叛意の濁流《3》

 壱、一日は礼に始まり礼に終わる

 弐、火急の用なくば走るべからず……


 掲げられた額を見上げた首を、思い切り傾ける。しかし角度を変えたところで、宮女の心得を説く書は変わらない。


「これ、方颯璉さまが書かれたのよね」


 明麗は思わず、隣の孫恵に確かめてまった。


「あたりまえじゃない。こんなに厳しい字を書く方がほかにいらっしゃると思う? 前を通るたびに緊張してしまって困るくらいよ」


 そう話す側から、懇ろに目礼をしている。

 高みより監視するような颯璉の文字の中に、文徳は温かみがあるというが、明麗にはそれが感じ取れない。けれど、この手蹟の持ち主が、嘘などつかないことは知っている。なにより師である林文徳がいうのだから間違いはない。

 明麗はもう一度、顔をあげ額を見据えた。

 博全からは、皇宮内であの目録のほかにも偽書が見つかっており、その犯人を捜索中だとの説明を受けている。騒ぎ立てて証拠を隠滅されないよう秘密裏に動いているゆえ明麗もそのつもりで、としつこいくらいに念を押されたが、言われるまでもない。格別な思い入れのある画に呪詛がかけられていたなどと皇后が知れば、また心は大きく乱されてしまう。

 迂闊に当時を知る者たちに聞き回ったりなどして不審を抱かれるより、話は最小限に抑えるが得策だ。明麗は手っ取り早い方法を採ることに決めた。


「颯璉さま本人にお伺いすればいいんだわ」


 ついに立后かという慌ただしいなかで届いた献上品の数の多さと経た年月は、颯璉の記憶を曖昧にし、あの鴛鴦図の出所は覚えていないという。しかし、話をするうちになにかの手がかりを思い出せるかもしれない。まずは博全から預かった目録を見せ、自分の筆蹟であるかを見分してもらうことが先決だ。


