叛意の濁流《1》
書庫の扉を開けたとたん、明麗はその密度の濃さに辟易した。
「どうして兄さまだけじゃなく、剛燕さままでいるの?」
李博全は、いつもと変わらず傷んだ書物の修繕を行っている林文徳の手元を、監視するかのように注視している。ふたりが着く卓の周囲を、書架をみるともなしに眺めながらぐるぐる回る劉剛燕は、森の中を歩く熊にしか見えない。さほど広くはない書庫に成人男性三名が集うのは、さすがに窮屈に思えた。
「すみません。目や手は多い方がいいかと、僕が劉将軍にお願いしたんです」
「書に関しての目は、節穴に等しいがな」
筆を置き卓上を片付け始めた文徳を手伝いながら付け足した博全が、作られた隙間を人差し指で叩いて催促する。
「それか、例の《もの》》は」
桐の箱を胸に抱えた明麗が肯く。箱書きのない蓋を開け、卓にできた空間に一本の軸を広げた。そこに描かれているのは鴛鴦の
◇
菊宴の翌朝。明麗は、まだかすかに玉香の残り香が感じられる昇陽殿に召出された。
明け方近く、雨が止むまで起きていた明麗は、挨拶も終わらぬうちに皇后に抱きつかれて面食らう。肩口に顔を埋めた皇后が、「ごめんなさい」と幼子のように小さく言った。
「お詫びしなくてはいけないのは、わたしの方です」
「いいえ、わかっていたの。明麗が、皆がどれだけ気にかけてくれていたか。知りながらも、わたくしは……」
顔をあげた皇后の目はまだ赤いが、もう涙に濡れてはいなかった。雨上がりの秋空のようにすっきりと澄んだ瞳ではにかむ。
「昨夜、苑輝さまに叱られてしまったわ」
「え? なぜ百合后さまが」
訝しんだ明麗の手をひき、皇后は着席を促す。着いた卓子の上には、まだ墨蹟も新しい一枚の書があった。
「女は政略のために婚姻を結んだり、家のための子を産む道具ではない。あなたはそう思っているのね?」
「それは……はい。でも、主上がそのようにお考えとは思っておりません。昨日はその……まことに申し訳ありませんっ!」
明麗は卓面に打ち付ける勢いで頭を下げる。自分がどれだけの不敬を働いたのか、一晩明けてみるとあらためて背筋が寒くなる思いだ。
「ええ、知っているわ。苑輝さまは、わたくしにそのようなものを求めていらっしゃらない。それどころか、こうおっしゃったの。『子は誰かのものとして生まれてくるのではない。産まれる前から、なにかを負わせようとするな』と」
先帝以前の後宮には、常に複数の妃嬪がいた。当然それぞれの
その様子を目の当たりにし、さらには否応なく渦中に身を投じられた末現在の地位にある皇帝の言葉は、盲目的に子を望んでいた皇后の意識の底を揺さぶったようだ。痛ましげに目を細める。
「国のため、苑輝さまのため、自分のため。わたくしは、なにかのために子を欲しがった。けれど子は個。親のものではないの。たとえどんな立場に生まれたとしても――」
瞑目して噛みしめるように呟いたのは、夫からの忠言だろうか。ゆっくり瞼を開けた皇后は、白百合のように清廉とした微笑みを湛えた。
「国のために嫁ぎ、そこで子をなす。それが一国の王女として生を受けたわたくしの務め。それよりほかにできることはないと思っていたわ。でも明麗は昨夜、わたくしにもそれ以外でこの国の役に立てることがあると言ってくれたわね」
卓上にのばされた白い手が書に届く。紙面に書かれていたのは『葆』の一文字。皇后にはまだ、このように滑らかな線は無理だ。しかし、威風漂う皇帝の
ところどころ不安定になりながらもその先の希望へと繋げようとのびる筆致を、大きく温かなものが包む。その文字に落とされた皇后の愛おしげな眼差しから、明麗は得心した。
この葆は、筆を持つ妻に夫が己の手を重ね、ともに紡いだ文字なのだ。
「あなたにも心配をかけてしまったようね。こんなに目を赤くして。でも、もう大丈夫。わたくしは、今のわたくしにできることをするわ。だから教えてちょうだい。この国の皇后として、わたくしになにができるのかを」
