栄華の明暗《4》

 明麗がくぐった穴の先は、邸の裏手だった。


「どこへ行くの?」


 門口とは逆の方向へと歩き出した義侑に詰問する。当然だが、家に帰る気はないらしい。明麗は、髻が崩れて顔にかかる、ほつれた髪を払いながらあとを追う。彼女がついてきていると知ると、義侑は足を速めた。


「どうしてくるんだよ。戻らないとまずいんじゃないの?」

「それはあなたもいっしょじゃない」


 半ば駆け足の義侑に、明麗は必死に食らいつく。


「いつもこんなふうに抜け出しているの? 華月さまたちはご存じなの? ねえ、どこまで行くのよ!」


 人通りの多い道に出ても大声で叫びながら追いかけてくる明麗に根負けしたのか、義侑は渋々歩みを緩める。すかさず、明麗はその衿首を捕まえた。


「さあ、帰るわよ」

「おばさんだけ帰ればいいだろう?」

「子どもを独りにはできないでしょう?」

「子どもじゃない!」

「わたしだって、おばさんじゃないわ!」


 明麗の胸までしか届かない背丈で抵抗する力は、見かけ以上に強い。細い首が短衣の衿で締まり、義侑が苦しげに喉を詰まらせる。明麗は、衿のかわりに衣の背を掴んだ。


「学問を怠けて、遊びに行くつもり?」

「違うよ! 友だちを捜すんだ!」


 首だけで振り返り明麗を睨めつける。その目力は、只事ではないと訴えていた。

 義侑の正面に回り込むと、明麗は腰を屈めて視線を合わせた。


「捜す、ということは、その子がいなくなってしまったのね?」


 口を曲げたまま、義侑は顎を引いて肯定する。


「ちょっと前、そいつの父さんが死んじゃったんだ。ふたり暮らしで、行くところなんかないはずなのに」

「ほかに身内の方は? 親類を頼って永菻から出たということはないの?」


 義侑の友人というならば、まだひとりで生計を立てられる歳ではないはずだ。多少縁は薄くとも、血を頼るよりほかない。しかし義侑はそれを否定した。


「そいつの父さんは流れ者だったんだ。子来しらいは母さんの顔も名前も知らないし」

「でも、人捜しなんて子どもにできるものではないわ。警吏には届けた?」

「流民の子なんて捜してくれやしないよ」


 ここは葆の宮処みやこ。各地から様々な事情を抱えた者が集まってくる。中には、違法な手段で関門を潜り抜けてきた輩も珍しくはない。そのような者たちは、法の保護下から外れてしまう。


「ならば、お父上に相談してみたらどう?」


 彼の父親の立場を考えれば当然だと思われる提案だが、明麗は数多の老若男女が行き交う大路で、十近くも年下の少年に大きなため息をつかれてしまう。挙げ句の果てには、「おばさんって、バカ?」と呆れ顔をされた。


「父さんに言ったら、おれが家を抜け出してるのがわかっちゃうじゃないか」


 明麗の脇をすり抜けて、また歩き始めてしまった。

 目指す場所があるようで、人の波を器用にかわして進む義侑を、明麗は追いかけるだけで精一杯だ。劉家の邸からどんどん離れていくが、小さな背中を見失わないことだけに夢中になっていた。


 どこまできてしまったのだろうか。さすがに様変わりした景色に気づき、来た道を振り返った瞬間、通行人とぶつかりよろめいた。体勢を崩した明麗を、交領を寛げた胸が受け止める。


「失礼……」


 礼を述べようとあげた顔に、酒精の強い呼気が降りかかった。


「おやおや。おまえは、どこの妓女むすめだね? これほどの上玉は話にも聞いたことがない」


 締まりのない口元が、さらに下品に歪められる。身に着けている衣の質から察するに、それなりの家の者だろう。しかし、まだ日の高いうちから赤ら顔で往来をふらついているようでは、程が知れるというもの。

