栄華の明暗《2》

 後宮に戻った明麗は、皇后の居処である昇陽殿に向かう。が、少しでも早く到着しようと近道をしたのが徒となる。勢いよく棟の裏手に回るために角を曲がったところで、抱えた洗濯物の山に視界を狭められ、ふらふらと覚束ない足取りの少女と遭遇したのだ。


「申し訳ございませんっ!」

「ごめんなさい! 大丈夫?」


 明麗は、散乱した布の中で拝跪している、まだ十代前半とみられる少女に手を差し伸べるが拒まれてしまう。


「いいえ。横着をして、いっぺんに洗濯場に運ぼうとしたわたしがいけないのです」 

「頭をあげてちょうだい。どう考えても、飛び出したこちらが悪いわ」


 立ち上がらせるため、引っ張り上げるようにとった少女の手に点在する赤い色に気がつき驚いた。


「大変! 怪我をしているじゃない。医薬局へ行きましょう」

「これは違います! その……最近、水が冷たくなったから」


 よくよく見れば、荒れた手の甲や指の節のひび割れた皮膚から滲む血は乾いている。水仕事でこしらえたあかぎれなのだろう。爪まで磨かれた明麗の滑らかな手に持たれていることを恥じ入るように、少女は両手を引っ込めてしまった。


「血が出ていることには変わりがないわ。お薬をもらわなくては」

「どうかお気になさらず。それに、わたしたちのような婢女はしために医女官さまは薬をお出しにはなりません」

「でも、それでは……」

「このくらいはいつものことなので」


 少女は散らばる洗濯物をまとめながら、年に似合わない淡々とした口調で告げる。

 彼女を手伝う明麗は、どうしても痛々しい手に目がいってしまう。その視線から隠すように、少女は両手を重ねた。


「ひどくなったら、草むしりのついでにイタドリを揉みしだいて傷に擦り込むと、だいぶ楽になります。抜いたドクダミを煎じたものに手を浸すのも効くんですよ。そのくらいなら、監督女官さまもお目こぼしくださいます。――これからの季節はちょっと難しいですけど」


 少女は枯れ葉の舞う庭に苦笑いを向けた。

 どこにでも生えてくる雑草の私用にまで気を使わなければならない者たちの働きで、この後宮は回っているのだ。

 深々と頭を下げて礼を言う少女の腕から、洗濯物が再び崩れそうになる。明麗は喉まで出かけた助力の言葉を呑みこんで、昇陽殿へと歩を進めた。


 訪いを告げるとすぐに謁見が許された。空の器をさげる侍女と入れ違いに入室した明麗の鼻が、薬湯の独特な薫りを嗅ぎ取る。


「そんなに鼻息を荒くして、いったいどうしたの?」

「侍医殿がいらしているときいたのですが、どちらに?」


 挨拶もそこそこに尋ねるが、この場にいないことは一目瞭然だった。


「もう帰ったわ。途中で会わなかった? 急用があるなら、呼び戻しましょうか」


 またしてもすれ違いになったようだ。落胆に肩を落とす。皇后はなにやら細かく動かしていた手を止めた。


「どこか具合が悪いの? ――高泉」

「かしこまりました」


 眉間を寄せて投げた視線で意図を察し、古参の侍女は速やかに侍医のあとを追う。扉が音もなく閉じられると、明麗は皇后へ揖礼を捧げた。


「お心遣いに感謝いたします。でも、体調を崩しているのはわたしではなく、孫恵なのです」


 ここへ至るまでの今朝からの経緯を説明する。皇后の反応は、太医署の医官などとは比べものにならない。沈痛な面持ちで祈るように両手を組んだまま、明麗の話に耳を傾けていた。


