鴛鴦の菊花《5》

 明麗が戻った後宮でも、そこかしこから楽しげな声が聞こえてくる。自慢の腕を披露している者でもいるのか、琴の音が秋の夜長に趣を添えていた。

 絹布に包まれた釵を書箱にしまう。今すぐには無理だとしても、これは、いつの日か皇后の手に返さねばならない品だ。自房の櫃の底に収めて、明麗は教えられた沈桃嘉の房がある棟へと足を向けた。

 だが、漏れ聞こえてくる歓声とは裏腹に、そこを目指しているはずの明麗の足取りは鈍っていくばかり。ついには止まってしまう。

 文徳にはああ説いた明麗だったが、自分に声がかけられたのも同じような理由からだとの察しはついていた。おそらくは、明麗――ひいては李家との繋がりを欲してのことだろう。

 自身にそのような権力ちからはなく、父や兄も明麗の進言など相手にするはずがない。暗がりに身をひそめていた文徳の心情が、今ごろになって身につまされる。

 それでなくとも宴会という気分ではない明麗は、回廊の冷たい床に座りこんで柱に背をもたれ、篝火が照らす庭を見るともなしに眺めていた。


「明麗じゃない。そんなところでなにをしているの? ひとり? なにかあった?」

「いえっ! 大丈夫です」


 皇后付きの女官がすぐ側まで来ていたことに、まったく気づかずにいた明麗は不意をつかれ、飛び跳ねるようにして立ちあがる。


「せっかくの宴の夜を楽しまないの? おいしい物がたくさん食べられるのにもったいない。昼間だって、ごちそうを目の前にしてずっと我慢させられていたんだから」

こうせんさまこそ、まだお勤め中ですか?」

「そう。皆が舌鼓を打っているというのに、菊酒の一杯もいただけずにここき使われ……なんて言ってはいけないわね」


 高泉は、ふっくらした口の前に人差し指をたてた。

 できるだけ多くの者が束の間の息抜きを楽しめるようにとの、皇后なりの心配りなのだろうが、そこから外れた者にとっては災難でしかない。


「ああ。早く持って戻らないと、颯璉さまにお小言をいただいてしまうわ」


 思い出したように言う高泉の両手は空だ。なにかを取りに行く途中だったらしい。


「お手伝いします」

「本当!? 助かるわ。ひとりでは持ちきれないと思っていたの」


 明麗は、言い終える前に歩き始めた高泉の後ろに続く。方角的には、皇后の居処である昇陽殿へ向かっている。


「皇后さまは今どちらに?」

「菊見をしていたお庭で、陛下と真剣勝負の真っ最中よ。碁の対局をされてるの」


 足同様に早口な答えが、高泉から返ってきた。


「碁? 皇后さまは、囲碁もなさるのですか」

「以前はよく、陛下や颯璉さまと打たれていたのよ。何度負けても挑まれるものだから、おふたりとも困っていらしたわ」

「知りませんでした」

「碁以外にも、風俗や歴史など、一日でも早く葆に馴染まれようと、それはそれは熱心に学ばれて――」


 主人が不在でも、煌々と燭台に火が灯され真昼のように明るい殿内に着いてからも、高泉の口が休むことはない。なにかを探し歩きながら、当時の様子を語る。


「ほら。御髪も瞳も、葆では珍しいお色でしょう。初めて目の当たりにした異国の方に、私たちもどうお世話をさせていただけばいいのか戸惑ってしまって。皇后さまは、それをとても気になさっていらしたから……あっ、これでいいわ!」


 明麗は、真綿をたっぷりと詰めた厚手の坐墊ざぶとんを受け取った。重さの割にかさばるそれを抱えて戸口に向おうすると引き留められ、高泉から同じものをもうひとつ渡される。


「敷物と羽織りものを頼まれているの。思いのほか肌寒いからと言われたのだけれど、そうでもないわよねえ? 本当に、颯璉さまの心配性には呆れるわ」


 高泉は、ぶつぶつと独りごちて更に奥へと進んでいく。布を広げては「これでは薄い」「毛皮はまだ出していなかったか」と、貫禄のある腰に手をあて物色を続ける彼女も十分に過保護であろう。だが、それにも肯ける。


「あのようにお身体の弱い皇后さまには、お国からの長旅はお辛かったでしょうね」


 大陸の東西を結ぶ街道が敷かれているとはいえ、途中には山越えもあれば砂漠も通過する。馬車に揺られているだけでも、細身には相当な負担がかかったはずだ。

 

