糾明の糸口《2》
不満を残しつつも、明麗は背中を押されながら広い通りに戻り、また義侑を捜して歩く。似た年頃の子どもはたびたび目にするが、だれもが忙しそうだ。話しかけて足を止めさせることを柄にもなく遠慮しているうちに、小走りで去って行ってしまう。中には身の丈にあまる荷物を、懸命に運んでいる幼子もいた。
「あのくらいになると男も女も関係なく、もう立派な労働力ですからね。家の手伝いや子守り、親元を離れて奉公に出る子もいます」
明麗の心中を察したように、文徳が庶人の暮らしを説明する。話すそばから、赤子を背負った少女とすれ違った。
「文徳も?」
泣き止まない弟に自分まで泣きそうな顔をした少女を、明麗は目だけで見送りながら問う。
「もちろん。あんなふうに妹や弟の子守りもしたし、畑で重たい鍬をふるって、よく
いまはその代わりに、爪の隙間を墨で黒くした両手のひらを広げてみせる。一方で明麗の桜貝のような爪は、孫恵の手により艶が出るまで磨かれていた。
「わたしは読み書きの学問三昧。琴や裁縫道具を放りだして、書庫に立てこもっていたわね」
「それはうらやましい。李家の蔵書なら、お宝がたくさんありそうです」
興味津々の文徳に、これまで書の手本代わりに繙いてきた名著を挙げると、ますます目を輝かせる。門外不出の家宝でもある、四書聖のうちのひとり、
「今度、父に頼んでみたら?」
面識のある博全でも大丈夫だろうが、どうやら借りがあるうえに、なぜか心証が悪いらしい。文徳の書の実力は、すでに菊宴で証明済みだ。その場に居合わせた宜珀なら否とは言うまい。
「李宰相に直接!? できるわけないじゃないですか」
「なぜ? あんな父だけど、有望な若者への支援を惜しむような人ではないわ。邸には兄の学友の出入りが頻繁にあったし、あなたのように戦乱で家を亡くした少年を預かって、採試に合格するまで面倒をみたりしていたのよ」
兄たちが勉学に励むようすを陰から羨望の眼差しでうかがい、時に乱入しては博全に追い払われたものだ。
「けど僕は、ただの文官だし……」
「ただのではないわ。文徳は、わたしの生涯で一番の能書家よ」
「まだ十六年じゃないですか」
たった十六年間かもしれない。だが目にした書の数は、決して少なくはないとの自負はある。それでなくとも彼の書く文字が、どれほどすばらしく、人々を――自分を惹きつけて止まないか。
どんなに明麗が力説しても、文徳は困ったように頭をかき、「ははは」と笑って取り合わない。
「これから君は多くの人と出逢い、もっともっとたくさんの書を見るはず。一等を決めるのは、それからでも遅くないでしょう?」
「……そんなことない!」
立ち止まった明麗に気づかず、とぼとぼと先を歩く丸められた背中に反論をぶつける。
文徳のみならず、道行く人々が振り向いた。
「この先もきっと、あなた以上の人は現れない」
何度も瞬いたあと、思いついたように文徳は衣のあちこちをパタパタと叩く。
「そんなに持ち上げても、埃しか出ませんよ? ほら、このとおり」
呆気にとられる明麗の前で、広げた両腕を上下左右に振ると、それぞれの袖口から銅銭が一枚ずつ転がり落ちた。文徳はその小銭を拾い、気まずげに苦笑する。
「おなかが空きましたね。なにか食べましょうか」
明麗の返事を待たずに文徳は焼餅の屋台へ立ち寄り、なけなしの銭と引き換えにひとつ手に入れて、若干顔を赤らめながら戻ってきた。まだ熱い焼餅を危なっかしい手つきで割る。あきらかに形の違うふたつを見比べてから、大きい右側を明麗に渡した。
「すみません。こんなものしか買えなくて」
歩き食いも具のない焼餅も初めてだ。湯気の出る断面を凝視する明麗を横目に、文徳は数口で食べ終わってしまう。見事な食べっぷりに感心して、明麗は口を付けあぐねていた焼餅を差し出す。
「足りないなら、これもどうぞ」
「やっぱり、君の口には合わなかったかな?」
「そうではないわ! ありがとう、いただきます」
文徳の残念そうな声に、大口を開けてかぶりつく。生地に混ぜ込まれた胡麻の香ばしさと仄かな塩気が、素朴な味のなかで際立っていた。
人目を気にしながらもほくほく顔で焼餅を食べ続ける明麗の代わりに、文徳が周囲に目を配る。しかし義侑も、秋子来らしき少女もみつからなかった。
「女の子の消息は気になるけど、劉将軍のご子息は心配いらないんじゃないかな」
食べかすの付いた指先の扱いに悩む明麗の耳に、吞気な意見が入ってきた。前身頃で両手をこすりつけるように拭ってから、文徳の袖を引っ張る。
「どういうこと?」
