糾明の糸口《1》

 西下の入口で停めた軒車くるまから降り立つと、足元で砂埃が舞い上がる。軽くなった車輪を弾ませて去っていく車体を、明麗は袖で鼻と口を覆って見送った。


「まずは警吏の詰所ね」


 南門から続く大路に沿って、目的の場所を探す。花街に比べると、ひしめくように建つ家屋や立ち働く人々が身にまとう衣などの色目こそ乏しいが、辺りに漂う香ばしい匂いや止むことのない喧騒からは、活気に溢れた民の暮らしが感じられる。湯気をのぼらせる鍋と呼び込みに誘われ、ふらふらと屋台に引き寄せられそうになった明麗の袖が摘ままれた。


「逆ですよ。ほら、あそこ」


 大路と交差し、西に延びた通り沿いに連なる軒の奥を、文徳が示す。その人差し指の先に、ほかとは様相の異なる堅牢な門構えが見えた。


「わかってるわ!」


 未知の味覚に後ろ髪を引かれつつ、勇ましく歩を進めて訪いを告げた。


「なんだい、あんたら」


 官が主体となり市井の治安を守るために作られた機関とはいえ、その末端を担う者の多くは民である。ほんの少しだけ特権を与えられた彼らは、やたらと顔のきれいな男装の少女と薄ぼんやりした書生風の青年を、横柄な態度で胡散臭げに眺めた。


「人を捜しているの……です。七つくらいの子どもをふたり」


 すっかり少年になりきっているつもりでいる明麗が、可憐な唇から努めて低い声を出そうとするものだから、ますます不審な目を向けられてしまう。


「ひとりはしゅう子来という名の女の子。耳が悪いから、自分の名を言えないかも。もうひとりの男の子は――背がこのくらいで、すばしっこくて猿みたいな……んだ」


 車中で、文徳には経緯いきさつと少年の正体を説明していたが、ここで劉姓を出すのは躊躇われ、胸の辺りで手のひらをかざす。明麗の声は言い募るうちに地に戻ってしまい、語尾だけをどうにか取り繕った。

 男臭い詰所で脚を組んで腰掛ける警吏は、耳の穴をほじった小指の先を明麗の顔の正面に掲げ、これみよがしに息を吹きかける。その息の生臭さに眉をひそめると、男は下卑た笑いを浮かべた。


「この永菻に、そんな孩子ガキどもが何百何千いると思ってんだ?」

「だからこうして尋ねているんじゃない。それがあなたたちの仕事でしょう!?」

「あいにく、嬢ちゃんらと隠れん坊している暇はないんでね」


 カラン、と骰子さいころの音と笑い声の横やりが入る。


「わたしは真面目な話を――」

「さあさあ、早くおうちに帰んな」


 衣装を換えただけでこうまでも侮られ、まともに取り合ってもらえない現実に、明麗は懐に入れた玉を衣の上から探った。しかし、本来なら自分はこの場にいてはならない人間だ。己の身分を明かせば、皇后はもとより各所に迷惑がかかってしまう。

 逡巡している脇から文徳の手がのび、数枚の銅銭が卓子に置かれた。


「もしこの辺りでそれらしい子どもをみかけたら、家の者が心配しているから早く帰るように伝えてください。それと、二、三か月の間に引き取り手のない女児の遺体がみつかったことはありませんでしたか?」


 明麗が息を呑む。しかし文徳の面持ちは、落とした手巾の行方を尋ねるかのようだった。


「さて、どうだったかね」


 警吏は卓上の銅銭を玩ぶ。足元を見ているのは歴然だ。

 佩玉以外の全てを玉華楼に預けてきてしまった明麗が、文徳の横顔に目を向ける。痛いほどの視線に堪えかねた文徳は、ため息を床に落としながら錦の小袋の紐を解いたのだった。



 くるくると回される巾着が、往来に甘い香りを振りまく。


「ごめんなさい。それ、華名刺の報酬だったのでしょう?」


 中身を空にした代わりに手に入った情報は、たいしたものではなかった。


「とりあえず、その女の子がまだ生きている可能性があるとわかっただけで良しとしましょうよ」


 銀子と引き換えに見せてもらった帳簿に、秋子来と同じ年頃の女児の身元不明死体は記載されておらず、一安心はできた。だがそれで、彼女の身の安全が確認されたわけではない。最悪、人知れずどこかに埋められている場合もあり得る。


「もうこの街にはいないのかしら。それとも、だれかに閉じこめられているとか。――でも、なんのために?」


 思案しながら義侑を捜してそぞろ歩く。その後ろで文徳が巾着を懐に収めた。


「……その子、文字は書けたのかな」

「なに?」


 立ち止まってしまった文徳を振り返る。彼は、はっとしたように顔をあげると、すぐに明麗と並んだ。


「耳と口が不自由なら、読み書きができたほうが都合がいいだろうと思って」

「そうね。でも……」


 明麗は街並みを見回した。文字の国の宮処だけあって、至るところに看字があふれている。屋号、扱う品々、謳い文句。なかには、目を奪われるほどの達筆も見受けられた。しかし、道行く人の何割がそれを正確にいるのだろうか。子来の父親が流民だったことを考えると、彼女の識字能力も期待できない。


