送筆

宮女の心得《1》

 ほう宮処みやこ永菻えいりんは霊峰雷珠らいじゅ山の裾野に沿って広がっている。北の守りを険しい山々が務め、その山から流れる清水を引いた堀にぐるりと囲まれた皇城への出入りは、四方に据えられた大門によってのみ可能だ。

 東西南北、それぞれに建つ門には、築城の際に四書仙と呼ばれた者たちによって書かれたと伝わる扁額が掲げらている。葆の皇城はその感字かんじに込められた、国の安寧を願う彼らの強い想いにより、四百年の永きに渡り他国からの侵略から守られているのだと信じられていた。

 皇宮はその広大な敷地の、さらに塀で囲まれた内にある。

 皇帝が政務を行う外宮と生活の場となる内宮に分れ、文官武官といった役人はもちろん、女官に従者など多数の者が詰めている場所である。故に下位の入れ替わりなど珍しいことではない。


 しかし常に新しく任を受けた者がやってくることに慣れている宮中でも、その日は様子が少々違っていた。外宮から内宮へと続く回廊の周辺には、なぜかいつもより人が多い。

 警邏けいらを装い本来の巡回場所から逸れて紛れ込んでいる武官や、同じ書物を手に回廊で何度も往復を繰り返す文官など、あきらかに挙動不審な者が目立つ。さすがに見兼ねた上役の官人が注意を促そうと、重い腰を上げたそのときだ。

 庭師が丹精込めて育て上げ咲かせた、色とりどりの花々が霞んでしまうほどの大輪の花が姿を現した。

 壮年の女官が先導するのは、薄紅の上衣と若草色の裙という娘らしい装いの李明麗り めいれいだった。白く華奢な首筋を飾る襟や初夏の風が揺らす袖口、裾には精緻な刺繍が施され彩りを添える。絹糸のような黒髪は複雑な形の髷に結われ、べにを引かずとも紅い唇と同じ色の珊瑚のかんざしが揺れていた。

 間抜けにぽかんと大口を開けたままの若い文官の横を通り過ぎる。目線を少し下げるだけの会釈に添えられた微笑みと残された微かな伽羅の香に、持っていた書物を取り落とそうになっていた。

 明麗の姿が内宮のさらに奥へと消えていくと、誰とはなしに息をく。その場にいた者が皆、呼吸することさえ忘れていたようだった。


「あれが名高い李花李家の姫か。すももというよりは牡丹だな」


 ある一人が零した呟きがここに居合わせた者たちの総意だろう。彼女が向かった先を眺めやる。

 皇宮の最奥。ただ一人を除いて軽々しく足を踏み入れることを許されない、後宮に納められた至高の花。

 皇宮の底辺で働く自分たちが、その姿をこのような間近で目にする日など二度とはこないだろうと、そのときはほとんどの者が本気で思っていた。



 先へ進むにつれ人気が減っていき、ここが皇宮の中なのかと疑いたくなるほどに緑が濃くなっていく。新緑の隙間から零れる陽光が帯になって軟らかい土の地面に降り注ぎ、小鳥たちがさえずりで楽を奏する。

 雷珠山山中に迷い込んでしまったかと錯覚するがそうではない証拠に、小川のほとりにはよく手入れされた四阿あずまやが建ち、その奥には桃園が広がる。いまは青々とした葉を茂らせているが、花の頃になれば辺り一帯が薄紅色に染まるのだろう。

 それにしても、皇后陛下が住まわれる宮が近いというのに、あまりにも不用心ではないだろうか。人の目がないのをいいことに、無作法にも視線を巡らした明麗は不審に思った。

 と、前方から聞こえる咳払い。前を歩く女官がひたと足を止めた。辺りを見回していた明麗は気づくのが遅れ、彼女の背に追突する寸前でどうにか踏み止まる。


「李明麗殿。淑女たる者、そのように落ち着きのない行動は慎みなさいませ」

「し、失礼いたしました。ですが、皇后陛下のお住まいの周囲がこのように手薄な警備でよろしいのですか。方颯璉ほう そうれん様」


 この皇后付きの侍女頭だと名乗った女官には、背中にも目があるのかと内心でおののきながらも、明麗は艶然とした表情を崩さずよそゆきの声で尋ねた。


「陛下は、御身の回りが騒がしいことを好まれないのです。なれど、要所には抜かりなく警護の者たちを置いているので、心配は無用です」

「そう、でしたか」


 返ってきた取り付く島もない答えに、さすがの明麗の頬も引きつる。この女官、どうにもいけ好かない。同意を求めて振り返ると、李の家から付いてきた春栄しゅんえいが無言で首を横に振る。その眼はこれ以上余計なことを言うな、するなと物語っていた。