「程度の差があるとはいえ、辛いことには変わりがないわ。殿方には一生わかってもらえないでしょうけれど」

「そうなんです! わかろうともしてくれないのですよ! どうしてお医者様は男ばかりなのでしょうか」


 同意が嬉しくて、明麗は息巻く。葆にも薬草などを調合する女の薬師は存在するが、医師となると話は別だ。少なくとも皇宮に勤める医官では皆無である。


「アザロフの城でも、女性医師はみかけなかったわね」

「でも、後宮には医師が必要だと思うのです! それが無理なら、せめてもう少し多くの薬や知識のある薬師をお願いすることはできないのでしょうか」


 不測の事態に備え、医師を常駐させるのが最善だ。なにかある度に後宮の外から呼び寄せていては、助かるものも助からなくなる。しかし、女医官のいない現状では厳しい。

 皇后も、申し訳なさそうに眉を曇らせた。


「医官をすぐに手配するのは難しいわね。それが女医となれば、なおのこと。育てるところからはじめなくては」


 医官といえども、官吏は官吏。そうなると、国の法からの改革が必要となる。一朝一夕で実現できる話ではなかった。

 やはりここでも、男女の壁が妨げとなる。明麗が歯がゆい思いでいると、「けれど」と皇后が続けた。


「薬の種類を増やすくらいなら、それほど煩くはないでしょう。陛下とていねんに相談してみるわ」

「丁侍医は、太医署で医生相手に教鞭を執っていらっしゃるのですよね!? そこで女子も学べれば!」


 明麗が皇城を駆け回って探していた丁稔は、若い時分には各地の薬草を集めたいという理由から、軍医として従軍を志願した変わり者である。長年の経験と豊富な薬学の知識を買われ、皇帝直々に皇后専属の侍医として任ぜられていた。

「知識や技術は共有するもの」が信条の丁稔は、己が得たそれを未来の医官たちに惜しげもなく託そうとしていると聞く。そのような考えをもつ彼ならば、女医の育成にも理解を得られるのではないかとの期待に、明麗は心を躍らせた。が、


「彼の講義はとても厳しいそうよ。毎年、何名もの落伍者が出ると聞くわ。それについていける女性が、はたしてどのくらいいるかしら。皆が皆、あなたのように学ぶことに貪欲ではないでしょう」


 もし実行できるにしても年単位で取り組まなければならない計画の話を、大きく飛躍させ浮かれる明麗を、皇后が落ち着いた口調で諭す。


「結果を焦ってはダメよ。まずはできるところから、手をつけていきましょう」

「皇后さま……」


 大きく見開いた目を数度瞬きさせてから、明麗は顔をほころばせた。


「ええ。ええ、もちろんでございます! 急激な流れの変化は、思わぬ災厄を招きかねませんもの。時には好機を待つ忍耐も大切、ということですね」


 やや興奮気味に言い募れば、皇后はぱっと頬を朱くする。その言葉は、自分がさんざん彼女から受けていた忠言だと気づいたのだ。


「そ、そう。わかっていればいいの」


 鷹揚に言うが、手元の作業を再開して気恥ずかしさを紛らわしている。先に鉤のついた細い棒を細かく動かす見慣れぬ仕草が、明麗の興味をひいた。


「なにを作っていらっしゃるのですか」

「これ? 帽子なの」


 淡い桃色をした毛糸が、手のひらに収まるほどの円形に編まれている。卓の上には、同じ色の小さな小さなくつしたが置いてあった。


「かわいい……」


 なにをどうしたら一本の糸からこのような物ができあがるのか、明麗にはまったく理解ができない。感心と称賛をこめて、玩具のような襪をみつめる。


「遅くなってしまったけれど、出産祝いと壁掛のお礼に、劉家の子どもたちへ贈ろうと思って。これから寒くなるでしょう? 皆でお揃いの帽子をかぶったら、きっとすてきだわ。こちらはまだ歩けない末の子へ」


