皇帝の思案


 その背に負うものの大きさの割にはこじんまりとした房で、苑輝えんきは無言で目の前に山と積まれた紙の束をめくる。目を通したものを左右に振り分け再び二つの山を作る作業を、朝から続けていた。

 ようやく終わりがみえた、と綴じられた束を左の山に追加しようとした手が止まる。まだ残っていたようだ。

 あきらかに今までの束と様相の違うそれに視線を落として、酷使して疲れた目をしばたたかせた。


「今年の総監督官は、しん安憲あんけんだったか?」


 苑輝は思案げに顎を撫でていた手をひらめかせ、房の片隅で気配を消し控えていた侍従を呼び寄せた。


「秦博士はくしをこれへ」


 採試さいしが行われている期間は、不正を防止するため、試験に関わる者は皇宮内に軟禁状態になっているはずだ。侍従は一礼すると、音も立てずに急ぎ退室していった。

 苑輝はその後ろ姿を見届けることなく、再び卓上へと目を戻す。

 採試の最終試験である論文は、難関をくぐり抜けてきた精鋭たちのものとあって、さすがにどれも力作揃いだ。試験官たちが吟味しふるいにかけたものに、苑輝が最終的な判断を下す。公平性を布くため、皇帝の元には匿名で届けられることになっていた。

 それにしても、最後の論文は異彩を放っている。枚数だけを比べてみれば、他のものの三分の一にも届いていないだろう。すっかり日が落ちた房に灯る燭の明かりだけでは、疲労の募った彼の目には少々辛いほど、びっしりと細かい文字の並ぶ数枚の料紙。

 試験の際は、紙も筆もこちらで用意した物が使用される。枚数も余裕をもって配られているはずなのだが。

 不審に思いながらも、目は紙の上の文字を追う。皇帝の興味をひいたのはその点だけではなかった。

 ようやく三枚目を読み終えたころ、おとないを告げる声が聞こえた。


「入れ」


 許可の声に応じて扉が開き、記憶にあるものより少々面やつれした仏頂面が明かりに浮かぶ。


「お呼びでしょうか」


 不機嫌そうな声が近づいて、苑輝の前で礼を取った。一見不遜にも見えるが、これが彼の常なのでいちいち気にしてはいない。


「ああ。査定で多忙のところをすまない。この論文のことを聞きたかったのだが」


 手元の料紙を人差し指でトン、と示せば、堅物で有名な秦安憲が珍しく苦笑を浮かべた。


「やはり、お目に留まりましたか。実を申し上げれば、それを及第に入れてよいものか悩んだのです」

「――だろうな」


 最終試験の論文としての出来は、明らかに他のものに劣っている。だが、いま問題にしているのはその内容でなくて。


「李宰相にご相談したところ、陛下のご指示を仰げと」

「それは正しい判断だったな。万一、この者を落第にしたことがあとでわかったら、そなたの首を飛ばしていたかもしれんぞ」


 実際の首級にしても彼の地位にしても、奪われれば大事のはずだが、本気とも冗談ともつかない苑輝の言葉に、偏屈な学者は顔色一つ変えない。ただ一度、片側の眉をほんの少し動かしただけで、懐から一枚の書類を取り出し苑輝の手元へ滑らせた。


「それを書いた者の身上書です」


 すでにの者の合否が決められたと判断し差し出された書類に素早く目を通した苑輝は、僅かに目を見張って低く唸る。


しゅう楽文がくぶんの養い子だったとはな。どうりで」


 再びくだんの論文へと目線を移す。

 そこには、余白が見当たらないほど料紙一面を埋め尽くす大量の文字。しかもその文字はただ小さいだけでない。


 葆の書には大別して『感字かんじ』と『看字かんじ』が存在する。

 己の心の内を表す『感字』と物事の本質をありのまま伝える『看字』。だが、この二つに明確な線引きをすることは難しく、ときには両方の性質を備える文字が書かれることもある。

 名筆と呼ばれる者でもその書き分けには苦心するというそれらを、この論文の書き手は見事に使い分けていた。

 筆者がこめた想いを自らが主張するかのような強い意志を持つ感字。事実を的確に明確に伝えようとする看字。しかもその一文字一文字が、霊峰雷珠らいじゅ山から流れる清水ように美しい。

 ここまでの手跡をもつ者は、書仙や書聖と呼ばれる過去の偉人たちを除いて、苑輝は知らなかった。


「それにしても、なぜこのように詰めて書いたのであろうな?」


 これだけの腕を持つ者が、書き損じで紙を無駄にしたとは考え難い。苑輝の零した独り言のような疑問に安憲が応えた。


「もったいないから、と」

「なに?」

「このような上質な料紙を何枚も使うのはもったいないから、と申しまして」


 苑輝は紙の表面に指先を滑らせる。将来、国の中枢を担うことになる官吏を選定する重要な試験だからといって、特別高級なものを用意しているわけではなさそうだ。

 しかし、今し方目を通し終わった彼の論文の内容で、その理由に思い至る。庶民の識字率について言及していたそれは、自身の生い立ちを元に書かれたものなのかもしれない。

『文字の国』の呼び名の通り、葆国民のすべての者が字の読み書きができるかといえば、実のところは決してそうではない。宮処みやこから遠ざかるほど、識字率は下がっていく。