「そうねえ。でも、入宮されたばかりのころはとても健やかでいらしたのよ。どちらかといえば、旅よりも着いてからが、お辛かったのではないかしら。ただでさえあちらとは気候も食べ物も異なるうえに、いろいろあったもの。ご心労で体調を崩されても無理はないわ」


 長櫃をあさっていた手を止め、高泉は顔をあげる。その視線の先には、まだあの鴛鴦の軸がかけてあった。

 二羽が揺蕩う清流が、明麗の胸の内にさざなみをおこす。


「劉家から贈られた壁掛けは飾られないのですか。陛下のお許しがいただけなかったのでしょうか」

「皇后さまは、あの織物のことをお話されていないと思うわ。飾られるおつもりがないのでしょう」

「どうして……」


 それほどあの鴛鴦図が気に入っているということなのだろうか。書画などは通常、季節や行事にあわせて替えられるものだ。ただ縁起が良いというだけで、皇后の居所に日焼けするほど同じ軸が掛けられ続けているのは、少々不自然に思えてならない。

 明麗の疑問に答えるべく、高泉は意気揚々と開きかけた口を思い直したように閉ざす。その様子があからさますぎて、ますます不審を募らせた明麗は、壁にある軸へと歩を進めた。

 その足が、あと三歩分ほど残して止まる。揺らぐ灯火に照らされた画に、いっそうの違和感を覚えたからだ。


「この鴛鴦図は、いつからここにあるのですか? どのようにして手に入れられた軸なのでしょう」


 画を見据えたまま固い声で質問すると、高泉はため息をひとつ吐き出し重たい腰を上げた。


「その画は、皇后さまがまだ立后なさる前、この殿に移られた際に官吏たちからたくさん届いた、献上品のひとつよ」

「誰からっ!?」


 両腕で綿襖わたいれを抱えて隣に並んだ高泉に、明麗は険しい顔で問うが、贈り主の名までは記憶に残ってないと首を振られてしまう。だが、目録があるはずだとの答えをもらい、明麗は小さく安堵の息を吐く。


「三……四年以上も、ここのまま?」

「お軸は幾本もあったのだけれど、『夫婦円満』の象徴でもある鴛鴦と『子宝』の桃、どちらを掛けるか、皇后さまはずいぶんと迷われてね。ひとりの侍女に選ばせたの。それがこの画」

「その侍女とは、どなたなのでしょう。いまはどちらに?」


 明麗の追究に高泉の丸い肩が落ちる。


「……・もういないわ。死んだの。自害したのよ」


 女の戦場にも例えられる後宮において、それは決して珍しい話ではない。だが、続けられた理由に、明麗は目を見張らずにはいられなくなった。


「皇后陛下の暗殺に失敗したその場で、自ら命を絶ったの」

「暗殺!? そんなことがあったな――んんっ」


 たしかに立后の前後、父や兄がいつにも増して多忙な日々に追われていたのは明麗の記憶に残っている。だがそのような一大事が起きているなど、おくびにも出されなかった。

 詰め寄り叫んだ明麗の口に、高泉は持っていた襖を押しあてて塞いだ。人気のない殿内だが、表には警備の者もいる。高泉の慌てぶりからも、この件は公にされていないことがうかがわれた。

 明麗が息苦しさと詳細の説明を涙目で訴えると、紅などが付いていないことを確認した綿襖をたたみ直しながら、いまさら「ここだけの話」だと声をひそめる。


「彼女の身内がアザロフとの戦で亡くなったことを、百合后さまが皇后になられると不都合だった者たちに利用されたそうよ」

「そんな、昔のことを……」


 戦があったのは、皇后が葆にくる十年も前の話だ。当時、まだ十にも満たない幼子だった敵国の王女を恨んだところで、どうにもならない。


「でも、当事者にとっては、十年、二十年経とうが、事実はなにも変わらないのではないかしら」


 当然のことながら、家族を突然奪われた経験などない明麗は、言葉に詰まる。「忘れろ」「水に流せ」など、しょせん他人事だから言えるのだ。


「皇后として、葆国の民の一員として認めてもらいたいと強く願われる一方で、一度は刃を交えた国の者だということを忘れないために、この軸を掲げたままにされていらっしゃるのではないか、僭越ながら私はそう考えているわ」