 明麗は小さく肩をすくめ、再び歩き出した颯璉の後に続く。

 ほどなくすると視界が開け小さな宮が現れた。その小ぢんまりとした建物に明麗は驚きを隠せず、春栄が止めるのも聞かずに眉をひそめて颯璉を詰問する。


「なぜ皇后さまがこのような寂れた場所にお住まいなのでしょう。恐れながら、皇帝陛下のご指示だとしても――」

「控えなさい、李明麗」


 静かだが逆らえないものを語気に感じて、明麗は唇を噛む。彼女とて、出過ぎたまねであることも、颯璉に向けるものでもないということもわかっている。だがそれでも、一言物申さずにはいられないのが明麗だ。


「皇后陛下はこちらの離宮でご静養中なのです。軽率な言動には十分に注意なさい」

「……ご静養。皇后さまはご病気なのですか? お加減は!?」


 父たちからはそのようなことは聞いていない。取るに足らないものなのか、それとも軽々しく口外できないほど深刻なのだろうか。もし重い病だとしたら、それこそ早く世継ぎを、などと言っている場合ではない。

 いや。もしや宜珀ぎはくはそれを知っていて、あえて告げずに明麗を後宮に送り込んだのではないか。答えの見えない疑心暗鬼が明麗を捉える。

 予想外のことに気が逸り明麗が息巻くほど、颯璉の面のように動きの少ない顔からさらに色が失われていく。急に周囲の気温が下がったような気がした。


「あなたのその二つの耳は飾りですか。それとも、つい今し方、私が申し上げたことを理解できなかったのでしょうか」


 凍りつくような視線を送られ口をつぐむ。いまここでなにを言っても、納得のいく答えがもらえる気配はない。ならば、自分の目と耳で確かめればいいことだ。

 つん、と細い顎を上に向けて宮と正対する。

 すべては皇后に会ってから。そう決意すると颯璉を追い越し前へ進む。ここへきて引き返すという選択肢は、彼女の中には毛頭なかった。



 ◇



「そうかしこまらないで、楽になさいな」


 謁見の間に通され儀礼に則り深く頭を下げたままの明麗の上に、鈴を転がすような声がかけられる。再度面を上げるよう促され、ようやく明麗はおもむろに頭を上げた。

 淡い吐息が壇上から漏れる。と同時に、明麗も長い睫毛が縁取る大きな目をしばたたかせた。


「本当に。聞きしに勝る美しさだこと」


 陶然とした表情の明麗の姿に、目を細めた皇后が小首を傾げて薄く笑う。


「どうしました? この髪と瞳の色が気持ち悪いのかしら。この国では珍しいのでしょう」

「とんでもないことでございます!」


 見当違いの問いを慌てて否定する。気持ち悪いどころか――。


「わたしがいままで会ったことのあるどの異国の方たちより、綺麗な瞳の色だと……」


 不敬なことだとは承知しながらも、翠玉のように澄んだ色の瞳から目が離せなかった。


「李明麗」


 案の定、方颯璉からたしなめの声が上がるが、皇后は軽く右手を挙げてそれを制した。


「あなたは異国人と会ったことがあるの? この永菻で?」

「はい。李のやしきには、異国からの商人も多く参りますので。中には葆の言葉を巧みに操る者もおり、幾度か話を聞かせてもらったこともあります」


 もちろん家の者の目を盗んでの所行である。だが、宮処どころか家からもめったに出ることのできない娘の身としては、まったく異なる文化を持つ見知らぬ国の話はどんな宝玉よりも魅力的だった。


