叛意の濁流《2》

 永菻えいりんは、雷珠山を頂点とする山脈の裾野に築かれた宮処みやこである。そびえる山々を背に、北側より皇宮、皇城が設けられ、それらを霊峰から流れ出す清水で満たした堀と堅牢な城壁が囲む。その南に官民が暮らす城下町が広がっていた。

 町の中央を南北に貫く大路の東には、南大門に近いほうから貴族、高級官吏の邸宅が並び、南下するに従い格が下がっていく。西側には、商家や菜館、庶人の中でも裕福な者たちの住まいなどが軒を連ねて賑わい、こちらも南に進むほど規模が小さくなる。

 そして南端に据えられた関により近い、東下とうか西下さいかと呼ばれる区域が、庶民の主な生活の場となっていた。

 周楽文の邸は、やや東下よりに建つ。かつての高官のものとは思えぬほど慎ましやかなそこの門前に豪奢な軒車くるまがつけられ、庭では大柄な馬が伸び放題の草を食んでいた。


「なにもご用意がなくて」


 文徳が客人たちに空の椀を配り、自身の前には白湯さゆを置いた。


「このとおり、酒も肴も持参したから問題ない」


 剛燕は担いできた酒瓶を座の中心に据え、博全は堤盆の蓋を取る。二段の箱にぎっしり詰められた点心が、質素な夕餉をすませたはずの文徳の食欲をくすぐった。


「本来なら楽文殿にも、ご挨拶をせねばならぬのだが……」


 博全は閉じた扉の向こうを見やるように首を伸ばすが、彼らを通したへやの外は静まりかえり、人の気配はない。


「やはり、起こしてきましょうか」

「いや、夜分に突然伺ったのはこちらだ。お休みの邪魔はしたくない。明朝にでも、これをお渡ししてくれ」


 腰を浮かせる文徳を制し、博全は小さな包みがのる手のひらを差し出す。文徳が両手で受け取ると、大きさの割にしっかりした硬さと重みを感じた。

 覚えのある感覚に、そっと布を開く。


「これは……はん州の墨ですね! ありがとうございます」

「おまえにではない」


 笵墨のしるしである表面に型押しされた梅花を撫で、恍惚と礼を述べた文徳は、博全に釘を刺されてしまう。


「わかっていますよ。墨や紙はいくらあっても足りないくらいなので助かります」


 笵州で作られる墨は、わずかに青みを帯びた墨色ぼくしょくが特徴の高級品である。今すぐにでもそれを確かめたいという欲求を封じ、墨を丁寧に包み直した。


「それにしてもすごい量だな。ここは書房として使っているのか」

「いえ、この家はどこもこんな感じで……。すみません」


 ひょいと腕を伸ばせば壁際に寄せた書籍や紙の束に手が届いてしまうが、これでも比較的床が空いているほうなのだ。それに、養父が寝ている側で物騒な話をされても困る。このふたりが、ただ小宴を催すためだけに訪れるわけがない。ゆえに文徳は、貴人をもてなすには若干難がある房へ案内するほかなかったのである。

 玉華楼での一夜と欠勤の代償として巻き込まれた事案は、いち文官にすぎなかった文徳の日常を大きく変えてしまっていた。


「ん? なぜ同じ表題のものが三冊分もあるんだ。これもだ。こっちは五冊もあるぞ」


 書物の山を、剛燕が手当たり次第にばさばさと崩していく。舞い上がる埃から酒の入った椀を守りつつ、博全が冷静に分析した。


「写本を売っているのか」

「ときどき。でも、これは違います。採試を受けたいと言ったら、師匠から家中の書籍を写すようにと課せられまして」


 初回は臨書。二度目は文脈を読み取りながら。三巡する際には、自分の解釈を文字に加えて綴る。それでも理解が足りなければ、四度、五度と繰り返した。なかには二十をゆうに超えた本もある。