「玉華楼でのようすからしても、彼はよく街歩きをしているみたいだし。少なくとも、明麗よりこの街を知っていると思うんですよね」
文徳は気遣わし気に中天を過ぎている日を見上げた。帰路を考えると、あまり多くの時は残されていない。日が傾き始めれば、義侑も自ずから劉邸に戻るだろうと楽観する。
だが文徳が、西下でも人通りのある比較的安全な場所を選んで案内してきたことは、明麗にも
わかっていた。経緯からして、そのような場所にふたりがいるとは思えない。
「もう少し。ぎりぎりまで捜させて」
より注意深く街中を見回しながら進む。家と家との間にできる、吹き溜まりのような隘路も、その都度覗いてみた。通りを右に左に駆け回り、どんどん南へ下っていく。
「明麗、これより先はもう……」
治安にも、時間的にも限界が近づいていた。
疲労と落胆の大きなため息をつき、最後にもう一度だけ明麗は周囲を見渡した。
「あれは……孟志範さま?」
脇道に入っていく人影を見留めてつぶやく。
「知り合い?」
「たぶん。さっき話したでしょう。父が面倒をみていた書生なの。いまは仕官して、官舎に住んでいるはずなのだけれど。もしかしたら、この辺りに詳しいのかもしれないわ!」
期待と好奇心で頭がいっぱいになった明麗は、彼が消えた裏通りへと歩き出す。通りをひとつ折れただけで、埃っぽい胡散臭さがいや増した。
「見間違いということはないんですか」
「ついこの間も皇城で会ったばかりよ。太医署を訪ねたときだわ。道に迷って、地図を書いてもらったの」
「太医署へ? ああ、その日は僕とも会いましたよね。そういえば――」
話を続けながらついてくる文徳をよそに、明麗の歩みは徐々に早まる。
追いついたかと思うと、志範らしき人影は角を曲がってしまう。それを何回も繰り返し、東西南北の感覚が危うくなってきたころになってようやく、幾本もの小路を抜けた先に建つ屋敷へ入っていく孟志範の背中を捉えた。
一見すると何者かの住まいのようだが、入口の脇に招牌らしき板が掲げられている。明麗たちは足を止めて乱れた息を整えつつ、遠目にその文字を確認した。
「
「そのようですね。こんな場所にあったのかあ。あれじゃあ、営業しているのかわからないよ」
同じく目を細め眺めていた文徳が、古ぼけた板切れに書かれた、やる気のなさを感じるかすれた文字へ悪態をつく。この寂れた紙舖の存在を知っていたかのような口ぶりである。
下町の入り組んだ路地裏に紙舖があるとは意外だ。物を売る店としての立地条件は決して良くない。ましてや道行く人や端に
「まさか、知る人ぞ知る有名なお店とか」
薄汚い店構えに反して、上質の紙を安価で提供してくれる良店なのかもしれない。それならば、志範がわざわざこんな所にまで足を運んだといわれても納得できる。この国の文官には、文房四宝にこだわる者が珍しくない。
ところが文徳の返答は歯切れの悪いものだった。
「……当たらずとも遠からず、かな」
「なによ。もったいつけずに教えて」
志範が入ったきり、ほかに出入りはない。
「実は、偽書に使われていた料紙と同じ工房製の紙を扱う店舗のひとつなんです」
文徳がほかの紙舗に尋ねて廻ったところ、永菻近郊で作られているその紙は、強度にやや難があるものの、滑らかで墨馴染みもよいと評判だった。値段も手頃なのだが数が限られているために、入荷するとすぐに売り切れてしまうとの話だ。
「同僚に教えてもらったんですが、あの店は常連客の紹介が必要だそうです」
「ずいぶんと慎重な商売をしているのね」
「でもそのかわりつけが利くから、客には下級官吏が多いとか。僕たちの仕事には大量の紙が必要だけど、まだまだ安くはないですからね」
一瞬、志範が疑惑のかかる紙舖の利用客であることに不安を覚えた明麗だったが、文徳の言に胸を撫で下ろした。それならば、彼がこの店に来た理由になおのこと合点がいく。官給品があるとはいえ、日々の生活費に加えて、紙以外にも墨や筆、なにかと消耗品に金がかかる。身寄りがおらず頼れる実家をもたない志範にも好都合なのだろう。惜しげもなく紙を使用できるのは、この国でもごく一部の層に限られていた。
「その紙、試し書きをしてみたかったんですけど、どこにも在庫がなかったんです。最後の一軒のあそこなら残っているかな。それに、どうやら貴重な名蹟も置いているらしくて」
そわそわと文徳の右手が動く。もはや偽書の内偵は二の次といった様子である。
「ちょうどいいわ。志範兄さまに仲介してもらって、店主から話を聞きだしましょう」
「え? それはちょっと、止めたほうがいい……かな」