「なにも、ご自身を害そうとした者の思い出が残る品を、こんな身近に置かれなくてもよろしいではありませんか! もしこの画が……」


 明麗は言いさして口をつぐみ視線を下げる。

 文徳から教わってきた、書に関する数々の事柄をこの鴛鴦図に当てはめたとき、ある考えが浮かんだ。さらにそれを、高泉の話が後押しする。しかしこの場で不確かなことを口にするのはためらわれた。


「本当よね! 私も、もしかして自虐のご趣味があられるんじゃないかと疑ってしまうわ。この国で女の頂点に立たれていらっしゃるのだもの。もう少しお気を楽にして生きられればよろしいのに。でもそれがあのお方なのでしょう」


 決して呆れだけではない苦笑を浮かべ、高泉は右脇に分厚い綿襖、もう片方には獣毛の塊を抱えて明麗を促す。


「さあ、急がなくては。待ちくたびれた皇后さまが、お身体を冷やされてはいけないわ」


 どこから引っ張り出したのか、毛皮の膝掛けまで用意した高泉の真剣な表情からは、ただただ主の体調への気遣いだけがうかがわれた。



 ◇



 髻を解き背に流した黄金色の髪が燃えさかる篝火できらめく、皇后の後ろ姿が見えた。その向こうに、碁石の並んだ盤へと視線を落とす皇帝を発見して明麗は膝を折る。熟考の妨げにならないようにしたつもりだが、そうそうに気付かれてしまった。手の仕草だけで礼を免ぜられる。

 ほどなくして、ことりと白瑪瑙の石が置かれ、毛氈に碁盤を挟んで座っていた皇帝夫妻に、揃って顔を向けられた。


「あら、明麗。どうしたの?」

「お寒くはありませんか? 坐墊をお持ちしました」


 明麗が二席の坐墊を取り替えている間に、皇后は高泉が広げた綿襖を羽織る。再び席に着いた皇后の膝には、さらに銀狐の毛皮がかけられた。


「ずいぶんと念が入っていること」

「まるで冬眠前の熊だな」


 目を細めた皇帝が、着ぶくれした妻の姿をからかう。


「これでは袖が邪魔になり、石が動いてしまいます」


 皇后の苦笑いで、対局が再開された。揺れる袖をおさえて腕を伸ばし、碁笥から黒瑪瑙で作られた碁石をひとつ取る。しばらく首をかしげて思案したのち、盤上に置かれた。


 数手進んだ局面。皇帝は長考に入っていた。高泉の話から皇后の劣勢が予想されたが、今宵はいささか勝手が違っているらしい。形勢は、皇帝側が悪いように思われた。

 

「陛下。お約束したこと、お忘れなきようお願い申し上げます」

「余が負けたときは、そなたの願いをひとつ聞く、だったな。しかし、その逆はいかがする?」


 白石を打った皇帝の問いかけに、皇后は静かに笑む。


「はい。わたくしが負けたら、幼いころよりずっと望み続け、ようやく手に入れた大切なものをお返ししましょう」

「……不要になったか」

「わたくしは十分すぎるほど堪能させていただきましたもの。より、有効に使ってくれる者へ託しとうございます」


 皇后は艶のある漆黒の石を左の手のひらにのせ、滑らかな表面を指先で丸くひと撫でしてから盤上で輝く数多の星のひとつに加えた。

 手番が移る。しかし皇帝はすぐには打たず、碁笥の中へ指先を入れ石を弄びながら盤面を見つめる。


「望みがなにか、先に聞かせてもらってもよいか」


 瑪瑙が触れ合う玲瓏とした音のなかに、低い声が響いた。

 しばしの逡巡ののち皇后は坐墊から降り、毛氈の上で一礼する。伸ばされた背筋は、玉の奏でる音色よりも凛としていた。


「離縁を。それがこの国の法で無理だとおっしゃるのでしたら、わたくしを廃后してくださいませ」

「百合后さまっ!?」


 対局を見守っていた明麗が前に出ようとする。その正面を、方颯璉が塞いで行く手を阻んだ。


「身の程をわきまえるのです、李明麗」

「ですが!」

「これは両陛下、おふたりの問題。あなたが口を挟んでよいものではありません」


 苦渋を浮かべる颯璉を、明麗は押しのけることはできなかった。


「咎なくそなたを廃するわけにはいかない」

「罪ならありますわ」

「子のことか。それなら、そなたに非はないと幾度も……」


 一瞬瞳を揺らした皇后は、ゆるりと頭を振る。


「妻にしてほしいと願ったわたくしに、陛下は身も心も葆に捧げろとおっしゃいました。けれどわたくしは、いまだに祖国を、父母たちを心から消すことができないのです。懐かしい言葉を耳にすれば、縁の品が目に入れば、たちまち遠い生国に思いを馳せてしまいます」