 一冊を手に取り紙をめくっていた博全が、不思議そうに顔をあげた。


「一度で十分だろう」


 葆国史上最年少合格者からの疑問に、文徳は苦笑を返す。ひたすら自らの手で書いて理解し記憶する。それが文徳流の採試対策だった。


「形として文字を覚えただけでは、合格できませんから。詩賦なんて、なにをどう勉強したらいいのかさえわかりませんでしたよ」


 試験で好まれるのは、風景や感情を複雑な言い回しで描写したり、難解な比喩が使用されたものだ。品格と技巧の高さが問われ、題材の幅も狭まれる。見たまま感じたままを素直に文字や文章にしてしまう文徳とは、いささか相性が悪かった。


「昔、李家うちで預かっていた受験生は、詩作の才はすばらしかったが、経書の暗誦で苦心していたな」

「ああ、あれ! 使う本によっても変わりますよね。僕の場合は、師匠の手蹟で学べたのが幸いでした」

「楽文殿の経書か! それは是非にでも拝見したいものだ」


 同じ文字で同じ内容が記述されている書物でも、綴り手が異なれば読み手の理解度まで変わってしまうのが、葆の書であり文字なのだ。いかに名筆の良書を手に入れられるかも、合否を左右するとさえいわれていた。

 

「こんなもの、何度読もうが書こうが覚えられるわけがない!」


 文字通り己の腕のみでのしあがってきた剛燕は、書物を放り出したその手で椀をあおる。口髭についた滴を手の甲でぞんざいに拭い、にやりとした笑みを文徳に向けた。


「それで、なにか変わったことはないのか?」

「そうですね……。一度も話したことのない同期から家に誘われました」


 ほかにも、皇城内を歩けば見ず知らずの官吏からも挨拶されるようになった。いままでは呼びつけられる一方だったのが、明麗以外の人が訪れることなどめったになかった棟まで、些細な用件を伝えにわざわざ足を運ぶ者も増えている。

 皇后の目に留まった『菊』のたったひと文字で、無名の文官だった文徳の書の才能を世に知らしめることに成功したのだ。


「まだ、怪しげな話を持ちかけてくる輩は現れないか」


 書の競演を開いたのは、一度に多くの筆蹟や市中に出回る紙を集めるためだけではない。偽書の作成者が筆の妙手を求めていたとしたら、文徳の腕を放っておくわけがないと睨んだのである。第一席こそ逃したが、首尾は上々のはずだった。


「でも、もしあの場に犯人がいたら、逆効果だったんじゃないでしょうか。僕が皆さんと顔見知りだと知られてしまいましたし」


 官として勤める者ならば、李家や劉家を敵にまわすようなまねは、まずしない。下手に近づいても、返り討ちに遭う将来が容易に想像できるからだ。


「あれはしくじった。陛下の盃を邪魔せず、酔わせておけばよかったな」

「しかし、御前を汚すようなことがあっては一大事。やはり陛下には、お話しておくべきだったか」

「文徳は酒が呑めぬと?」


 からかい混じりに訊く剛燕に、文徳がむっとした顔で反論する。


「呑めないのではなく、弱いだけです!」


 呑んでいるときは、自分が酔っ払っているなどとは微塵も思っていないのだが、頭より先に足にまわる質らしい。腰から下の力が抜けていき、いつの間にか意識を失っているのだ。先日は、ついでに転んで散々な目に遭った。

 玉華楼に連行された翌日、覚ました目に花紋様の描かれた天井と雪晏の微笑が映り、痛む後頭部の下にあるほどよい弾力の正体を知った文徳は、血の気が引いた。二度と酒は口にしないと誓ったのは、その瞬間である。


「世間では、それを下戸という」


 博全の正論に言い返せる言葉もなく、文徳はすっかり冷めて水と化した椀の中身を飲み干した。


「いっそ、酔筆でも試してみるのはどうだ? 珍しいものが書けるかもしれんぞ」

「……実は、挑戦したことがあるんですよね」


 おもしろがって酒を注ごうとする剛燕から、椀を遠ざけた文徳がぼそりとつぶやく。すると、博全までもが興味深げに目を細める。言いだした手前、少々情けない顛末を語る羽目になってしまった。


「その少し前に死んだ猫の偲び酒でした。この椀に二杯くらいだったかな。呑んだあと、墨の用意を始めたまでは覚えているのですけど、どうやら磨りながら眠ってしまったみたいで」