「ではわたくしの祖国の話も耳にしているのかしら? ぜひ、ゆっくりと話を聞かせてもらいたいわ」


 遠く離れた懐かしい故郷に思いを馳せたのか、皇后は頬を微かに紅潮させた。「さっそく私室へ」と立ち上がった姿はたしかに線の細い印象だが、特段に具合が悪そうでもない。すでに快癒したのだろうかと訝しんでいると、皇后はゆっくりと明麗に近付きその手を取った。


「っ!?」


 気安げな行為自体にも驚いたが、なにより肝を抜かれたのは皇后の手の冷たさだ。その肝斑しみ一つない真っ白な手は新雪を固めて作られたのかと思うほど、人としての体温を感じられなかった。


「さあ、参りましょう。陛下から珍しいお菓子をいただいたのよ」


 長年の友人を誘うように促され、戸惑いながらも明麗は腰を上げかける。


「お待ちくださいませ」

「まだなにか?」


 颯璉の制止で明麗が反射的に身体を強張らせた。またなにか、彼女のかんに障るようなをやらかしてしまったのだろうか。


「その者は本日付で女官となったばかり。まずは、宮女としての基本を覚えさせとうございます」

「ですが、この娘は――」


 皇后自身が宰相に頼んで呼び寄せた娘だ。己の側におくことのどこに問題があるのか、と困惑気に柳眉を下げている。


「いかに李宰相のご息女と言えども、一度ひとたび皇宮に入れば一女官に過ぎません。女官としてなんの知識も持たない者を、皇后さまのお側におくわけには参りません」


 颯璉は主人相手に一歩も引かずぴしゃりと言ってのけると、動くに動けなくて中腰で止まっていた明麗を、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま視線だけで見下ろした。


「それもあなた自身が嫌というのでしたら、無理にとは申しませんが」


 言外に「どうせ役になどたたないのだから、さっさと帰れ」と匂わせられて、明麗はすっくと立ち上がる。すると娘にしては背丈がある彼女のほうが、颯璉を眼下に見る格好になった。


「何事も基礎から始めるのは当然のことと存じます。世間知らずの不束者ですが、ご指導よろしくお願いいたします」


 幼いころから厳しく躾られた所作は、すでに身体の一部のように身についている。非の打ち所のない優美な礼で教えを請えば、颯璉の片眉がぴくりと動く。


「良い心がけです。――孫恵そんけい


 片隅に控えていたひとりが一歩前に進み出て拱手で応える。明麗よりは幾らか年嵩と思われる若い娘だった。


「あなたに李明麗の指導を任せます」


 孫恵は目を丸くしておどおどと顔を上げる。化粧っ気の少ない気弱げな顔立ちは、僅かに青ざめ一層儚げに見えた。


「む、無理です。わたしにはそのような大役は」

「なにも難しいことをしろ申しているわけではありません。あなたが普段行っているいることを教えればよいのです」

「ですが、わたしの仕事は――」


 皇后よりは控え目だが十分に煌びやかに着飾っている侍女たちに比べ、孫恵が身に付けているのは動きやすさを重視した宮女のお仕着せである。当然仕事の内容もそれに呼応したものなのだろうと、容易に推測できた。

 親の身分である程度の仕事が決まるのは、なにも男子に限ってこのとではない。名門李家の息女ともなれば、皇后の傍らで花を添えているだけで十分な務めになるはずだ。

 気位ばかりが高い貴族の姫なら、憤怒の形相で実家に舞い戻り、親に泣きついてもおかしくはない処遇にも、明麗はにこりとあでやかな笑みを作る。 


「孫恵様。李明麗と申します。皇宮の内のことは何も知らず、不勉強でお恥ずかしい限りです。ここへ参りましたからには、方颯璉さまの仰る通り、李の家名も父の職もわたしにはなんの関係もありません。どうぞ一から教えてくださいませ」


 腰を折り殊勝に願い出たかにみえ、その実、漆黒の瞳は不敵な光を帯びて黒曜石の如く輝いていたが、流れるような一連の動作と緩やかに持ち上がっている口角にごまかされ、周りの者たちは気づかなかった。