 男は濁った目で明麗を睨め回す。


「ちょうどよい。呑み足りぬと思っていたのだ。おまえの妓楼みせに行ってやろう」


 明麗の頤に手を伸ばしてくる。それを勢いよく弾き返した。小気味良い音が通りに反響する。

 男が、されたことに気づくまで一呼吸かかった。憮然と宙に浮いた己の手と明麗を見比べ、ようやく怒りを顕わにする。


「無礼な! なにをする。この、小娘がっ!」


 明麗の胸ぐらに掴みかかろうとした男との間に、小さな身体が滑り込んだ。


「悪いね、老爺だんな。この人は売りものじゃないんだ」

「今度は小孩ガキか!?」


 義侑を見下ろし鼻を鳴らした男が、いやらしく口角を上げた。細めた目からは、明麗の若い肢体にねっとりと絡みつくような視線を感じる。


「ほう、まだ水揚げ前か……。それはいい。私が最初の客になってやろう」


 見た目以上に懐具合がいい家のどら息子らしく、「楼主に話をつけてやる。さあ、連れて行け」と急かす。


「妓楼? 水揚げ? いったいなにを言っているの?」


 嫌悪を隠すことなく声音にこめるが、それさえも男の嗜虐心を煽る材料となったらしい。


「そうか、そうか。おまえは落ちぶれた家の出なのだな。わけもわからず売られたとは可哀想に。この遊里は私の庭のようなものだ。すべて任せなさい。悪いようにはしない」

「……遊里」


 明麗は眉をひそめ、街並みを見渡した。真昼にもかかわらず、どこか退廃的な雰囲気が漂っているのは、そのせいなのか。

 勝手な身の上話を創り上げ、でっぷりと丸い腹を突き出す男の袖を、うんざりとした顔の義侑が引く。


「おじさん。この人はやめておきなよ」

「は? 金の心配ならいらぬぞ」

「そうじゃなくて」


 義侑は屈むように手振りで示し、訝しげな男の耳に何事かをささやいた。とたん男は、瞬く間に血の気が引いた顔ののる首を両手で覆う。


「宰相家の公子わかさまが御執心の娘なんぞ、先に手をつけてみろ。どのような仕打ちを喰らうかわかったものではない。こちらの首が危ういわ」


 吐き捨てるように言い、短い首を庇いながらようやく立ち去った。

 義侑は迷いのない足取りで、色街を男とは逆の方向へと進んで行く。日が暮れれば、軒下に無数に提げられた釣り灯籠に火が灯り、一帯はさらに淫靡な香りを漂わせるのだろう。ふと顔を上に向けると、二階の窓からこちらを眺めている視線と合う。紅の剥げた女の口が緩やかに弧を描く。大きく開けた胸元からのぞく肌の白さが地上からでもはっきりとわかり、思わず明麗は目を逸らした。