「なんだ。筆も握らずに終わったのか」

「そのようなんです、たぶん?」


 文徳の要領を得ない話に、剛燕はあからさまに関心を失い、博全も眉根を寄せる。


「たぶんなどと曖昧な。己の行動くらい責任をもて」


 そういわれても、覚えていないものはしかたがない。決まりが悪くなった文徳は、空の椀に目を落とした。


「それが、どこからか入った猫が暴れたらしく、硯はひっくり返っているし、筆の穂先は墨を含んで固まり転がっていたんです。でも、料紙は白紙のままでした」


 床にはこぼれた墨が広がり、猫の肉球で模様までつけられていたという、散々たる有様。その惨状の中、僅かな墨滴ひとつない紙が、不思議といえば不思議だった。


「飼い猫が化けて出たとかいうなよ」


 剛燕から胡乱げな視線を投げられるが、文徳は笑って手をひらめかせる。


「まさか! たしかに隅で丸まって寝ていた姿はそっくりで、生き返ったのかと驚きましたが、そいつは黒猫。死んだ猫は真っ白でしたから」

「それで、その猫はどうした」


 意外にも博全が猫に興味を示した。きょろきょろと辺りを探しているが、見つかるはずがない。


「これもなにかの縁だから餌をやろうと房を出て、戻ってみたらいなくなっていました。ネズミ避けになるし、冬は温石代わりにもできるから、そのままいてくれてもよかったんですけどね」


 戸締まりが甘かったのか。それとも、酒精の残る頭がみせた幻だったのか。しかしそうなると、小さな足跡の説明がつかない。

 どちらにしても、自分には酔書などという芸当は無理だと、なかなか落ちない床の墨を掃除しながら文徳は悟ったものだ。


「猫を抱いている場合ではなかろう。早く嫁さんをもらえ。その話もきているのではないのか」


 幼い子らの笑い声や泣き声が止むことのない劉家に比べ、猫の仔どころか人気ひとけもないこの邸は静かすぎるのだろう。手の行き届かない家の現状を、他人事ながらに憂いたのかもしれない。

 けれど、書にばかり目がいく男たちの、勝手気ままな二人暮らし。文徳も楽文も、特段不自由はしていなかった。


「それとも、すでにだれかと約束しているのか? ならば話は早い」


 獲物に狙いを定めた鷹のような眼で、剛燕が身を乗り出してくる。文徳はすっかり逃げ腰で首を振り否定した。


「いくつかもったいないお話はいただきましたが、なにを期待されているのかわかりません。僕のような下っ端役人のもとへ大切な娘さんを嫁がせても、心配になるだけでしょう。第一、そのお嬢さんが気の毒ですよ」


 ふと見上げた剛燕の頭上で、埃をまとった蜘蛛の糸が隙間風に揺れている。文徳は、小さく肩をすくめて嘆息した。良縁を得るために蝶よ花よと育てられた家の娘が、使用人のひとりもいない生活に我慢できるはずもない。


「おまえさんになら、先行投資する理由は十分ある。持参金を出し渋ることもないだろうよ。なあ、博全」

「かまうな。本人にその気がないのだ。我らが口を挟むことでもなかろう」

父子おやこ揃って、あれほど苑輝さまに妻帯を薦め、さらには御子まで急かせておきながら、か?」

「この国の主であらせられるお方と、農民あがりのいち文官を同列にするな」


 冷淡にあしらう博全に、剛燕がなにか言いたげに口を開きかけたがすぐにとどめ、不服だけを残した面持ちであぐらの膝に頬杖をつく。

 なぜか申し訳ない気持ちになって、文徳はふたりの椀に酒を注いだ。


「……僕には、皆さんのように繋げなければならない血も、守らなくてはいけない家もありませんから」


 両親が細々と守ってきた小さな土地どころか、彼らの墓さえもない。養父が継いでほしいと願うは家ではなく、書の道だ。それならば自分が師に教えられたことを、同じように適切な者へと託せばいいのである。血縁に頼る必要はなかった。