 羊毛を撚った糸で編まれた襪を履かさせたら、温かいうえに脱げにくい。薄桃にくるまれた、バタバタと動く赤子の足を想像して、明麗の頬が緩んだ。


「華月さまも必ずやお喜びになります」

「だと良いのだけれど。ずいぶんと久しぶりに編んだから、目が少し不揃いなのよね」


 製作途中の帽子の編み目に苦笑を向けるが、明麗には粗などあるようにみえない。だがなおも皇后は、不満げに糸を引っ張った。


「この毛糸も、わたくしが生国くにから持ってきた肩掛をほどいたの。颯璉がきちんと保管してくれていて助かったわ」

「そのように大切なお品を……」

「かまわないのよ。わたくしにはもう若すぎる色でしょう? それにこちらでは、同じものが手に入りにくいらしくて」


 鞠のように巻かれた糸は、生糸よりはるかに太く、麻縄よりも繊細だ。葆で一般的な、織物に使用する羊毛の糸では細すぎるのだという。


「西域から取り寄せてみてはいかがでしょう。それよりいっそ、紡がせてみては? そうすれば、お好きな色にも染められます」

「それはおもしろそうね」


 皇后が「夫には濃い紫が良い。明麗にも牡丹紅に染めた糸で肩掛を編んでやろう」などと声を弾ませる。明るい声が響き、和やかな雰囲気に包まれていたところへ、慌ただしく扉が開かれ、骨と皮ばかりで幽鬼のような形相の丁侍医が飛び込んできた。


「皇后陛下はご無事でいらっしゃいますかっ!?」

「お待ちください、侍医殿。体調を、崩しているのは、皇后さまでは、ございません。お足元にお気を付け……ああ、ほら!」


 その後ろから、高泉の息を乱した声とどたばたとした足音が追いかける。敷物の端に爪先を引っかけ、間一髪のところで体格のよい高泉に支えられた丁は、釣り上げられた魚のようだ。

 皇后と明麗は思わず顔を見合わせた。



 ◇



 椀を捧げ持ち、昇陽殿の方角へ恭しく一礼すると、孫恵は中身をひと息に飲み干す。空になった椀を再度掲げてから、たまりかねたように舌を長く外へ出した。


「苦い。皇后さまは、日に幾度も、こんなにまずい薬湯を召し上がっていらっしゃるのね」


 自分は一杯でこりごりだと椀を置くその顔色は、今朝方目にしたよりも回復している。明麗が彼女のために東奔西走している間に、痛みの峠が過ぎていたようだ。それでも、皇后から分けてもらった薬を無駄にするわけにはいかない。孫恵は、強烈な匂いを放つそれを謹んで飲み下したのである。


「女医を育成する前に、この味をどうにかするほうがいいと思うけど」


 皇后の居殿から戻った明麗から壮大な夢のような話を聞かされても、孫恵は半信半疑どころか

一信九疑だ。女が文官にさえなれない今の葆で、医官になどとは考えられないのも無理はない。


「でも、女医官は必要だわ。太医署の医官なんてね、あなたが苦しんでいると訴えたら『それくらいで音を上げていたら、子を産む時はいかがする』なんて言ったのよ。自分は出産どころか――」

「ちょっと待って!」


 捲し立てる明麗の言を、さらうように孫恵が遮る。


「明麗。あなた、外の医官に話したの? 私がその……・」

「当たり前じゃない。詳細な症状を伝えなくては、お薬の処方は無理だもの」

「なんてことを」


 孫恵が寝台の上で抱えたのは、腹ではなくて頭だった。


「恥ずかしくて、もうお嫁に行けない」

「男は一生経験しなくていい苦痛なのよ。労われこそすれ、厭われる理由にはならないわ。それにここは皇帝陛下の後宮。嫁ぐ必要はないでしょう?」


 ふとんに顔を埋めて嘆く孫恵に、明麗は理路整然と言い放つ。ところが孫恵は「あら」と顔をあげた。


「先だっての菊宴での舞手のひとりを、あの時優勝した武官が恩賞として賜る話は聞いていない?」


 初めて耳にした話に、否と明麗の首が振られる。

 実を挙げた臣下に宮女が下賜されることは稀にある。それにしても、武官は勝者の証として、あの場ですでに宝剣を一振り授かっていた。その上さらにとは、宴席での余興の褒美にしては気前が良すぎるのではないか。

 輿入れ先のきまっている貴族の息女が、皇帝から下げ渡された妻という格をつけるため、女官として一時的に入宮させられることもある。万が一にもその間に皇帝のお手付きとなれば、それはそれで娘の家にとっては僥倖だ。