「まさか、あなたが妓楼に出入りしているわけではないわよね。剛燕さまの母君が妓女だと言っていたことに関係があるの?」


 先を行く義侑に並び、たたみかける。


「おばさん、知らなかったんだ。この街で男の赤子は要らないんだって。だから父さんは、産まれてすぐ雑技を生業にする一団に売られたって言ってた」

「そんな……。父親がいるはずじゃない」


 足を止めた義侑は、また呆れたような眼差しを明麗に向け、その目線を上方へ移す。


「おばさん。ここをどこだと思ってるの?」


 視線の先には『玉華楼』の金文字。凜とした品を保ちながらも艶めかしさを秘めた筆致が、この店のを如実に物語っていた。 

 義侑は招牌かんばんが掲げられた正門を通らず、脇に回り慣れた様子で木戸を叩く。すぐに戸が開かれ、体格のいい男がのそりと顔を出した。


「おう、劉のぼんか」

「雪晏姐さんは?」


 覚えのある名が義侑の口から出たことに驚き、明麗が目を見開く。


「ああ、上にいるはずだが……。おまえさん、とうとう女衒までするようになったのかい?」


 妓楼に勤める男衆なのだろう。義侑の後ろにいる明麗の頭の天辺から爪先まで、値踏みするように視線を這わせる。


「だから、この人は売りものじゃないんだって」


 言い捨てながら、義侑は妓楼の奥へとあがってしまう。明麗は場所が場所だけに、一瞬躊躇してみせたが、腹をくくって続いた。

 いくつもの房をつなぐ廊を幾度も曲がり、階を上り降りする。昼になってもなお燻る甘い香りは、昨夜の饗宴の名残か。


「姐さん、いる?」


 中からの応えも待たずに、義侑がひとつの戸を開け放つ。だがなぜか、白粉の匂いがする室内に足を踏み入れようとしない。


「お客さんだったんだ」


 妓女の房に客がいる。それ自体はなんらおかしくもない状況だが、明麗は慌てて少年の両目を背後から手で塞いだ。


「ご、ごめんなさいっ!」


 自分も目を瞑り、義侑ごと踵を返そうとする。その背後でからからとした笑い声が響いた。


「かまいませんよ、お子さまに見せちゃいけないようなことはしていませんから。どうぞお入りを」


 恐る恐る瞼をあげると、きちんと襦裙を身につけた笑顔の女と、くたびれた深衣の後ろ姿が目に入る。安堵して力の抜けた明麗の手から逃れ、義侑が女に駆け寄っていく。


「雪晏! 子来はみつかった!?」


 膝を詰めた義侑はすがるような目を向けるが、答えは雪晏の曇った表情から容易に察しがついた。


「出入りする小間物屋や顔の広いお馴染みさんなんかにもそれとなくあたってみたのだけれど、この辺りの妓楼にそれらしい女の子はいないって言われたわ」

「ちゃんと聞いてくれた? 子来は小さいときにした病気のせいで耳が悪いって」

「もちろんよ。だから言葉も不自由なのよね。そんな特徴のある娘なら、みんな覚えているはずだもの」


 売られたにしろ、自らの意思にしろ、身寄りを亡くした少女が辿る道など限られている。それをよく知っているからこそ、外に出ることさえままならない彼女にできる、精一杯を尽くしてくれたはずだ。それを理解していてもなお、義侑は諦めきれずにいた。


「じゃあ、どこにいるんだよ!」


 年相応の子どもらしい癇癪を起こされようが、これ以上自分には手の打ちようがないと、雪晏が見せた弱り顔にさえ華がある。以前文徳が記していた名から感じたとおり、白い肌の女性らしい曲線を帯びた肢体は匂い立つようだ。ところが明麗には、文徳の文字と目の前にいる女の印象が微妙に一致しない。彼の腕をもってしても、彼女の魅力を表しきれなかったのだろうかと不審に感じた。


「おじさん! 昼間っから妓楼なんかにいるんだから、なにか知らない?」

「えっ? 僕!?」


 突然、見ず知らずの子どもに話をふられ、素っ頓狂な声を出した男の手から、はらはらと紙片が舞った。手のひらに収まる大きさの紙が床に散らばる。そこにある文字は正に雪晏の名前。その鮮やかな手蹟と気の抜けた声の主を、明麗には間違えようがなかった。


「もしかして文徳なの!?」


 雪晏に気を取られ、よれた衣の背中に気づくのが遅れたことを悔やむ。

 紙片を拾う手を止め顔をあげた文徳は、高速で目をしばたたかせた。


「明麗? なんでこんな場所に?」

「わたしが訊きたいわ。ここでなにをしているの?」

「なにって……」


 詰め寄られて口ごもる文徳の横から、雪晏が口を挟む。


「かわいらしい姑娘おじょうさん。妓楼がをするところかご存じで?」


 ここがどこかを考えれば、あきらかに明麗や義侑のほうが場違いである。薄く紅を刷いたくちびるの両端をあげ艶然と笑む姿は、以前明麗が見た『雪晏』そのもの。それほどの年の差があるとは思えない彼女から醸される色香に気圧されそうになり、明麗はささやかな胸を反らす。


「もちろん知っているわ。食事をして、お酒を呑んで。舞や楽を愉しんだり、詩を詠みあったりするのよね」

「それから?」


 どこか楽しげに、雪晏は問いを重ねてくる。明麗は、ちらりと文徳を横目で見てから表情を消す。


「殿方が、あなたたちのような女人とまじ……」

「これです! これを届けに来ただけですから!」 


 文徳が叫びながら、先ほど散らばった紙片の一枚を、明麗の眼前に突き出した。

 よく目をこらせば、淡い青色の紙に記されている雪晏の名は刷られたものだ。伸び伸びとした文徳の筆遣いが、細部まで巧みに再現されている。墨色のはずの文字が、紙の地色もあいまって、明麗には羽を広げる白鷺のようにみえた。

 

「わたくしはこの前の続きをしてもかまわないのだけど? のお代は頂戴しているし」

「ちょっ……!? 小さい子もいる前でなにを言うんですか!」 

「だって本当に心配したのよ。頭を打って気を失ってから、朝まで目を覚まさないのだもの」


 雪晏が拗ねて口を尖らせると、それまでの艶めいた雰囲気が一変する。


「あのときはお酒が入っていたせいもあっ……て、だからあんなに高かったんだ!」

公子わかさまがそれでかまわないって。あの夜は実入りのいいお座敷だったわ」


 ころころと屈託なく笑う。これもまた、紛れもない『雪晏』だった。

 妓女としての矜持や憂いをまとう、妖艶な見目形を写しただけでは物足りない。文徳は、苦界に身を置きながらも失われることのない娘らしい溌剌とした生気を、一羽の鳥に見立てた文字へとこめた。明麗よりはるかに狭い夜の世界で生きる雪晏に白い翼を与え、青く澄んだ大空に解き放ったのだ。