 剛燕が、まだなみなみと酒で満たされている椀を静かに置いた。


「オレはほしいものは自分で手に入れた。それを守るために必要なものも。文徳には、そのようなものはないのか」

「そうですねえ……」


 数々の武勇を馳せる劉剛燕だが、その出自はあまり知られていない。幼少の時分から従軍し、年齢に見合わぬ功績を挙げ続けて今の地位にあるという。巷では、民話よろしく、山中で虎に育てられたなどという空言までささやかれているくらいだ。

 そのような人物といっしょにされても困る。


「おふたりからすればあまりにも粗末でしょうが、飢えることもなく、雨風がしのげる寝床もあります。なにより、周楽文という稀代の書家に師事することができました。これ以上を望んだら、先に死んだ妹や弟に悪いです」


 なにもできなかったという無念も、独り生き残ってしまった罪悪感も、今となってはもうない。まして、あの夜、家族とともに死んでいればなどと考えるのは、自分をここまで生かしてくれた人たちに失礼だ。

 ただ、辺境の村で一日中畑を耕しても、今以上の暮らしが得られるとは思えず、文徳にとってここは贅沢すぎるのである。


「無欲なものだ」


 博全から失笑がもれた。


「とんでもない! このまま安穏とした日々が続けばいいなんて、ものすごく強欲ではありませんか」

「たしかにそれは、難しいことかもしれんな」


 今日と同じ朝が翌日も明けるとは限らない。大きく人生が変わってしまった一夜を文徳は知っている。そして、同意した剛燕もまた、身に覚えがあるのだろう。


「だから、妓楼なんて分不相応な場所でこしらえた借金も、そのせいで仕事を休んでしまった分も、早く帳消しにしたいんですよ」


 今後、葆を担っていく立場にある文武の雄が揃って訪ねてくるなど、ついこの前までは考えられなかったことである。花代を立て替え、休暇が認められるよう手配してくれた博全に作った借りを返すためにも、一連の面倒ごとを片付けなければ、文徳は静かな日常から遠退いたままだ。


「では、今少し働いてもらおう」


 博全が持参した荷から冊子を差し出す。受け取った文徳は、さっそく中に目を通した。


「あの紙の購入先、ですね」


 永菻にある紙を取り扱う店の名のあとに、所属と氏名が連なっている。皆、菊の書を提出した者ばかりだ。集められた書はすべて、文徳の目により筆蹟鑑定が行われていた。同様に紙も判別されていたのである。