文字を辿っていた指が、昨日は激情をぶつけられた明麗の顔にこわごわと触れる。眦から寝不足で重たい瞼へと、ほのかな熱が伝わってきた。その心地好さに、たまらず明麗は頬を緩める。
「ではまず、ゆっくりお休みください。目の下が、薄墨で化粧したみたいになられています」
「明麗こそ、朝はちゃんと顔を洗ったの? 墨がついているわよ」
皇后の指先が、明麗の柔らかな頬をつついてへこませる。
「そんなはずは……」
明麗が慌てて擦った手の甲を確認しても、細やかなきめの肌にはなにもついてこない。目で弧を描き、笑みのこぼれる口を両手で覆う皇后を見て、からかわれたのだと気づいた。
擦った分以上に熱くなる顔を隠すように背けて、明麗は勢いよく立ちあがる。
「皇后さま。幻が見えるようでは重症です。さあ、早く臥所へお入りくださいませ」
「さっき起きたばかりじゃない」
控え目に抵抗する皇后の手を引いて、まだ温もりが感じられそうな寝台へ向かう途中で、明麗は足を止めた。
「……まだ、お国へ帰りたいとお思いでしょうか」
壁に飾られた織物をみつけて思わず口にしてしまった愚問を、すぐに後悔する。生まれた土地や家族への想いを奪う権利は、たとえ皇帝といえども持ってはいない。
俯いた明麗とは反対に、皇后は目線をあげて森に佇む城を眺める。
「帰る? わたくしの家はここだわ。……でもいつか、すべての役目を終えたら。もう一度だけ、あの景色をふたりで眺めましょうと、約束したのよ」
◇
いつ叶うかわからない、叶えられる日が訪れるとも限らない約束を胸に、皇后であり続けると決意した百合后の表情が眼裏によみがえる。
なにかひとつでも、彼女の重荷を減らしたい。その想いが、明麗の気を急かせた。
「文徳。あなたにはどう見える?」
口元に手を当てじっくり画を検分する文徳へ、博全と剛燕の視線も集まる。
「この鴛鴦が本当にそうなのか」
剛燕が腰を曲げたり伸ばしたりして画との距離を変えてみるが、わけもわからないようで訝しむばかりだ。博全も、鴛鴦の緻密さに感嘆こそすれ、明麗が抱く違和感には気づかない。頼みの綱は、掛軸へといつになく厳しい目を注ぐ、書の師匠である文徳ただ一人だった。
やがて文徳は、「まいったなあ」と首筋を掻きむしりながら顔をあげる。
「じゃあ、やっぱり?」
眉をひそめた明麗に、文徳は肯いてみせた。話がみえていない博全と剛燕が、無言の圧をかけて説明を促す。
文徳の右手が画の上にかざされた。
「見るのはこの鳥たちではありません。こちら。ここに、文字が隠れているんです」
番の鴛鴦を指していた人差し指が下方へ移動し、水面に置かれた。しかしそこには、濃淡をつけた
「巧みに色を変えて書かれていますし、字形も大胆に崩してあるので、ちょっとわかりにくいですかね」
横長に置いた紙へと、画の中から水をすくうように墨線で写し取る。現われた形を見て、博全は息を呑んだ。それでもまだ理解不能の剛燕が、勢いよく鼻を鳴らす。
「こんなうねうねした線の塊が、一体なにを表しているというんだ」
「ええっと。では、これならどうでしょう」
散らばった線を寄せたものを書く。さらにその横へ、徐々に線を減らし形を整えながら書き連ね、四つ目でようやく剛燕は納得の声を発した。
「流か!」
「さんずいの
それがなにを示唆するか、ここにいる全員が気づけないはずはない。狭い書庫を重苦しい静寂が包む。
目の前で、夫婦円満を象徴する画の意味が一変したのだ。文徳の解釈を聞いたあとでは、身を寄せあう鴛鴦を乗せる水流が、ひどく禍々しいものにしか見えなくなってしまう。
やりきれなさを多分に含んだ嘆息で、博全が沈黙を破った。
「皇后陛下の度重なる流産は、この画にかけられた呪詛によるものだったとは……」
「明日からは兵に、
「書で人は殺せませんよ。特におふたりのような強い方には、まず効かないでしょうね」
質の悪い剛燕の冗談に、文徳が不機嫌に応える。
「この流は、水流と見せかけて子が流れる様を書いた看字であり、それを念じて書かれた感字でもある。もしその怨念が誰かに向けられたものだとしたら、呪詛といえなくもありません。ただそれが、直接流産に繋がったとの確証はないのです」