 皇后が見やった星ひとつなく暗い空は、いくつもの野山を越え遙か西へと続く。


「畏れ多くも皇帝との約束を違えた。これはわたくしの、大きな罪です」


 まるで諌言する忠臣の如く、朗々と張られた声に迷いはない。誰よりもこの葆の行く末を慮り、皇后として最後の務めを果たそうとしているようにも感じられた。

 明麗は颯璉の腕にすがりつく。対局は終盤にさしかかってはいるが、まだ勝敗が決したわけではない。


「勝てば! 主上が勝たれればいいのですよねっ!?」


 国手とも対等に渡り合う碁の名手だとの呼び声もある皇帝のことだ。素人同然の皇后相手ならば、この局面を逆転させることくらい容易いだろう。

 救いの道を見出し明るくした明麗の顔から、颯璉の目が逸らされた。逃れるような仕草を不審に思った耳に、落ち着いた石音が届く。


「勝っても負けても同じ……か」


 自嘲とも諦めともいえぬ皇帝の問いに応えるように、またひとつ、盤上に黒石が置かれた。

 どういうことか。明麗が指先に力を入れ、颯璉に問うても顔は背けられたまま。必死に思考を巡らせている間にも、無言のまま碁は進められていく。

 ――長年望み続けて手に入れた大切なものを、と言った皇后。


「ダメです!」


 朱華月が危惧していたのはこのことだったのだ。ようやく思い至った瞬間、明麗は放り投げる勢いで颯璉から手を放し、碁盤へと膝を詰める。いままさに、打とうとしていた皇后の右手首を掴んだ。取り落とした碁石が硬い音をたてて跳ね、盤上から落ちる。


「こんな勝負、無効です。勝っても負けても皇后の位から退かれるなんて、百合后さまにはなんの得にもならないではありませんか」

「……手を放してちょうだい、明麗」

「嫌です」

「放しなさい」

「絶対に放しません」


 しばしにらみ合ったあと、皇后は口を曲げ左手で碁石を拾おうとした。その腕さえも、明麗は拘束する。走った痛みで顔をしかめた皇后に、思わず皇帝の腰が浮く。それを視界の端で捉えてはいても、明麗の手が緩むことはなかった。


「陛下も陛下です。よもや、百合后さまの意図をご承知のうえで、この対局を受けられたのではありませんよね?」


 立場も礼儀もない捨て身の問いが皇帝の動きを制す。颯璉らが止めに入らないのを幸いと、明麗は詰問を続けた。


「どうして祖国を忘れろなどとおっしゃったのです? むしろ逆でしょう。お里帰りでも、文のやり取りでも、お許しなさるべきです。戦がなくなり、今後は諸外国との繋がりをより大切にしなければいけなくなります。西方の事情を知る皇后さまは、貴重な情報をもたらしてくださるでしょう。まさか、後宮に閉じ込められ外界との関わりもない皇后さまが、葆を裏切り密偵をなさるとでもお疑いですか」

「余はそのようなことを懸念しているわけではない」

「ではやはり陛下も、女は子を産むためのみに在る、それさえできぬ者には用がないと? ゆえに御許を去ると言われる百合后さまを、引き留めようともなさらない」

「お黙りなさい」


 たまりかねた皇后が叱責するが、いったん滑り出した明麗の口は、急には止められない。これみよがしに盛大なため息を吐いてから、ひと呼吸で言い募る。


「正直に申し上げますと、失望いたしました。名君と誉れ高い我が国の主上が、そのように横暴なお考えをおもちの方でしたとは。ご自身も御母堂さまよりお産まれになられたはずですのに、女を遥か下と蔑みになられますか」

「いい加減にして! それ以上の中傷は許しません。陛下はそのようなお方ではないわ。昨日今日後宮ここへきたあなたが、苑輝さまのなにを知っているというの!?」


 力任せに振りほどき自由になった皇后の手が、明麗の頬を叩く。一撃によろけた拍子で碁笥が倒れて、黒瑪瑙が散らばった。

 皇后は、打たれた明麗よりも辛そうに顔を歪める。


「ごめ……」

「でしたら! それがおわかりなら、そうお信じになられるのなら、なぜ御自ら身を引こうとなさるのです」

「だからそれは。わたくしがいつまでも、この国の者として至らないからで」


 膝の上で両手を握りしめる皇后を横目に、明麗は碁石を拾う。それを碁笥には戻さず、ひとつずつ毛氈の上に並べはじめた。まずは横一列に五つ。次に、真ん中の石の上下にふたつずつ。