 残念ながら、あれだけの数の中からでも偽筆に繋がる手蹟の発見に至らなかったが、偽書で使われていたものと同じ工房の作と思われる紙を見つけることには成功していた。

 博全は、それを取り扱っている店を探し出したらしい。宮処にある五軒ばかりの店名が記載されている。そのうちのふたつは、文徳も利用したことのある紙店だ。


「これらの店に行って探りを入れてきてほしい。製造元や不審な購入者の情報があれば助かる」

「えっと、僕がですか?」

「どこも李家とは付き合いのない店だ。下手に関わって、今後の取引を期待されても困る。それに、見分できるのはおまえしかいない」

「はあ……。わかりました。近々、暇をみて行ってみます」


「暇?」と博全が眉をあげたので、渋々「なるべく早く」と言い直した。

 博全は満足げに笑んだ口元に椀を運ぶ。その優雅な所作が、なんの飾り気もないただの椀を名器に仕立てあげた。


 しばらくは酒肴を嗜みつつ、これまでに得た情報や調査の報告を確認しあう。

 ふいに、芳しくはない進捗状況を憂うようにそれが止んだので、乾いた風が木戸を叩く音に文徳は耳を澄ませていた。


「文徳は、淘利とうりさまの御手蹟を知っているか」


 やがて、風音にも負けてしまうくらいの小声で博全が問いかけた。耳馴染みのない名は、じき訪れる冬への備えに思案を巡らせていた文徳をへと引き戻す。


「淘利さまというと、江霞州の? いいえ、残念ながら。でも噂では、見事な書画の腕前をお持ちだとか。とりわけ、流麗な草書は現在の葆国屈指ともうかがっています」


 仕官間もない文徳では、皇家に連なる人物の書を目にする機会に恵まれることなど稀だ。琥淘利が宮処から遠く離れた地に赴いてからずいぶん経つとなればなおのこと。


「私も一度だけ拝見したことがあるが、風に身を任せる柳のようにも、木の葉を翻弄する流れのようにも感じられる手蹟であった」

「つかみ所のないあの方そのものみたいな文字だな」


 剛燕の目元がわずかに厳しくなる。琥淘利に対し、あまりよい印象を持っていないのだろうか。文徳はうろ覚えの来歴を思いだそうとした。


「お歳は陛下より少し上でいらゃっしゃいましたっけ」


 父親は先々帝の弟の嫡男だった。つまりは彼は、今帝の苑輝とは再従兄弟はとこという間柄。なんとも遠い血縁のようにも思えるが、存命している琥氏男子の中での血の濃さは上位にある。玉座に近い者ほど多く、先帝の御代に起きた戦乱や陰謀により命を落としていた。


「苑輝さまは皇太子となられる前から前線にたたれていたのに、あの御仁は永菻から一歩も出ることもなく、楽を奏で、書画に勤しんでいらしたのだ。そのおかげで生き延びられたともいえるが」


 剛燕が椀の上で瓶を振り苦い顔を見せたのは、酒が空になったからだけではないだろう。

 国にとって毒にも薬にもならないと判断された淘利は、苑輝に帝位が移ったのちもその態度を変えてはいない。剛燕は、彼の仕事ぶりを目にしてきたばかりなのだからよけいだ。

 この家に、ふたりの口に合う酒などあっただろうか。少しでも気が晴れればと、文徳は厨房をのぞきに行こうとした。


「……先日、その淘利さまへ勅書が送られた」 

「荀寛の件か」


 扉にかけた文徳の手が止まる。


「表向きは、新年の大朝会への出席を促すものらしい。江霞州へ行かれて以来、一度も戻られていないから、と」


 博全の物言いは、奥歯に物が挟まったように切れが悪い。剛燕は剛燕で、目を閉じ思案に耽ってしまう。

 異様な雰囲気を感じた文徳は戸口に膝を揃えて座り直し、続く言葉を待つ。背後の建付けの悪い戸から流れてきた冷気が足元に溜まりはじめ、たまらずくしゃみがでた。


「淘利さまのご嫡男は、年が明ければ十五になられるそうだ。いつ加冠されてもおかしくはない」


 淡々と告げる博全の声に、剛燕が瞼をあげゆっくりと息を吐く。


「夫人はそう家の出だったな」

「ああ。陛下の御母君……先の皇后の姪にあたる方だ。その兄は今、諸陵局にいる」


 またしても血脈が複雑に絡まり、文徳は混乱してきた頭を整理する。

 曹家は葆でも名の通った家柄だ。一時は、なにかと望界帝に諌言し煙たがられていた李家をも凌ぐ権勢をふるったほどである。しかし苑輝の即位後に当主が代替わりした現在、その勢いは削がれいた。

 文徳は、そういつという名に辿り着き、ぽんと手を打つ。


「ああ、あの雑な字を書かれる方ですか」

「雑?」

「菊宴でも書を出されていましたね。一際質の良い料紙を使われていたので覚えています。決して下手ではないんですよ。でも……そう、雑なんだなあ。とくに終筆が」


 筆蹟を思い浮かべながら、宙で手を動かす。見えない菊を書き終えたようとした文徳の前に壁ができた。見あげれば、音もなく移動してきた剛燕が、口元に人差し指を立てていた。