 通常は骨を埋める覚悟で入る後宮でも、いくつかの抜け道があった。

 今回の縁組もその例だろうと、明麗は踏んだ。


「では、そのふたりは許嫁同士だったということ? あの試合が仕組まれたようには見えなかったけど」


 一撃一撃の重さを感じた真剣勝負を思い起こすと、いまでも明麗の白い肌が粟立つ。あれが、勝利した武官にただ花をもたせるためのものだったとは信じられなかった。


「まさか! 武芸の達人でもあられる陛下の御前で、そんなまねができるわけがないでしょう!? 宴で舞う姿を見初めたのですって」


 孫恵は衾をはぎ取り、身を乗り出す。薬が効いてきたのか、はたまた高揚のためか、諸々の不快な症状は消えたらしい。

 腕を見込まれた武官は、宴のあとに打診を受けた昇進と引き換えにしてまで舞姫をこいねがったのだという。


「事と次第によっては、身の程を弁えぬと断罪されたかもしれないのに、よ。だから、実はふたりは秘かに恋仲で、彼女を娶りたい一心で剣の腕を磨いたのでは、なんて噂もあったくらい」


 夢見心地な目で語り、うっとりと頬を両手で包む。


「いつ、どこで、どんな出逢いがあるかわからないじゃない。後宮ここだって、まったく殿方の出入りがないわけではないもの。あの骸骨みたいな丁侍医だって、いちおうは男性だわ」


 広大な敷地と多数の宮女を抱える後宮を、女人だけで取り仕切るにはどうしても限界が生じる。声高に男子禁制を謳う一方で、厳格な管理のもとに女の園を訪れる男が一定数存在しているのも現実だった。


「でも、私通は重罪よ。見つかれば、自分ばかりか相手の身も滅ぼすことになるわ」

「しっ、しつ……う」


 淡い夢物語に身も蓋もない言葉で水を差された孫恵は、羞恥と憤怒で顔を赤らめる。


「男子に混じって医術を学ぶことを考えるよりもまず、明麗は慎みと恥じらいを身につけるべきよ!」

「医学には興味があるけれど、別に私は医師になりたいわけじゃないの」

「そうではなくて。私が言いたいのは、淑女たるもの、常に他人ひとの耳目を意識した言動を……」

「あなた。最近、颯璉さまに似てきたんじゃない?」

「ほら! そういうところが……」

「孫恵、具合はどう?」


 房の外から声をかけられ、不毛な言い合いが中断される。立ちあがろうとする孫恵を留め、明麗が戸を開けると、見知らぬ宮女が立っていた。

 誰何する前に、彼女たちより幾分年嵩の宮女は膝を折る。


「李明麗さまがおいでとは存ぜす、ご無礼を。わたくしは沈桃嘉と申します」

「沈……? ああ、尚工局の! こちらこそ、先日はお声をかけてをいただきましたのに伺えず、大変申し訳ありませんでした」


 聞き覚えのある名で招かれた宴会を欠席したことを思いだし、いまさらながらに不義理を詫びた。その楚々とした様を後ろから見ていた孫恵の、「やればできるのに」というぼやきは無視する。


「内輪によるささやかな集まりですが、またの機会がございましたらぜひ。……孫恵が寝付いていると聞いたのですが、様子はいかがでしょうか」


 桃嘉は少し首を傾けて、明麗越しに房の内を気にした。


「お見舞いに来てくださったの? 朝よりは良くなったみたい」


 明麗は戸口を空け、桃嘉を中へ誘う。寝台の上では、孫恵が手櫛で髪を整えているところだった。


「本当。だいぶ顔色がいいようね」

「明麗が一日休ませてくれたうえに、皇后さまからは薬湯までお譲りいただいて。こんなことで面目ないわ」


 寝乱れた衿を正し、孫恵は照れくさそうに「ありがとう」と、つい今し方口喧嘩していた明麗に礼を言う。


「まあ、皇后陛下に!? それでは、これは不要になってしまったかしら」


 桃嘉が差し出したのは、毛織物で仕立てた幅広の帯だった。それを広げて、自分の胴にぐるぐると巻いてみせる。


「こうして衣の中に巻いておけば温かいでしょう? 女子に冷えは大敵だもの」


 手際よく外した帯を孫恵に手渡す。保温性の高い羊毛で密に織られた生地は多少素肌を刺激するが、下衣の上に着ければ気にならないし、目立たない。孫恵は、さっそく寝衣の上に巻いてみる。胴を三周ほどさせて、端についた紐を結んで始末した。