「しかし実際に、陛下の御子は幾度も流れている。これが呪詛ではなければなんだというのだ」
明麗が鴛鴦図に抱いた不快感は、気のせいではなかった。本当にこの軸が皇后を狙ったもので、それが原因で流産したのだとしたら、歴とした叛逆罪である。博全がいきり立つのも当然だろう。だか、文徳はその結論には不満があるようだ。
「たしかに、葆の文字は占術に使用されたものが起源だと伝わっています。そのせいなのか、書が人の気脈に影響を与えることもあります。だからこれが皇后さまの負の感情を呼び起こし、何らかの作用をもたらした可能性は否定できません。でも僕は、文字だけで人の生命が奪えるとは思えないんです」
そう言いながらも文徳は、自分で『流』を書いた紙を小さく丸め、燭台にかざして火をつけた。文字の部分が完全に燃えたのを見届けると、紙片を筆洗に漬けて念入りに消火する。形を模しただけの文字でも残しておきたくなかったのだろう。焦げ臭い匂いと燃えかすで汚れた水が、忌々しさを増幅させた。
「おそらく最初のご不幸は、防ぎようのないものだったのではないでしょうか。皇后さまはその陰の気を溜めたまま、次の御子を身ごもられて……」
既婚者ふたりはそれぞれの妻の妊娠中に思いあたる節があるようで、深く肯きあう。
「胎に子がいる女は、なにかと不安定だからな。あの華月でさえ、名前も知らぬ庭の花が枯れたと大泣きしたことがあるぞ」
「私のもとには、要領を得ない内容の文がいつもにも増して多く届いていた」
姫将軍とまで称された女傑や常に春の陽だまりのような貞婦でさえ、気を乱されるというのだ。初めて宿した命を喪った皇后の胸の痛みを想像し、明麗が安直に同情することさえおこがましいく思えてくる。
異国出身の皇后が、流の成り立ちまで知っていたとは考えにくい。しかし、書の練習を開始する前から、葆国民譚を拾い読みできる程度の知識はあったのだ。失意の底で日毎夜毎に目にする川の流れに潜む悪意に満ちた文字を、無意識のうちに読みとっていたとしても不思議はない。
そのうえあの軸は、ほかにも負の想いを増大させる因縁をもつ。
昇華しきれずに滞った陰の気が皇后の心身を蝕み弱らせ、妊娠を継続することが困難になった可能性は、十分に考えられた。
「けれど、皇后さまに害意を向けたことにはかわりないわ。暗殺を試みたという侍女が関わっていたのでしょうけれど、首犯ともども死んでしまっていては、これ以上の罪を追及できないじゃない」
明麗の口惜しげな呟きに驚いたのは、林文徳ただひとり。当時を知るふたりは、顔をしかめるだけに留まった。
「暗殺!? あん……って、あの暗殺ですか?」
「ほかに暗殺という言葉の意味は知らないけれど……。これを飾るように薦めたのも、その侍女だったそうよ」
皇后の不幸はこの掛軸に起因するのではないか。そう考えた明麗は皇帝に壁掛の件を奏上し、掛軸の貸出しを願い出たのだ。不確かな情報で後宮を混乱させないためについた、「書の上達に必要な画力の参考にしたい」との方便を皇帝が信じたかは怪しいが、明麗の望みは無事聞き届けられた。
菊宴の翌朝、明麗の目が赤かったのは、まとめあげた己の推論に興奮して眠れなくなったからにほかならない。
ところが、真相解明を期待して受け取った軸箱からは、なにひとつ情報が得られなかった。贈主が記された目録も、現在後宮にはないという。不審な眼差しを向ける颯璉に行方を尋ねると、御史台に提出したままだと苦々しげに教えられた。
結局兄を頼ることになり、それならばと、一方的に講習修了を言い渡された文徳へのとりなしも押しつけたのだ。彼以上に書を熟知している人物を、明麗は知らない。これには博全も同意見で、眉間に深いシワを刻みつつ引き受け、この場が設けられた。
鴛鴦図が黒だと判明し、その犯人がすでに刑に処された者と一致すれば、皇后の居室から取り去ることで事態は好転するはずだった。
しかし明麗の目論見は、厄介な方向へと外れてしまう。