 それに逆らい意図を問おうとした瞬間、剛燕が扉を開く。普段は開閉にいささか苦労させられるそれが、実に滑らかな動きで開け放たれた。


「夜分、お騒がせして申し訳ありません。周楽文殿」


 戸口に身体を向けた博全が座したまま拝揖する。


「師匠!?」


 文徳が首をひねって振り返ると、深衣を羽織った楽文が剛燕の脇から姿を現し室内を覗く。文徳と目が合うと、綿雲のような眉がひそめられた。


「客人をこのようなむさ苦しいところへお通ししたうえ、お茶もお出ししていないとは」

「えっと……。すみません、ただいまご用意します」

「いやいや、お構いなく。ご覧のとおり、酒も肴も持参しましたから」


 立位で礼をしたあと、剛燕は卓上を示して、房から飛び出そうとする文徳の袖を捕まえ止めてくれる。


「そうですな。若い方に茶では物足りませんか。ならば、酒をお持ちするとしましょう。とっておきのものがあるのですよ」


 ほぼ空の皿と横倒しの瓶が目に入ったのか、笑いながら楽文が踵を返す。秘蔵の酒ときいた剛燕の頬が緩むが、博全が辞去を申し出る。


「お気遣いはご無用です。夜も更けたことですし、ちょうどお暇しようとしておりましたので」

「おや、それは残念。ではまたの機会に」

「お休みのところを失礼いたしました。――通り道だ。送っていこう」

「は? オレは……」


 少々腑に落ちないといった面持ちを残す剛燕を、博全は待たせていた軒車へと促した。

 墨を刷いた上に雲母を散らしたような夜空の下。乗り口に足をかけた剛燕は、思い出したように振り返り声を張り上げる。


「おっ! そうだ、文徳。賜った釵はどうした? あれでの支払いができるではないか」

「ふざけたことを申すな。妓楼の花代になどしてよい品ではない! いいから早く乗れっ!」


 博全が全力で剛燕の背を押すが、びくともしない。

 文徳は焦った顔で辺りを見回し、軒車に駆け寄った。


「ぎ、妓楼とか、大声で叫ばないでくださいよ! あれはもう持っていません。明麗に渡してしまいました」

「ほう」

「なんだと!?」


 妙に感心する剛燕と、彼から放した手で文徳の胸倉を掴みいきりたつ博全。傍らに控えた、剛燕の馬の手綱を持つ李家の従者は、助けを求めても当然素知らぬふりをする。


「あ、あげた、わけじゃ、ないです! お、思い入れのある釵、と聞いたので、返して、もらおう、と……」

「ふん、つまらん」


 興を削がれたように鼻息を鳴らし、さっさと剛燕は軒車に乗りこむ。


「なるほど」


 息を詰まらせながらの説明に納得した博全から解放された文徳は、晩秋の夜気を思いっきり吸う。胃の腑の底まで届く冷たさを感じたら、実は剛燕が提案したように売り払おうとしていたなどとは、もう二度と言い出せない。

 ようやく乗車した博全の指示でゆっくりと動き出した軒車とそれにあわせて進む馬を、文徳は落ち葉を転がし乾いた音を立てる風に肩を縮めて見送った。



 ◇



「馬のほうが早いんだが」

「酔っ払いに落馬されては面倒だ」

「それほど呑んではいない。――それで。おまえが気にしているのは淘利さまのことだな」


 名酒を呑み損ねたあげく、愛馬の手綱を他人に任せることになった剛燕が、原因を作った博全に不機嫌に訊ねる。周囲は覆われているうえに蹄や車輪の音が響くので、少しくらい声を張っても外にもれ聞こえることはないのだが、自然と声は密やかなものになった。

 博全の無言は肯定だ。


「ならば、楽文殿にうかがえばよかったではないか。あのお人なら、手蹟以外にもいろいろとご存じだろうに」

「すでに第一線から身を引かれている方だ。お歳のこともある。果たして巻き込んでよいものか……」


 文官としても書家としても、周楽文は博全にとって尊敬できる人物である。確かな年齢は不明だが、父、宜珀より上であることは疑いようもない。穏やかな余生を乱すのは、さすがの博全でも気が引けた。

 ところが剛燕は、珍しく殊勝なことを言いだした博全が気に入らないらしい。口を曲げ、狭い車内でふんぞり返る。


「年長者を敬う心があるなら、オレにも向けられてしかるべきだろう」


 生まれも仕官も剛燕のほうが先だ。だが博全は、鬱陶しいとばかりに舌打ちで一蹴した。


「年数だけが問題ではない。相応の知性と振る舞いを身につけてから要求してくれ」

「オレのどこに不足がある。十分ではないか。……うん。でもまあ、ご老体に頼るのも少々情けないな」


 敬意の欠片もない博全の対応に不平を顕わにしつつ、剛燕も楽文の協力を仰ぐことを躊躇う。これからの苑輝と葆を支えるのは自分たちだという自負と矜持は、共通のものだった。