「たしかにお腹がとても温かくなるわ! 冬場は毎日でも着けていたいくらい」

「これ、沈殿が作られたの? 生地はどちらで?」


 孫恵の腹に巻かれた帯を撫でながら明麗が尋ねる。


「どうかとお呼びください。生家が織物を扱う商売をしておりまして、ときおり様々な布地が送られくるのです」

「桃嘉の針仕事は見事なのよ。尚工さまも一目置いていらっしゃるくらいなんだから。ねえ、ぜひも明麗に見せてあげてくださらない?」


 孫恵に請われ、桃嘉は恥ずかしそうに衿の合わせ目をちらりとめくる。するとそこには、隠されているのが惜しいほどの桃の花が咲いていた。


「こうしておけば、自分の衣がすぐにみつかりますから」


 揃いの官服で集団生活を送るため、身の回り品の保守は重要だ。しかし色糸で印をつける者は多いが、ここまでの刺繍を施すことはなかなかしない。多忙な職務の外でこれほど細やかな作業ができるのなら、さぞ手が早いに違いない。


「帯がお気に召されたようでしたら、明麗さまにもお作りいたします。まだ生地は十分にございますし、その中にお好みのものがなければ、家の者に送らせましょう」


 桃嘉の流れるような物言いに、商いを営む家と李家とを繋げたいのだと得心がいく。孫恵に声をかけ小宴に誘ったのも、それが狙いにあったのだろう。彼女の所作や言葉遣いなどからは、それなりの大店の出であることがうかがえる。

 明麗は小さな顎に指を添え、小首を傾げて眉根を寄せた。


「そうね。でも、ちょっと苦しくない? ただでさえ気分が優れないときに使うのだもの。それからこの結び紐、面倒だわ」


 厚手の生地を幾重にも巻けば胴が固定される。さらにいうと、いまだ固結びしかできない明麗には、着脱が不自由に感じた。


「え? そう、でしょうか……」


 勢いを削がれた桃嘉の瞳が困惑で揺れる。

 厚意に難癖をつける明麗を孫恵が窘めた。


「新年の支度で忙しい中、せっかく持ってきてくださったのに失礼じゃない。温石を抱えながら仕事はできないもの。これは十分に役立つわ」


 孫恵の憤りもどこ吹く風で、明麗は首を右に左に揺らして考える。


「発想は悪くないのよね。そうだわ! 皇后さまが使われていた糸で編んでみたらいいのよ」

「糸を編んで、帯を……ですか」


 明麗は、昇陽殿で見てきた、毛糸を使った小物の話をふたりに聞かせる。孫恵は今ひとつ想像ができないようだが、紡績にも明るい桃嘉にはおおかた伝わった。


「あの手法なら伸び縮みが効くし、結び紐も要らなくなると思うの。ほかにもいろいろな物が作れるのではないかしら。どう? あなたの家で用意ができて?」


 うまくすれば後宮を相手に大きな商いができる。この期を逃すようでは商人の娘として失格だ。当然のごとく、桃嘉は力強く肯いた。


「西域から同じような糸を仕入れることは可能でしょうが、運ぶのに時も手間もかかります。紡ぐ前の羊毛なら、永菻にいながら比較的簡単に手に入りますから、それを皇后さまがお望みになられる太さや色に加工した方が早いかもしれません。さっそく実家に文を書いてみることにいたします」


 おもむろに桃嘉は礼をとる。再びあげた顔は、すっかりしたたかな商人の顔になっていた。


「つきましては、明麗さま。ご所望のお品を間違えるわけにはまいりません。できることならば現物を拝見いたしたく、恐れながら皇后陛下に拝謁のお取次ぎを願えますでしょうか」


 後宮に入った娘が、身を立て家を興す方法は、なにも皇帝の寵を得るだけとは限らない。

 使えるものは効率よく使用し、己の才覚で居場所を作ろうとする桃嘉の貪欲さが、明麗は嫌いではなかった。

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