「おそらく、この掛軸と暗殺の件は別だろうな」
剛燕が思案顔で顎ヒゲをしごく。博全もそれに異を唱えることなく同調した。
「その侍女――
「桃!? これとどちらを掛けるかで比べられた軸も、桃だったそうよ。彼女はなぜそちらを選ばなかったのかしら。――いえ、それよりも兄さま。この鴛鴦図の贈主はわかりましたか?」
捕らえられた人物以外にも、皇后を害そうとした者がいるということだ。消えた目録はみつかったのか。そこにある名はだれのものか。手がかりを求めて詰め寄る妹を、博全は疎ましげに片手で押し戻す。
「……ない」
たっぷりもったいつけてから出された答えに、明麗の大きな目が点になった。
「それは、目録がみつからなかったということ?」
不手際を責めるように明麗が訊ねると、博全の片眉が大きく跳ねる。慌てて小声で謝罪を入れるが、博全は不愉快そうな表情を崩さず、脇に寄せられていた山からひと巻の巻子本を手に取ると、その紐に手をかけた。
「あったのですね!」
明麗は前のめりで
「さすがは兄さま。あの方颯璉さまでさえ、半ば諦めて新たな所蔵録を作成なさったというのに、こんなに短期間で探し出されたなんて! やはり持つべきものは、頼りになる有能な兄ですわね。心より感謝いたします」
懇ろに腰を折る一方で、少々芝居が過ぎたかと密かに舌を出す。
そんな明麗の心中などお見通しだといわんばかりで嘆息した博全が、これに辿り着くまでにどれほどの手間暇がかかったのかを説き始める。
皇后暗殺未遂事件のあと、献上品一覧の一部は証拠資料として後宮から持ち出されていた。御史台から刑部や大理寺を経て、なぜか皇宮の宝物などを維持管理する宝倉部で放置されていたそうだ。当時担当していた官吏の異動もあり、官衙街を西へ東へ移動させられた恨みつらみを吐き出してから、ようやく博全は巻物の紐を解いた。
そこには、四角四面の整った筆蹟で、現在後宮にある一覧同様、贈られた品の種類や特徴などが整然と並んでいる。それに加えて、受け入れた日付、献上した者の所属と氏名なども記してあった。明麗はその中に、朱線が引かれた箇所をみつける。『
「鴛鴦図が載っていない」
紙上を埋める細かな文字を順に追っていったが、最後まで該当するものは見当たらなかった。複数の目で確認したのだから、見落としは考えられない。贈主や作者の名どころか、画そのものの記述がなかったのである。
記録漏れや記憶違いだろうか。
卓上で窮屈そうに広げられた画と目録を穴があくほどみつめるが、明麗には針の穴ほどの光明も見出だせない。
「せめて、こちらの鳥を書いた絵師だけでもわかればいいのに」
「こんなにそっくりに描けるんだ。名のある画人の作ではないのか?」
芸術にはほかの三人より疎い剛燕にも、本物と見紛うばかりに描かれた鴛鴦の鮮やかさが届くほどの腕前だ。新鋭の絵師として、宮処に名が広まっていてもおかしくはない。
「どこかの家が、世に出す機会をうかがっている子飼いの作家に描かせたものかもしれん。優秀な書家や絵師を抱えるのは、権力の誇示にも繋がるからな」
「これほどの技量を持つ絵師が家にいたら、自慢したくなるものでしょう。兄さまなら宮中で、そんなお話を耳にしたことがあるのではないですか?」
明麗はあちこちに顔が利く博全に訊ねるが、心当たりはないようだ。始めたばかりの調査は、早くも行き詰まってしまう。
話を広げて皇后の耳に入ることを避けたかったが、これより先はしかるべき機関に預けたほうがよいのかもしれない。弱音が明麗の心をよぎった。
「あれ? 皆さん、鳥と流》は別々に描かれたと思っているのですか」
「だって、崩されていてもこれは文字だわ。書家の手で書き足されたものでなはいの?」
「いいえ、同じ人の筆ですよ。じゃないと、ここまでの一体感は出せない。それにここ、このはらい! 冠羽の描線と筆遣いが一緒でしょう?」
雄鳥の立派な冠羽を撫でた指で、川の流れをなぞる。文徳はその手で拳を握った。
「書にしろ絵画にしろ、これだけの腕があるのに、どうして人を悲しませるような字を書いたんだろう」