「先に御膳所へ行っていて! 忘れ物を思い出したの」

「今度はいったいなんなのよ」


 思いたったらじっとなどしていられない。呆れ驚く孫恵を置き去りにして走り出そうとする明麗の背に、間髪を入れず叱責が飛ぶ。


「廊は走らない! あなたはこんな簡単な文字も読めないのですか!?」

「はいっ! 申し訳あ……皇后さま?」


 振り向きざま反射的に下げた頭を恐る恐る戻すと、口を覆う袖の下で忍び笑う皇后がいた。


「どう? 颯璉に似ていたでしょう?」

「え? ええっと……」


 明麗は目を泳がせて返事を濁す。皇后の背後より放たれる颯璉の冷やかな眼差しからは、たったいま受けた言葉以上の非難を感じた。

 そんな明麗の反応が不服だったのか、軽く頬を膨らませていた皇后が「まあ、いいわ」と袖を払う。


「それより明麗。あなた、わたくしに隠していることがあるわね?」

「……そのようなことは、ございません」


 明麗が努めてゆったりとした動作を心懸けて揖礼するも、虚を突かれてできた一瞬の間を、皇后は見逃してくれなかった。


「わたくしはこの国の皇后です」


 凛と張る声音は、つい数日前にはその位放棄しようとしていた者のものではない。深い覚悟を再認識させられ、明麗はさらに腰を折る。


「御意にございます」

「ならばわかるでしょう? わたくしには、この後宮を陛下よりお預かりしているという責任があるの。どのように些細なことであろうと、隠し立ては許しません」


 現在の後宮で皇后に逆らえる者など、皇帝ただ一人を除いているはずもない。

 明麗は天を仰ぎたくなる気持ちを抑え、床に向け吐き出しそうな悔恨も呑みこんだ。この手の腹芸は、まだまだ父兄の足下にも及ばないと痛感させられる。


「皇后陛下の仰せのままに」


 己の失態を嘆き無念が隠せない声に、皇后は勝者の笑みを見せた。


 ◇


 方卓に広げた目録の上に重い嘆息が落ちる。皇后が昏い瞳を傍らの颯璉に移すと、女官長は神妙な面持ちで首を横に振った。


「非常に似ておりますが、私の手蹟ではありません」

「そう……」

「あの折に私が提出した目録には、鴛鴦図の記載があったはずでございます」


 それを証明したくてもできないことに歯噛みする颯璉が、偽証しているようにはみえない。いまも、せめてなにかを思い出せないかと、必死の形相で目録を睨み付けている。


「となれば、すり替えられたのは後宮の外で、となりますね」


 現時点で偽書が発見されている場所を鑑みても、まだ後宮にその手は及んでいないのかもしれない。もちろん気を許すわけにはいかないが……。

 偽筆の件から軸の贈り手を割り出すのは、ここでは難しそうだ。明麗は苛立たしげに爪を噛む。


「やはり、丹紅珠という侍女の身辺から洗うのが最善でしょうか」

「紅珠……」


 吐息のような皇后の呟きには悲痛がこもる。


「その名をお耳に入れるだけでもご不快になられるでしょうが、彼の者についてなにか思い当たる節などあられませんか」

「不快? いいえ、そんなことはないわ」


 皇后は否定するが、そのかんばせの憂いは晴れるどころか深まるばかり。


「彼女の悩みや苦しみに気づいてあげられなかった後悔なら、いくらしても足りないくらいだけれど」

「家族を人質にとられていたとしても、丹紅珠のしたことは決して赦されることではありません」


 人の好すぎる言葉に明麗が鼻息を荒くすると、皇后は困ったように眉尻を下げた。白い指が目録をさまよい、朱線の上に置かれる。そこは呪符が隠されていた桃果図ではなく、青磁の碗のほうだった。


「この器はたしか、あの娘が割ってしまったものだわ」


 皇后への献上品を破損させてしまうとは、ずいぶんと粗忽な侍女だ。明麗は、自分のことを高い高いの棚に上げて呆れてみせる。


「あとになってわかったのだけれど、釉薬に毒が混ぜてあったそうよ。熱いものを注ぐと、それがゆっくり溶け出す仕組みになっていたとか」

「そんなことまで……」


 絶句する明麗に、皇后は長い睫毛を伏せた。


「始めは、わたくしを怒らせて破談にさせるだけでいいと命じられていたらしいの。だから、雨漏りをさせたり、会話を避けたり。子どもの嫌がらせみたいでしょう? それがいつまで経っても出ていかないものだから、だんだん手段も過激になっていったのね」 


 少し腹の具合が悪くなるだけと渡された菓子を盗み食いしたネズミが死んだのを発見し、紅珠は自分のしようとしていることの恐ろしさに気づいた。しかし断ったり訴えようとすれば、家族の身に危険が及ぶ。板挟みのなかで悩んだ末、失敗や偶然を装い証拠品を始末すると同時に、皇后の身を守っていたというのだ。


「では、桃の画ではなく鴛鴦を飾るように勧めたのも?」


 害が及ばないほうを選んだつもりだったのだろう。


「まさか、刺客本人が計画を潰していたなんて、だれも考えなかったわ」


 皇后はふっと自嘲めいた嘆息をもらす。


「それどころか、わたくしは身の回りで起こっていることに気づくこともできなかった。ただ、皆に守られていただけだったのよ」


 明麗に白い手が差し出された。それが、抱えている鴛鴦図を渡すように催促するものだと知りためらう。しかし皇后は「大丈夫」というように微笑み、明麗の腕から軸箱を抜き去った。

 取り出した軸の巻緒が解かれると、卓上に番の鴛鴦が姿を現す。しかし緑の瞳は、その下にある川の流れに釘付けになっていた。


「明麗に教えてられてもわからないわ。ここに文字が隠れているなんて」


 流線に指を這わせようとした皇后の手を、颯璉がやんわりと掴んで止めに入る。いつも以上に硬い顔つきには、万に一つの可能性だとしても危ういものに触れさせたくないという想いが見てとれた。