 苑輝の即位後、戦乱の世から抜け出し、国の経済を立て直すことに気を取られ、教育や文化といったものが二の次になってしまっていたのは否めない。彼とて忘れていたわけでも、軽んじたつもりでもないと弁明したところで、現状では言い訳にしか聞こえないだろう。


 採試の受験資格は、身分を問わずこの国の男子すべての者にある。だが実際に受ける者は、比較的裕福な商家の息子や狭き門を勝ち抜いたという箔を付けたい、あるいは親から受け継ぐ位では満足できないという貴族の子息たちが大半だ。受験に必要な学問を学ぶにしても、試験を受けに上京するにしても、それなりの資金が必要となる。地方で、家族総出で小さな田畑を耕してどうにか暮らしていけるような民たちには、文字を習う暇さえも惜しいと感じるのも無理はない。

 だがそうして日々の生活に追われる者たちの中に、この手蹟の持ち主ような才能が埋もれているかもしれない。苑輝は己の視野の狭さを指摘された気がした。


りん文徳ぶんとくか」

  

 ほんの数枚の紙が一気に重みを増したように感じる。所狭しと書かれた文字たちが読む者に切々と語りかけてくるそれを、合格者の山の頂へと重ねた。



 ◇ ◇ ◇



 丸い月が照らす廊を通り、苑輝は内宮のさらに奥へと歩みを進めた。明かりを抑えた房の扉に立つと、控えていた不寝番が慌てて頭を下げる。静かに扉を開け薄暗い室内へ一歩足を入れれば、その行く手を一人の女官が塞いだ。


「恐れながら、陛下。今宵は先触れをいただいてはおりませんが」


 職務に忠実な女官は非難の表情を隠さない。妻の元を訪ねるだけなのにわざわざ知らせが必要とは、つくづく皇帝などという肩書きは面倒なものだ。苑輝の口元が皮肉に歪む。


「少し様子を見に寄っただけだ。すぐに出ていく」


 構わずに中へと進めば、それ以上の制止はない。すでに休んでいるであろう后のために極力音を立てずに歩いた気遣いは、徒労に終わった。


「起きていてよいのか?」


 窓辺に置いた椅子に腰掛け外を眺めていた顔が、突然かかった声で弾かれたようにこちらを向いた。


「陛下? このような夜更けにいかがなさいました?」


 窓から差し込む月明かりに浮かんだ百合の顔は、元来の透けるような白さを通り越して蒼白い。嫁いできたばかりのころは若い娘らしくふっくらとしていた頬も、心なしか肉が削げたように見える。


「そなたこそ無理をするな」

「もう、医師にも普段通りに過ごして構わないと言われましたの。それに――」


 百合がちょうど中天にかかった満月を見上げると、この国では珍しい麦穂色の髪がさらりと背に流れた。


「こんなに綺麗な月を観ないで寝てしまうなど、もったいないとお思いになりません?」


 そう言いながら夜空に向けているぎょくのような双眸は、手が届きそうなほど大きな月とは違う遙か遠くを映している気がした。


「だが、夜風などに当たっては身体が冷える」


 苑輝が手を伸ばして窓を閉めると、寝所は燭の仄かな灯りのみになる。翠緑の瞳の中で蝋燭の炎が名残惜しそうに微かに揺れた。


「宜珀に、娘を後宮に上げるように言ったと聞いたが」

「とても美しい娘だそうですわ。きっと後宮ここも華やぐことでしょう」


 長い睫毛を伏せ唇に仄かな笑みを乗せる様子に、苑輝は眉をひそめた。


「幾度も言ったはず。わたしはそなたのほかにきさきを置くつもりはないと」


 被せてきた声音が思いのほか強く、苑輝は続けようとした言葉を呑み込む。


昇陽殿しょうようでん付きの女官に、と宰相にお願いいたしました。聞けば、男子にも引けを取らないほどの才媛とか。まだわたくしの知らないこの国のことを、いろいろと教えてもらえればと思ったのです」


 いけませんか? と折れそうに細い首を傾ける。奥向きのことは好きなようにして良いと言ってある手前、一方的に駄目だと言い渡すこともできない。深い嘆息のあときびすを返した。


「それでそなたの気が紛れるというのなら、勝手にすれば良い」


 背中越しに衣擦れの音が届く。気配で百合が腰を折ったのがわかった。


「陛下。申し訳ありません、わたくしが……」


 先ほどとは違い、いまにも消え入りそうなか細い声が苑輝の足を止めた。 


「そなたが、百合ゆりが謝らねばならぬようなことは、何もない」


 責められるべきはむしろ、立場を考えずに我を張っている自分のほうだ。


「もう遅い。早く休みなさい」


 振り返りもせず言い置くと、来たときと同様に静かに退室する。間際、見送る侍女に、なにか身体が温まるものを彼女の元へ届けるよう命じることを忘れない。


 苑輝が外に出ると、まだ月は真上で輝いていた。

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