「目的は皇后陛下かその御子か。どちらにせよ、野放しにしておくわけにはいかんな」
こうなるとなおさら目録に記載がないことが残念で、ますます不審に感じられる。僅かでも糸口を、との思いは皆同じ。博全が険しい顔で文徳に問う。
「筆蹟から辿るのは難しいかもしれんが、筆さばきの癖などに覚えはないだろうか。官民は問わない」
「そうですねえ。少なくとも、先日の菊の中にはいないと思います」
文徳は、目の疲労を癒やすように両側のこめかみの辺りを人差し指の関節でぐりぐりと揉みほぐす。
「武官はほとんど不参加だったし、思ったよりも集まらなかったな。強制すればよかったか?」
「いや、それではいらぬ不審を招く。文官はそこそこ提出していた。手蹟を集めるためのとっさの思いつきにしては、成功したほうだろう。あれだけあれば、紙の情報も得られそうだ」
「……第二回を開催しようとか言わないでくださいよ。菊の花に埋もれて死ぬ夢までみたんですから」
「ならば次は酒でやるか。
冗談でもやめてくれと、文徳の顔から血の気が引いていく。感字で書かれた酒でも酔うのだろうかとの疑問もわくが、それより明麗は自分の関知していない話題が大いに気になる。
「ちょっと待って! 菊見の宴での余興は、父さまの案ではなかったの? 手蹟を集めるってどういうこと? 兄さまたちは、いったいなにをなさっているの?」
兄に噛みつくと煩わしげにしかめた顔を背けられ、剛燕は素知らぬ様子で手近にあった本をめくりだす。明麗は狙いを文徳に定めて、問い詰めようとした。
ところが先に質問されてしまう。
「そういえば、後宮の方たちは参加されていませんでしたね」
「だってあんな催しがあるなんて知らされていなかったもの」
なにをいまさら、と口を尖らせながら答えた。
後宮にも優美な手蹟の持ち主はたくさんいる。花を書かせたら、男性官吏たちよりも美しい書を披露できたかもしれない。そう思い至ると、またしても除け者にされたようで腹の虫が治まらない。
「どうして教えてくれなかったの!? もし知っていたら……」
「これ。本当に、方女官長の筆蹟でしょうか」
「え?」
八つ当たりにも等しい怒りの出鼻をくじかれた明麗は、文徳がじっと目を落としている目録を覗きこむ。そこあるのは、目にするだけで姿勢を正さずにはいられない文字だ。
「そう……だと、わたしは思うけど」
文徳に言われてしまうと、とたんに自信がなくなる。だが明麗には、違うと断言できるだけの目はない。後宮の窮屈さを具現化したかのような手蹟は、厳格な女官長が書いたものにしかみえないのだ。困惑の眼差しで文徳を見つめた。
「後宮にいらっしゃる方の手蹟を目にする機会は少なくて、女官長の書も数えるくらしか拝見したことがないから、僕も確かなことは言えないけれど……」
「違うの?」
文徳は唸りながら目録に顔を近づけ首をひねる。
「どうも印象が違うんだよなあ。もっとこう、温かみがあったような気がしません?」
「温かみ? 颯璉さまの字に?」
「おいっ! まさかこれも偽筆だというのか?」
「も?」
文徳と顔を並べて吟味していた明麗は、剛燕に押しのけられ、柳眉をぴくりと動かした。すうっと息を吸い込み背筋を伸ばし、胸を張る。
「それはどういう意味でしょう、劉将軍。兄上も、ふたりきりの兄妹で隠し事だなんて水臭い。殿方では手の出しにくい後宮にも関わることだとすれば、わたしがお手伝いしたほうがよいのではありませんか。まずはなにから始めたらよろしいのかしら。お話を伺います」
さあ、と十六という齢には不釣り合いな艶然たる笑みをつくった薄紅色の唇の両端が、一段と吊りあがった。反対に黒目勝ちな目は、新しい遊びをみつけた悪童のそれに似た煌めきを放つ。
失言をもらした剛燕を恨みがましく睨め上げる博全の舌打ちが、書庫を埋める書物の中に吸い込まれていった。
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