明麗はなんの迷いもなく店に進もうとしたが、とうの文徳は気が進まないようだ。理由を訊いても言い渋り、いっこうにらちが明かない。ひとりでも店内に入ろうとする明麗を、弱り顔の文徳が間際で留めた。
「あのですね。孟志範殿の名は、書比べの『菊』の中にはありませんでした。けれど、あの料紙を扱う店を利用しています」
「まさか、志範さまを疑っているの? 店に入ったというだけで、例の紙を使っているかもわからないのに?」
もうひとりの兄とも慕う孟志範への嫌疑に不快感を顕わにすると、予測していたかのように小さく肩をすくめた文徳が、明麗の手を引き店舗を囲む塀伝いに進む。表通りと比べれば少ないとはいえ人目のある道から外れ、店脇に空く隙間へと誘われた。
「志範兄さまが、朝廷に仇なすようなことをするはずないわ。だってそれは、
文徳が口を開くより先に、明麗が打って出る。
李邸に居たころの志範は、事ある毎に宣珀への賛辞と感謝を口にしていた。その忠義は一族全体にも注がれ、明麗に対しての下にも置かぬ扱いなどは、「甘やかしてくれるな」と父や兄から再三注意を受けていたくらいだ。
採試に受かり邸を去る朝、志範は李家一同にこれまでの謝辞を丁寧に述べ深々と拝礼したのち、幼い明麗にまで膝をついた。
『どうか末永くお健やかに。李氏繁栄の――あなたさまの幸せのためならば、私は、この命など惜しくはないと思っていたのですよ』
『大仰なことを言う。これよりはともに、身命を賭して国と陛下の御為に働くというのに』
年少の博全に呆れられ、苦笑して肯いた志範の姿が、明麗の記憶の底から浮かびあがる。皇城で再会した現在の彼も、その性根は変わっていないと確信していた。
「むしろ、事情を話せば協力してくれるはずよ」
文徳の手を払いのけた。彼はそれに腹を立てた様子もなく眉尻を下げ、子どもをなだめるような口調で諭す。
「もちろん、あの方にはまったく関係のない可能性のほうが高い。けれどこれは、皇后陛下への叛意にも繋がりかねない案件なんです。話を広げる判断は僕たちがすべきじゃない。君がどうしてもというなら、博全さまたちから了承をいただいてからにしませんか」
「やっぱり、志範兄さまが怪しいと思っているのね? だったら、筆蹟を鑑定してみればいいんだわ。彼の書く文字は……」
真っ先に志範の書いた地図を思い起こそうとして、明麗は言葉を失う。あの筆致をどう表現すればいいのかがわからなかったのだ。
「明麗?」
急に押し黙った明麗を訝しみ、文徳が顔を覗きこむ。
言葉を探すようにくちびるをなぞっていた人差し指を顎まで下げ、小首を傾げた。
「文徳のように他人の手蹟を覚えていられるわけではないけど。わたしには、志範さまの書風を説明できないの」
「そんなに特異な手蹟の持ち主なんですか?」
「……違う。逆よ」
文徳の瞳に抑えられない好奇心が宿るが、明麗は首を振って否定する。
自然な運筆が生み出した筆線は、無駄がなく明解だった。描いた蛙も、灯籠の上にいた石の蛙を写し取ったようにそっくりだった。運筆の技術を問われれば、巧いといっていいだろう。だが、ただそれだけなのだ。
「個性がないのが個性? あなたが観たらわかるのかしら」
通常は横画ひとつとっても、筆の入れ方、力の運び加減や始末など、技の巧拙に関わらず、多かれ少なかれ書癖が表れる。たとえそれが、線と点で構成された地図だとしてもだ。文徳の目ならば、そこに孟志範を見出せるのかもしれない。
「個が感じられない手蹟……?」
今度は文徳が首をひねる番だった。
「クソガキが! どこから入ってきやがった!?」
突然、塀の向こうから怒号が届く。さらにはなにかが崩れるような騒音までもが続き、それぞれ物思いに沈んでいたふたりは顔を見合わせた。
「僕たちではないですよね?」
「当然でしょう」
憤然と明麗は、大人の背丈の倍以上はある土塀の頂を見て目を瞠る。
「危ないっ!」
悲鳴をあげたと同時に、明麗は空に向かって両手を広げた。つられて文徳が天を仰ぐと、まさにいま、塀の上に立つ少年が飛び降りようとしてるところだった。
「邪魔っ!」
甲高い声で短くひと言叱責され、反射的に文徳が空けた場所に、義侑は猫のように着地する。
「あなた、いったいなにをしていたの!?」
「外へ逃げたぞ。追え! 取っ捕まえろ!」
複数の男の怒鳴り声と荒々しい足音。塀を隔てた反対側が、いっそう騒がしくなる。
義侑は明麗の問いには答えず舌打ちし、大路へ向かって駆け出した。
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