「……文徳は、この人の馴染客なの?」


 どういう形であれ、ふたりが一夜を過ごしたらしいことはいまの会話からわかった。妓女と客。明麗が咎めたてる点はどこにもない。それなのに、なぜか釈然としない気持ちが胸に広がる。


「違う、違う。彼女が僕のお客さんなんですよ」


 文徳は明麗が受け取った一枚を除いた紙片をまとめ、四隅を揃えて雪晏に手渡す。その紙束を、雪晏は大事そうに朱漆の小箱に収めた。


「華名刺なんて、良家の姑娘はご存じありませんよね」


 明麗の手の中から華名刺を抜き去り、雪と晏の間に自身のくちびるをあてる。花びらのような形の紅がついたそれを、義侑に差し出した。


「将来のご贔屓さまへ。お父さまより先に渡したことは内証ね」

「こんな紙きれ、なんに使えるのさ?」

「絵姿みたいのものよ。『いつでもあなたさまのお傍に居とうございます』ってね」


 たしかにこの文字をみれば、雪晏の姿が目裏に鮮やかによみがえることだろう。しかし、妓女が特別な客にのみ渡すという小さな紙を矯めつ眇めつしてみる義侑には、その意味がわからない。


「林さんに華名刺を頼んだ妓女は良い身請け先を得られるって、この界隈ではちょっとした評判なんですよ。わたくしもずいぶん待たされました」

「そんな根も葉もない噂をたてられるから、忙しくなったんじゃないですか。それに近頃は、引き受けてくれる彫師がなかなか捕まらなくって」 


 理由は明麗にも推測がつく。版木に文徳の手蹟を忠実に彫るのはだろう。彼の書く文字の素晴らしさがわかる者ほど、躊躇するに違いない。


「こんな字に頼らなくたって、おれがここから出してやる」


 義侑の手の中で、華名刺が握り潰された。


「では、坊が自分の稼ぎでこの玉華楼みせに登楼できるようになるまで頑張らなくてはね。あとニ十年はかかるかしら」


 雪晏は義侑のおでこを人差し指で小突くと、丸められた紙同様に顔をくしゃりと歪める。義侑は額をごしごしと手の甲で拭い、立ちあがった。


「子来を捜しに行く」

「あてはあるの? やはりあなたには無理よ」


 俯き拳を作る義侑に明麗が尋ねる。この永菻にいる数え切れぬほどの民の中から、たったひとりの少女を捜し出すなど気の遠くなる話だ。


「絶対にみつけるんだ! もう一度、西下を廻ってみる」

「西下って……。あ、お待ちなさい!」


 引き留めようとした明麗の手は間に合わず、義侑は房から飛び出していく。それを追おうとした明麗を、文徳が制した。


「君まで行くつもりですか? 止めたほうがいい」

「そうですよ。あなたのような姑娘なんて、あっという間に身ぐるみを剥がされるだけではすみません」


 花街とはいえ貴族や高官も訪れる高級妓楼が建ち並ぶこの辺りは、比較的治安が保たれているほうだ。一方西下には、賑わう宮処の闇が凝ったような貧民窟も存在していた。世間知らずの明麗がひとり歩きできるような場所ではない。ふたりは口を揃えて反対する。


「なおさら、あの子を独りにはできないわ」


 外衣を肩から滑り落として立ち上がり、腰帯を解きはじめた。


「いきなりなにを!?」


 慌てて身体ごと顔を背けた文徳へ片手を伸ばす。


「あなたの衣と交換してちょうだい」


 足元で円を描いた帯をまたぎ、文徳の綻びがある衿を背後から引っ張った。


「はっ? そんな、無理ですよ。――雪晏さん! なんとかしてください」


 身を縮め必死に抵抗する文徳に助けを求められ、明麗の突拍子もない行動を眺めていた雪晏が、眦に浮かんだ笑い涙を袖口で拭う。肩をすくめると床に広がる外衣を拾い、明麗に羽織らせた。