「そう。本人がそう言うのならしかたがありませんね。でも、お仕事の手が空いたら、妾の相手もしてちょうだいね」

「身に余る光栄です、皇后陛下。ぜひわたしにも、異国の話をたくさんお聴かせくださいませ」


 微笑みあう二輪の花に、一時いっとき場を包んでいた緊張がほぐれる。


 衣擦れの音と花の香りを残して去って行く皇后を頭を垂れて見送る明麗を、最後尾についた方颯璉が足を止めて振り返った。


「それから、あなたが連れてきた侍女は家に帰すように」

「えっ? それは困り……」


 思わず顔を上げた明麗の反論を待たずに颯璉は立ち去ってしまう。あとに残された明麗は、この日一番の苦渋の表情を浮かべていた。



 ◇



 皇宮に務める宮女の多くは皇城内に建つ寮に入っている。だが、皇族に直近で仕える女官たちは、それぞれの宮で四六時中詰めていなければならない。

 明麗たちも、現在は主が不在の皇后の宮である昇陽殿しょうようでんに房を与えられた。

 位によって大部屋から個室まであるが、孫恵は明麗と寝起きを共にするため、それまでの八人部屋から二人部屋へと居を移すことになった。もちろん、新人女官としては異例の待遇である。

 両手で事足りた孫恵の私物に対して、運び込まれた明麗の荷物は、広くはない室内を埋めてしまうほどの量であった。春栄が厳選した荷以外は持ち帰らせたが、それでも房がいささか窮屈に感じる。


「お嬢さま。本当に帰ってしまってよろしいのですか? 私から旦那様にお願い申し上げて――」


 片付けがあらかたすみ、颯璉に言われた通り李家に戻るという段になって、春栄が主を仰ぎ見て眉を曇らせる。彼女は明麗が産まれたときから乳姉妹として傍にいてくれた、実の兄よりも親しい存在だ。正直に言ってしまえば、心細いことこの上ない。だがこの一件で、いつまでも彼女や家に甘えてはいられないと気づかされた。


「心配しないで。わたしも、もう子どもではないのだから。それに考えてみれば、無位の宮女が侍女を連れているのはおかしな話だわ」

「ですが……」

「大丈夫よ。いざとなったら、これだけ人がいるところだもの。分らないことは、適当にとっ捕まえて聞けばいいだけのことよ」  


 堂々と言い張る明麗に、春栄がはぁ、と深く嘆息して肩を落とす。


「とにかく、お身体にはくれぐれもお気をつけくださいね。あまり無茶をなさって、旦那さまや博全さまにご心労をかけませんように」


 春栄は最後まで後ろ髪を引かれる思いで何度も念を押して、ようやく城下の邸へ帰って行った。

 そのやり取りを見守っていた孫恵からくすりと小さな笑みが漏れる。


「さすがは李家のお嬢さま。大切にされているのですね」

「皆、わたしがいつまでも童女わらわめだと思っているだけです」


 しかし頬を膨らませ口を尖らせる愛らしい様子を目にすれば、それもしかたがないと彼女以外の誰しもが思うだろう。


「一人前の女官になって、家の者を見返してやります」


 それから方颯璉も、と鼻息荒くまだ発育途中の胸を反らした明麗に、孫恵が自身と同じ仕立ての衣裳を一式手渡した。


「では、まずこちらへ着替えてください。そのお召し物では、わたしたちの仕事などできませんから」


 神妙な面持ちで衝立の奥に消えた明麗が、しばらくして悲鳴を声を上げる。何事かと焦った孫恵がぐるりと裏側へ回って見れば、お仕着せの上衣に腕を通しただけのあられもない姿の明麗の周りには上質の襦裙がしわくちゃになって脱ぎ散らかされていた。


「これって、どうすればいいのっ!?」


 衣から伸びた紐を相手に懸命に手を動かすが、どうやっても上手く結べない。しまいには、絡まった紐が固い玉を作る。


「もしかして、おひとりで着替えられたことがない、とか?」

「着たことくらいあります! ただ……紐はいつも春栄が結んでくれていたので」


 最初の威勢は失せ、尻窄まりに口をもごもごと動かす明麗に、孫恵はとんでもない人を引き受けてしまったと、いまさらながらに後悔していた。

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