「あれはどういう意味?」


 文字を読めない者への配慮か、招牌かんばん以外にも軒先に目印となる物を掲げている建物がある。ふと小路を覗いた明麗は、そこにある小屋のような一軒を物珍しげに指差した。


「ああ、蛙ですね。薬屋かな」

「なにかのまじないかと思ったわ」


 後ろ脚を括られ、閉じた扉の傍らに吊り下げられている干乾びた物体に近づく。紙のように薄く熨され、微風にはためいていた。


「おぬしに蟾蜍センジョは必要なさそうだが?」


 蛙へ伸ばそうとしていた明麗の手が、びくりと揺れて止まる。


「べ、別に盗ろうとしていたのではないのよ」


 咎めるような声音に慌てて腕をおろす。蝦蟇ガマ疔瘡はれものや強心に効くというが、今のところ明麗には不要の薬だ。釈明するために声の主を捜すと、細く開いた薬屋の戸の隙間から老婆がこちらを窺っていた。その背後から、煎じ薬独特の匂いがもれてくる。明麗の脳裏に、雪晏から聞いた変わり者がいる薬屋の話が浮かぶ。

 興味を惹かれ首を伸ばした明麗の視界を老婆が遮った。


「冷やかしはお断りだよ」

「ちょっと待って!」


 閉められそうになる戸に手をかけた。


「あなたは薬師なの?」

「まあ、そんなもんだがね」

「では、子を授かれる薬を作れる?」


 白髪の混じる眉を片方跳ね上げた老婆は、ふんと鼻を鳴らして明麗の右手を戸から引き剥がす。その腕をとると無遠慮に袖をまくりあげ、肌の色艶、脈や爪の状態を確かめる。注がれる真剣な眼差しに気圧され、明麗は抵抗はおろか理由を問うこともできない。さらには下瞼をぐいっと下げられ、舌を見せろとの要求にまで従ってからようやく解放された。


「惚れ惚れするほど健やかなあんたが原因ではなさそうじゃ。となれば、そっちの旦那か? ほれ、さっさと手を出さんか」

「違います、違います。僕は違います!」


 文徳が両手を背中に隠して後退る。


「なに、やはり客ではないのかい」

「待って! こ……主家にお子が産まれないの」

「明麗、時間が……」

 

 日の位置を確認した文徳の忠告を無視し、明麗は不機嫌に口を曲げ向けられた老婆の背を追いって薄暗い店内へと飛び込んだ。

 仕切りのない一間は、店舗と住居を兼ねているらしい。壁の一面には無数の抽斗がある巨大な薬箪笥が据えられ、そこに入りきらない薬種は壺や瓶に詰められて、棚や床、所構わず無造作に置かれている。梁からは乾燥させた草木などが吊り下がり、蛇や蜥蜴の干物が虚ろ目で客を出迎えた。


「お願い、教えて。授かっても流れてしまうのを防ぐ方法はないの!?」

「子胤がないわけでないならば、胎を替えればよい」

「そんな! 乱暴だわ。おふたりはとても仲睦まじくていらっしゃるのに」


 国のためだけを考えたらそうするのが妥当だと、明麗にはもう言えない。火鉢にかけた薬缶の蓋を開けて確認する老婆に詰め寄る。

 それをちらりと見上げただけで老婆は視線を移し、青い主張を嘲笑うように口の片端を歪めた。


「子を成すだけなら、心よりも身体の相性のほうが肝心。土や水が変われば、育つ作物も異なる。凍えた地に南国の花が咲かぬのと同じ道理じゃ」


 明麗の耳には「この国が異国の血を拒んでいる」との意に聞こえる。粗末な机で老婆が薬種を薬研で挽く、ごりごりと心を押しつぶすような音が響いた。


「夏に、庭の草むしりをしたんです」


 薬箪笥の抽斗に表示された文字を眺めていた文徳が、唐突に口を挟んだ。


「忙しくてつい春からほったらかしていたら、見慣れない草が大繁殖していて。これがまた、根が深くて苦労しました。季節風か渡り鳥が、種子を運んできたのかもしれませんねえ」


 遠志オンジ何首烏カシュウ土茯苓ドブクリョウ。お世辞にも達筆とは言い難い文字を指で辿り、生薬の名を詠みあげる。


「皇城の御薬園でもたくさんの薬草が栽培されているそうですけど、永菻に自生していたものばかりじゃないはずです」


 遠国から種子や株で運ばれ、根付いたものも多いだろう。なかには、試行錯誤の末にようやく、という種類もあるはずだ。文徳の言葉に、知らず力が入っていた明麗の眉間がゆるむ。