「ここに用いられているのは、おそらく呪符などに使われる手順を踏んだものではないだろうとのことです。なのでわたしの師も、呪詛と判断していいものか迷っておりました」


 負の想いを抱えて書いた文字の全てが呪詛となるわけではない。文徳は頑なに文字を擁護していた。

 それでもこの画が皇后に与えた影響は大きく、水流を映す瞳は鬱々たる陰に呑みこまれていく。


「流のという字には、そのような恐ろしい謂れがあったのね」


 せっかく上向きかけてきた皇后の気持ちを、また沈めるようなことになってしまった。このままでは皇后は、『流』ばかりかすべての葆の文字に対して悪い心象を抱きかねない。文徳が危惧していた事態を招いたのは自分だ。

 口を結ぶ皇后から視線を逸らした先の小卓に、明麗は書き損じの文字をみつけた。

 拙い運筆で、けれど一生懸命に書かれた名からは、たとえ横線が一本多かろうが、を間違えていようが、どんな能筆家が記した文字よりも愛おしむ想いがあふれ、明麗の胸にも仄かな熱が生まれる。


「筆を、お借りいたします」


 明麗は卓に着くと、新たな紙を用意し筆架から長鋒の筆を選ぶ。しなやかな穂先に、丸みを帯びた硯の墨池で墨を含ませた。心ここにあらずといった体だった皇后も、なにを始めるのかと手元を覗きこむ。

 明麗は師に倣って姿勢を正し、瞼を閉じる。これから文字にする情景を思い描きながら深く吸った息を、ゆっくりと吐き出した。

 真新しい料紙に意識を集中させ、ふわりと筆をのせる。手首は固定し、肩から腕を動かして、ともすれば意志とは異なる方向へ走りそうになる長く扱いづらい穂先の弾力を活かし、羽毛で撫でるように滑らせていく。ためらっている余裕はない。一度も筆を止めずに、ただひと文字だけを書きあげた。

 草書で綴られたそれは皇后には読み取れないようだ。小さな頭を右に左に傾ける。

 文徳の書だったら、もっと違う反応を得られたのかもしれないが、いまの明麗の実力ではこれで精一杯だった。


「この文字もです」


 皇后の顔が強ばった。しかしすぐに大きな目を瞬きさせて、鴛鴦図の『流』と見比べる。


「なんだか雰囲気が違うわ。うまく言えないけれど、形だけではなく……」


 皇后は困惑するが、明麗の内心は小躍りしそうなほど弾む。気を許すと緩んでしまう顔を引き締めた。


「冬の間に張った氷が溶け、雪解け水とともに流れる小川を感字にしてみました」


 春の訪れに萌え出た緑を映すせせらぎ。その中で誕生する新たな生命。降り注ぐ陽光に水面をきらめかせ、雨の恵みを受けながら細流は徐々に太くなり、やがて大河へと様相を変えていく。


「春の……小川」


 静かに閉じられた皇后の瞼の裏には、それが浮かんだのだろうか。うっすらと花顔がほころんだ。


「かけがえのないものを否応なしに奪っていく、抗いがたい流れもあります。けれど、新たなものを生み出し育む流れも、この世にはたくさん存在していると思われませんか」


 明麗の言葉で、はっとしたように皇后が顔をあげる。見晴るかすような眼差しは、外朝――皇帝の御座する方角に向けられていた。

 そこはまさに、この国の流れを作る場所。明麗は皇后とは少々異なる想いをのせて、玉座のある間まで届けとばかりに視線を送る。

 他人が作った流れをお膳立てされた船で進むより、己で艪を漕ぎ水路を変えたい。新しい流れをこの手で作ってみたい。後宮ここへきて、その想いはいっそう強くなっていた。たとえ途中に瀑布が待ち構えていようが、乗りこんだ舟が襤褸だろうが、ほかの誰でもない、自分で決めた路ならば、きっと楽しい船旅になるはすだ。