 そして、対面する皇后に尋ねた。


「皇后さまにはこれがなにか、おわかりになりますか?」

「十?」


 唐突な問いに戸惑いながらも、九個の黒石でできた形に目を落とした皇后は即答する。

 ただ二本の直線が交差しているだけの図形が葆の字だという皇后の答えに、明麗は大きく肯き身を乗り出した。


「ほら! ひと目でこれが文字に見えるくらい、百合后さまはもう葆の人なのです。なにより、この国の行く末をご案じなさるそのお心で、証明されているではありませんか」

「それではダメなの! このままでは、この国が、苑輝さまは……」


 聞く耳持たずといった体でぶつぶつと口を動かす皇后に、明麗の眉根が限界まで寄せられた。


「どうしてそのように結論を急がれるのですか!?」


 しかし拳と同じくらい固く結ばれた皇后の口は、意見を交えるどころか、すり合わせることさえ頑なに拒む。

 明麗は拾い集めた石を碁笥に戻し、苛立ちとともにそれを皇后に押しつけた。


「わかりました。では、こうしませんか? わたしとこの局の続きを打ってください。わたしが勝ったら、二度と廃后などお考えにならないとお約束をいただきます。万が一負けたときは――そうですね、陛下の御子をわたしが産んでみせましょう。その御子を百合后さまに差し上げます」

「なんですって? 正気で言っているの!?」

「政に支障をきたすとおっしゃるなら、父にも兄にも黙って産みます。後宮ならそれが可能ですから」


 目を見開く皇后をよそに明麗は拝跪して、皇帝に白石を引き継ぐ許しを乞う。皇帝が、明麗の持ちかけた妙な賭けを渋々ながら承知したのは、自分たちの救いのない碁よりは幾分だと感じたからなのかもしれない。


「自信はあるのか。棋力は?」

「さあ? 手合の経験は三度みたびほどありますが、一勝二敗です」


 不安げに訊ねた皇帝の声にもおざなりに返し、気もそぞろで譲られた席に着くなり局面に見入る。形勢は、白瑪瑙の輝きが鈍って見えるほど大きく黒に傾いていた。


「本当にいいのね? あとになって、冗談だなんて言うのは許さないわ」

「むろんお約束いたします。百合后さまは、陛下のお血筋が守られれば、それでよろしいのですよね?」

「……そうね、それで構わない。忘れないで。ここにいる皆が証人よ」


 碁石をひとつ握りしめた皇后が再三にわたり言質を取る。自分の勝利を確信しているのか、小刻みに震える右手を左で包んだ。


「百合后さまを廃したところで、陛下が次のお后をお迎えにならなければ意味がありません。それよりも、こちらのほうが確実でしょう。わたしのような小娘がお相手ではご不満かもしれませんが、そこは夜這いをかけ一服盛ってでも、どうにかいたします」


 至極真面目に決意のほどを保証してみせるが、その場に居合わせる各々が複雑な面持ちを浮かべたことに、前のめりで盤面を覗いている明麗は気付かない。ほどなく眉間に刻んでいた深いシワを開いて上体を起こし、不敵な笑みを唇にのせた。


「皇后陛下。次なる一手をお願いいたします」




 とうに石音は止んで、辺りを包む菊の香に水の気配が混じり始める。

 平身低頭する明麗の前に『鞠躬尽瘁』の佩玉が置かれている。さらなる前方には、崩した膝に頬杖をつく皇帝。その視線は、白と黒の石が乱雑に山なす碁盤に注がれていた。


「数えきれぬほどの非礼、申し開きもございません。いかようにも処罰をお受けする所存なれば、鞭打ちでも冷宮送りでも……斬首でも、主上の御心のままに」


 対局に割りこみ、罵倒にも等しい言葉を皇帝に投げつけた罪は軽くない。無我夢中で、後先など考えるよりも早く身体と口が動いていた。とっさのこととはいえ、この場で首を差し出せと命じられても仕方のない所業である。だが、不思議と後悔はない。