蓮夏れんげ帝の御代には、温泉熱を利用して一年中花の咲き乱れる温室が造られたそうよ。荒れ地だって、丹念に耕して肥をやり手をかければ実を結ぶ。ならばっ!」

「天からの授かりものである子も、人智でいかようにもできると?」


 老婆は顔のシワに目を埋め、曲がった腰を反らせて呵々と笑う。


「小娘のくせに、天意に逆らう気概があるとはおもしろい! このおうが知恵を貸してやろう。まずはその夫婦を連れておいで」


 たとえ同じ症状でも原因まで同一とは限らない。薬には個々に合わせた微妙な調合が必要なのだ。

 喜びも束の間、どだい叶えられない無理難題に、明麗は表情を曇らせた。


「それは……できないわ」

「わけありとは面倒だね。まあ、いいだろう。当たり障りのないところから始めてみようか」


 何央は節くれ立った右手を明麗に突き出し、当然とばかりに前金を催促する。文徳を振り返るが、すでに彼の懐は空だった。こんなに金が必要になると知っていたら、装飾品を置いてきたりはしなかったと後悔しても遅い。潔く明麗は頭を下げた。


「ごめんなさい、いまは手持ちがなくて。でも、あとで必ず届けます!」

「一見の、どこのだれかもわからないような輩の言うことなんぞ、あてにできん」

「わたしたちは怪しい者ではないわ」

「皆そう言うだろうよ。だいたい、若い娘がそんな成りで――あんた、年はいくつだね?」


 とりつく島のなかった老婆の瞳が光った。

 ことごとく男装を見破られ、とうの昔に性別を偽ることを諦めていた明麗は、口を尖らせて応える。


「十六だけど」

「ふん。思ったよりが立っているが、しかたがない。相談料は、あんたの髪と爪で手を打とう」

「え?」


 意外な求めに戸惑い己の爪に目を落とすが、こぶしを握り意を決する。


「わかったわ。だから――」

「ダメです! そんなの、なにに使われるかわかったもんじゃない」

「でも文徳は以前、呪符なんて気休めだって言ったわ」

「それは文字の話。だいいち爪とか髪とか、なんだか気持ち悪いじゃないですか!?」


 苦虫を噛み潰したように顔を歪めて、文徳は首を縮めた。

 たとえ抜けた髪の毛や切った爪でも、身体の一部とみなされる。古くから呪詛に用いられることもあり、貴人はその処分にも気を遣う。皇籍にあるものなどはより厳重に扱われ、保管する専用の箱があるくらいだ。


まじないなんぞするものか。ちょいと、その若さと美しさを分けてもらうだけじゃ」


 にぃと不気味に口角を上げた何央から思わず視線を背けると、記載のない壺や瓶の中身が無性に気になってくる。老婆が自分の爪や髪を煎じて飲む姿を想像し、さすがに明麗の背中にも悪寒が走った。

 しかし皇宮の太医と違い、数多の妓女も診てきた女性薬師の助言は得難い。


「では、彼が貼り紙を書くというのはどう? 蛙の干物を掲げているより、ずっと集客が見込めると思うわ」

「そんな無茶を! 飲んだこともない薬の宣伝文句なんて書けませんよ」


 師の腕を代価にしようとする教え子に、文徳が抗議の声をあげる。臭い、苦い、不味い。ここに入ったときの印象だけをそのまま看字にすれば、逆効果になりかねない。

 提案された何央も、胡乱げな眼差しをふたりに注いで、ふいと横を向いてしまった。


「あいにく儂の薬は、文字なんぞに頼る必要はないんでね。お代を払うつもりがないなら、出ていっとくれ!」


 言い捨てると再び薬材を挽きだす。


「どうして!? 文徳の文字はほかとは違うのよ!」


 室内に響く音に負けじと明麗も声を張るが、何央は聞く耳を持たないようだ。殊更に薬研を鳴らす。


「明麗、今日のところは諦めましょう」

「だって、また来ることなんか――きゃあ!」


 押し問答を続ける明麗たちの足元に、煮詰まった煎じ薬がぶちまけられる。すんでのところで避けた、湯気とともに床に広がった木の葉や根らしきものなかには、まだ形の残る幼虫も見受けられた。


「なにをするの? 危ないじゃない」


 憤然とそれらを乗り越えて老婆に詰め寄ろうとした明麗の前に、文徳が割って入る。その足の裏が、やわらかく煮込まれた虫を踏み潰した。


「……いいかげんにしないと、閉門の刻限に間に合わなくなりますよ」


 しかめた顔を一瞬足元に向けてから、本来の目的を忘れそうになっている明麗に釘を刺す。最優先させるべきは、何事もなかったように明麗が後宮に戻ることだ。

 文徳に肩を押され、有無を言わせずくるりと方向を反転させられた明麗は、そのまま店の外へと押し出されてしまった。

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