「そんなことをしては、林さんが帰れなくなってしまいますよ? うちはお泊まりいただいてもかまいませんが」

「それは……いけないわね」


 衿を合わせて握りしめる。一瞬伏せた睫毛をあげた明麗は、頭から釵を抜く。かろうじて形を保っていた髻がほどけ、滝のように流れ落ちた黒髪が背を覆う。白玉のついた銀釵を、雪晏の手に握らせた。


「急いで動きやすい衣を用立てることはできる? それから、子来という娘のことを知っている限り教えて」


 親指の頭ほどもある一粒の白玉を前にして、雪晏は苦笑する。


「金子と人の使い方は、さすがと申し上げましょうか」

「どういう意味?」

「いえ。すぐにご用意できると思いますわ」



 その言葉どおり、使用感はあるが洗濯された男物の衣装を一組、雪晏が揃えて戻ってきた。

 表に文徳を放り出し、雪晏の手を借りながら着替える。満足に紐も結べない明麗は、幾度も「本当に行くのか」と心配された。


「男の成りをしていれば大丈夫よ。それに、文徳に案内してもらうことになったから」


 自信満々な様子に、櫛を持つ雪晏は曖昧な微笑を浮かべる。小柄な下男の物でもやや袖が余る粗衣に身を包んだところで、化粧を落としてなお白い滑らかな肌のかんばせまでは隠せない。凹凸の乏しい身体が百歩譲って少年に見えたとしても、それはそれで別の輩を惹き付けそうだ。

 しかし明麗は、鏡の中の自分に肯く。


「昔の兄さまみたい!」


 無邪気にはしゃぐが、雪晏はますます複雑に笑みを深めた。

 

「……ねえ。義侑のお祖母さまが妓女だったと聞いたのだけれど、本当のこと?」


 明麗の豊かな髪を丁寧に梳く雪晏に、鏡越しに問いかける。


「さあ。ずいぶんと昔の話でしょうし、わたくしにはわかりかねます」


 柔和な表情とは裏腹に、天下の玉華楼の妓女の口は固い。するりとかわされてしまう。明麗は、雪晏に与えられている私房だという室内をぐるりと見回した。品の良い設えは、夜な夜な艶事が繰り広げられる妓楼の中とは思えない。ただ、奥の間にまとめられた寝具の深紅が目に痛い。


「妓楼でも子が産まれるのね」

「さほど珍しいことではありませんよ。どんなに気をつけていても、できるときはできてしまう。天は気まぐれですから」

「やはり天意には逆らえないのかしら」


 いくら明麗が、後宮の書庫をあさってみつけた様々な『求子法』を皇后へ進言したところで、けっきょくは天の采配に従うよりほかないのか。

 長い髪がひとつに結われ、髻が巾で覆われる。その頭を振り、後ろ向きになりかけた思考を追いやった。


「むしろ、天がきちんと地上をご覧になっているなら、間違えるはずはないわ」


 両手で頬を叩いて気持ちを入れ替えた。明麗がきりっと眦をあげると、雪晏からくすりと笑いがもれる。


「本当によく似ていらっしゃること」


 呟きは極小さく、明麗の耳まで届くことはなかった。


「天命に背くといえば、西下に変わり者の薬屋がおりましてね」

「薬屋?」

「なんでも不老長寿の秘薬作りに入れ込んでいるそうで、店には怪しげな薬材が山ほどあるとか。そこのお婆の薬はよく効くのですが、なにが使われているかわからないという、なかなかに恐ろしい代物なんですよ」


 いったいどんな材料を使用しているのだろうか。雪晏はぶるりと肩を震わせた。

 明麗の仕度が済むのを見計らったように、小さな足音が近づいてきて、扉の前で止まった。


「雪晏姐さん、軒車くるまの用意ができました」


 外から少女の高い声が知らせてくれる。


「ありがとう。いま、お客さまをお連れするわ」


 返事を聞き、軽い足音が遠ざかっていく。


「足まで用意してくれたのね」

「いいですか。無茶はなさらず、日の高いうちにお帰りくださいね」

「もちろんよ。義侑を捕まえたら、すぐに戻るわ」

「決して林さんから離れてはいけませんよ」


 初めての男装で浮かれる明麗に、雪晏は不安を募らせる。そんな彼女の心配顔をよそに、明麗は勢いよく戸を開け放った。

 廊の冷たい床に座りこんでいた文徳が振り仰ぐ。


「本当に行く気なんですねえ……」


 進まぬ気持ちを少しでも軽くするかのように深く息を吐き出し、おもむろに重たい腰をあげた。

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