 心のどこかで、懐が深い皇帝の恩情があるはずだという身勝手な甘えを抱いているのだろうか。

 否。自分は賜った四文字に則り動いたまでとの自負が、明麗の内で恐怖を上回っていたからだ。

 

「謀ったな」


 それでも、頭上に落とされた声は、冷静を取り戻した明麗の腹の底まで重たく届く。

 一瞬肩がすくんだのは、いっそう深く頭を下げ、露わになった白い首筋に一粒の滴が落ちたせい。そう、鼓動を速めた心臓に言い聞かせた。


「碁の経験が薄いなどと、まったくの嘘であろう」 

「偽りなど申しておりません。一度目は六つのとき、二度目は十で兄に惨敗しました。悔しくて定石を学び直し、一昨年おととしようやく一勝をもぎ取りましたが、それ以降相手をしてもらえません」


 棋譜なら数えきれぬほど眺めて並べもしたが、人相手はその三局のみ。だが、素直すぎる手を打つ皇后にはそれで十分だった。なぜ皇帝があれほど劣勢だったのかが疑問なくらいである。


「なるほど、それでは百合の分が悪い。博全は、我が師が本気で棋待詔に推したこともあるほどの腕前だ。――おもしろい一局をみせてもらった」


 見事なまでの大逆転を見せつけられた皇帝は膝を打ち、愉快げに肩を揺らす。盤上が乱れているのは、敗北を認めようとしない皇后が両手でかき混ぜてしまったためである。

 もはやただの意地の塊となり、碁石に悲鳴をあげさせながら再戦を主張する皇后の手を止めさせたのは、「百合が負けてくれてよかった」という皇帝のひと言だ。とたん、胸の内に溜め込んでいたすべてを洗い流すかのように大粒の涙をこぼした皇后を、颯璉たちがなだめすかして殿舎へと連れ帰っていった。今頃は、冷えた身体を温めるのだと、また湯に漬けられているだろう。

 根本的な解決には至っていないが、いま明麗に可能なことはここまでだ。最悪の事態を回避できたことに安堵はするが、満足にはほど遠い。けじめとして腰から外したはずの玉が、やはりまだ惜しい。


「出すぎたまねをいたしました」

「それこそ偽りを申すな。爪の先ほども思ってはおらぬのだろう? いつまでそうしているつもりだ。顔を見せなさい」

「まだ御沙汰を頂戴しておりません」


 拝跪を続ける明麗の指先にひやりと硬い物があたる。


「そなたまで、これはもう不要と申すか。要らぬ世話だったようだな」

「そのようなことは決してっ!」


 明麗が思わず頭をあげると、頤を掴まれさらに上を向けられた。間近で皇帝の視線を浴び、竜顔に息をかけないように呼吸を止める。右に左に顔を振れられ、息苦しさを覚え始めたころに手が離れていった。


「罰はすでに受けていよう。安心しろ。痕にはなっていない」

「あ……」


 明麗は左頬を押さえる。気迫のこもる平手打ちではあったが、指摘されるまで忘れていたくらい痛みも熱も残っていなかった。


「皇后がすまなかった。罰どころか、礼をせねばならんな」

「礼など、そのような……」


 畏れ多いと目を伏せる。すると、また一滴雨粒が落ちて、佩玉に浮かぶの文字を濡らした。明麗は手放すつもりでいた佩玉を掴んで抱く。


「兄には、これがわたしの元にあると後宮が乱れるといわれました。ですが、いま少し! いま少しの間、この玉を帯することをお許しください。わたしはまだ、何一つ成し遂げてはいないのです!」


 皇帝の手が明麗の胸元へと伸びる。しかと両手で握った佩玉の房飾りを、大きな手がするりと撫でていった。


「余は返せなどとはひと言も申しておらぬのだが」

「ではっ!?」

「いまのところ、李父子おやこ以外、どこからも物言いをつけられてはいない。第一、余はいまだ百合に名を書いてはもらえていないのだ。そのためにまだそれが必要ならば、使うがよかろう」

「ありがとうございます」


 拝礼する明麗とは逆に、皇帝は天を仰ぐ。その頬を冷たい雨が、一滴また一滴と打ち始めた。 駆け寄る侍従に恭しく帰殿を促され、衣の裾を捌いて立ち去ろうとする皇帝を、明麗は大胆にも呼び留める。


「もうひとつ、ご無理を承知でお聞き届けいただきたき件がございます」


 徐々に雨脚が強まるなかで手短に申し出た明麗の願いは、囲碁の手合と引き換えに容認された。

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