 後宮という鳥かごに置かれた身を無視した夢想は、明麗の頬を自然と薄紅に染める。そこへ皇后の視線が注がれていると気づき、さらに赤みが増していく。

 夢見心地な目は、冷静な瞳とかち合う。


「新しい流れを作るのは大変よ。他国から嫁いできたわたくしが、正妃になることを受け入れられない人がいるように、ね」

「それは……」


 妾妃ならともかく、異人の皇后が立つことに宮廷内外からの反対がまったくなかったわけではない。その声は、いまなお根深いところで燻っている。

 いつまでも排他的な風潮の残る自国の狭量を恥じ入るように、明麗は口を閉ざしてしまった。 


「ああ、誤解しないでちょうだい。なにも諦めているわけではないの」


 口の両端をやわらかくあげた皇后の優美な微笑はどこか不敵にも見えて、明麗は背筋を伸ばす。


「だって、わたくしもそうだったから。話す言葉やまとう衣もまったく違う征服国の将である苑輝さまが、初めは恐ろしく感じたわ。けれど言葉が通じなくてもわかったの。あの方は、人と人とが争い血を流すことを望んでいないと。きちんと相手を知れば、想いは理解しあえるのよ」


「でも」と、皇后は颯璉を盗み見てから小さく手招きする。思わず身を乗り出した明麗に囁いた。


「本当はね、後宮というものだけは、理解し納得しようとしたけれど難しいわ。愛する方が、たくさんの女人に囲まれているのを見せつけられながら、いっしょに暮らすだなんて」


 拗ねた口調は乙女のように愛らしいが、憂いを帯びた瞳には苦悩が見え隠れしていた。その想いを封じて明麗を夫に娶せようとした心中を察すれば、胸が詰まる。

 明麗は、自分も両手で隠した口を、皇后の耳に近づけた。


「そのご心配は不要です。我が国の皇帝陛下が床を共になさるのは、この先も百合后さま、ただおひとりにございますので」

「と、床って!?」

「房事、ならご存知でしょか。それとも交わりのほうがわかりや……」 


 いきなり口を押さえられ、皇后の指を噛みそうになる。目を瞬かせて奇行に走った皇后を見ると、白雪の如き肌は耳の縁まで紅葉のように色付いていた。


「知っているわ。大丈夫。わかってます。だから、女の子が昼間から堂々とそのようにはしたない言葉を口にしないで!」

「……はい」

「夜でも控えなさい。とくに殿方の前では決して言わないこと!」


 腑に落ちない明麗の様子をしっかり読み取った皇后は、先んじて注意を促す。そのうえ卓に肘をつき、頭を抱えて深く嘆息されては、すでに言ったことがあるなどとは申告できなくなってしまった。


『これが文化の違いというものなのね。それとも、明麗この子が特別なのかしら』


 貞淑をことさらに重んじる国で育った皇后にとって、あけすけな表現は刺激が強いようだ。


「いま、なんとおっしゃられたので?」


 聞き慣れない異国の響きが、明麗の好奇心をくすぐる。

 問われてはじめて、皇后は故郷の言葉をしゃべっていたことに気がついたらしい。自分の発した母国語の余韻を辿るように、くちびるを指先でなぞった。


「あなたにお小言を言いたくなる颯璉の気持ちが、少しだけわかったわ」


 指を細い顎に置いたまま小首を傾げて思案する。やがて大きく肯くと、明麗の書いた『流』を手にとった。


「颯璉、糊をちょうだい」


 唐突な要求にも眉ひとつ動かさず、有能な女官長はさほど皇后を待たせることなく、所望の品を用意した。

 墨が乾いていることを確認すると書を裏返し、料紙の四辺に刷毛で糊を塗っていく。明麗と颯璉が訝しみを隠さずに見守るなか、皇后はなんとその書を鴛鴦の下に貼り付けてしまったのである。四隅を手で押さえて密着させると、画から顔を離して満足げに笑んだ。


「これでいいわ」

「なにを、なさったのですか」


 さすがの明麗も二の句が継げず、不格好になった軸をみつめる。


「わたくしから大切なものを奪った流れを変えたの。希望を運んでくれる明るい流れにね」


 すっかり様変わりした鴛鴦図と対峙すると、皇后はいたずらに気がすんだかのように得意げだった表情を険しくした。


「この画の呪いが、わたくしのみならず、陛下の御子をも狙ったものだとしたら許せない。このままにはしておけないわ」


 皇后は華奢な身体の胸を張り決意を示す。髪と同じ黄金の歩揺が硬質な音を奏でた。


「だからお願い。明麗も力を貸して」

「もとより、そのつもりでおります」


 明麗は、自国の皇后の下命に叩頭で応えた。

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