決めつけていた。


「それは……そうだけど」

「だよね。だいたいそんなこといったら、父さんなんての子だしさ」

「……え?」


 初耳だ。動揺する明麗に、義侑はくるりと背中を向け壁と対峙する。突然屈むと、立てかけてあった板切れを取り除いた。


「なんでそんなところに」


 唖然とする明麗の目の前で、ぽっかりと現れた半月形の穴に義侑は吸い込まれていく。


「ま、待ちなさい!」


 後宮からの使者として纏った衣裳が汚れるのも構わず地に伏し、とっさに頭に突っこんだ。少年には幾分の余地があった壁穴も、明麗にはさすがに狭い。息を止め、あちこちを擦りながら、なんとか通り抜ける。が、最後に腰が引っかかってしまった。


「引っ張って……」


 穴を隠していた枯れ草を全身にまとわらせる義侑を地面から見上げ、助けを求める。


「無理するなよ、おばさん」


 自分よりも小さな手によって、明麗は無事抜け穴を通過することに成功したのだった。

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