 代の移行は緩やかに、だが確実に訪れている。それは認めざるを得ない。


「主上も四十路を迎えられる。皇太子の空位も、そろそろ限界だ」


 これまでは大病せずにすんできた皇帝だが、人は必ず年を取る。立場上、常に命の危険に晒されている事実も、泰平の世になったとはいえさほど変わらない。不測に備えるは、上に立つ者の義務でもある。それは皇帝も重々承知のはずだ。


「血統からいくと淘利さまが有力だが、苑輝さまより上という年齢に無理があるな。となれば……」


 剛燕は皇帝の死が前提の話に不快感を表情で示すが、主君より若い者たちには避けて通れない問題である。

 そしてふたりが導き出した答えは同じだった。博全は肯く。


「そのご子息、健尚けんしょうさまに帝位を渡されるおつもりではないだろうか」


 勅書を受けた淘利が、成人間近の息子を伴い帰京する可能性は高い。打診のため、ともすれば大朝会で宣布するために呼び寄せるのではないかと思い至ったのだ。


「健尚さまがねえ。博全、やっぱりおまえが次の皇帝になれ」

「悪いが、冗談に付き合ってやれる余裕はない。そこまで言うなら、あんたがなればいい」

「それこそ、最悪に笑えない冗談だ」


 剛燕は股の間に立ていた佩剣に両手でもたれる。全体重が掛けられた鞘の先が、床板にへこみを作った。


「ご夫妻はどのようにお育てになったのだろうか。健尚さまと面識があるなら教えてほしい」


 博全の顔に苦悩の影が濃く落ちる。


「気がかりは、才覚か? 為人ひととなりか? どちらにせよ、親の望みどおりに育つとは限らない。玉座に重要なのは、琥家の血ではなかったのか」

「それはそうなのだが……」


 琥家の血脈を守り繋げるは、李家の総意である。しかし問題はその》なのだ。


「曹家が外戚となるのが気に入らないんだろう?」


 剣身を抱える剛燕が、煮えきらない態度をとる博全の懸念を言い当てる。

 博全は垂幕をちらりとめくり、まばらに篝火が焚かれた仄暗い町並みを眺めて、重たいため息を吐き出した。すると、併走する馬から迷惑げな荒い鼻息をかけられ、慌てて閉める。


曹家だからな。こうなると、明麗が皇后陛下のお側にいるのも、それほど悪いことではないと思えてくる」


 望界帝の時代、曹皇后を筆頭になにかと黒い噂の絶えなかった家門だ。健尚が後嗣となったのちは、まだ直系の皇子を産む可能性の残る百合后の身が危ぶまれる。皇后に万一のことがあれば、皇帝は二度と妻帯を望むことはないだろう。そのような事態に陥ったとしたら、本当に苑輝の血は絶たれてしまう。

 後宮に口も手も出せない博全は、呪詛を見出したように、幼い頃から妙なところで働く明麗の勘に頼るしかないのだが、いまのところ期待よりも不安のほうが大きい。


「まあ、本人もはりきっているし、今しばらくは猶予がある。後宮あちらは明麗に任せようじゃないか」

「やけに気楽だな」


 眉間に深いシワを刻んだ博全が苛立ちをぶつけるが、揺れる釣灯が剛燕の不敵な笑いを照らす。


「なにやら、おもしろいことを起こしてくれそうな気がしてな」

「他人事だと思うなよ。あれの招く災厄はあちこちに飛び火する癖がある」

「望むところ」


 剛燕が笑みを深めた。

 いつの間にか、車輪から伝わる振動と音は止んでいる。


「やっと我が家に着いたらしい」


 窮屈な箱から出た剛燕は、機嫌を損ねている馬の鼻面を撫で、受け取った手綱を慌てて出迎えた家人に預けると、星が降ってきそうな夜空に向け大きく伸びをした。右手に携えたままの剣が高く掲げられる。


「まあ、こちらはこちらのできることをするまでだ」

「できぬことでも遂げてみせる」


 ひらひらと手を振りながら門の中へと消えていく剛燕の背に決意を突き刺し、博全は発車を命じた。

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