父兄の画策《2》

 年頃の娘としてはいかがなものかと思うほどの大股で廊を闊歩していた明麗は、ふと足を止めた。勢い込んで父の書房を出てきたものの、笄礼こうれいを済ませたばかりの十六の娘が後宮でできることなど想像もつかない。

 何気なく内庭に目を向けると、植えられたスモモの木が堅い蕾をつけ始めていた。

 ――今年はたくさんの実がなるだろうか。咲いた花がすべて実になるとは限らない。

 静かに瞬きをひとつした明麗は、裙の裾を翻してくるりと方向を変えると、自室へ向かうのとは逆の角を曲がっていった。

 着いた先の房の前で遠慮がちに声をかける。

陽媛ようえん義姉ねえさま。入ってもいいかしら?」

 すると扉が静かに開き、春の陽のような笑い声が出迎えた。

英世えいせい。あなたの大好きな明麗叔母さまがいらしたわよ」

 母の声に花が咲いたように顔を輝かせた幼子は、持っていた筆を筆置きにそっと戻す。軸を持つのがやっとの墨で黒く汚れた手を、守り役に濡れた手巾で拭ってもらうと、たどたどしい足取りで年若い叔母に近寄ってくる。

 ぴたりと明麗の前で立ち止まり、いったん背筋をピンと伸ばし胸を張ってから、小さな手を重ねて拱手で挨拶した。

あばんえおばうえいらったいまていらっしゃいませ

 舌足らずの言葉はどうにか通じた。幼い甥に明麗も丁寧に礼を返す。

「上手に挨拶できたわね。名を書く練習をしていたの」

 明麗は卓の上に広げられている紙に眼を移した。

 諸外国から『文字の国』と称されることもある書が盛んな葆では、子どもは箸を持つより先に筆を執ると言われるほどだ。その腕前が出世や婚姻に大きく関わることも珍しくはない。それゆえに、貴族の子女は物心の付かないうちから日々鍛練に追われることになるのである。

「これは義姉さまが?」

 手本として英世の名が記された紙を手に取った。

 手蹟には書いた者の性質がよく表れる。そこにある文字も、陽媛の暖かさと柔らかさが滲み出た、しなやかで丸みのあるものだ。そしてなにより、一人息子に対する愛情が溢れんばかりにこめられている。

わたくしのものより、あなたが書いてあげた方がこの子にはいいかのもしれないわね」

 明麗の書は、ときおり男手蹟おとこでと間違われるほど潔く凜々しい。自分ではそれでいいと思っているのだが、周りからすると頭を悩まされる原因の一つらしかった。

 母の書を手本に英世が紙に書き付けたものは、まだ文字と呼ぶにはあまりにもお粗末なものだった。だが、墨の線を一生懸命真っ直ぐ引こうとした気持ちは十分に汲み取れる。

「左右の払いはもっと練習しないとダメね。でも、ここの横画はとっても良いわ」

 褒められて得意げに自分を見上げる小さな頭を撫でた。純粋な好意で満ちる黒目がちの眼を向けられ、明麗の心が僅かに曇る。後宮へ行ってしまえば、無限の可能性を秘める甥の、日一日と成長していく様を間近で見守ることはできなくなる。そう思うと、少し寂い。

義姉ねえさま。わたし、後宮に上がることになりました」

 ぽそりとこぼした言葉に、陽媛の細く描いた眉が微かに動いた。息子の手を取り控えていた守り役に引き渡すと、席を外すように命じる。

 幾度も振り返りながら手を引かれて房を出ていく英世を見送り、あらためて義理の姉妹は向き合った。

「そのお話は、あなたの意志ということでよろしいのかしら。お義父とうさまや博全さまの無理強いではなくて?」

「もちろんです」

「そう。ようやく決心がついたのね。なら、お祝いを言わせてちょうだい。おめでとう」

 陽媛は細い息を吐き出すと小さく笑みを浮かべた。

「陛下のお人柄は旦那さまからもよく伺っています。厳しいところもおありになるけれど、懐の広い清廉なお方とか。きっと、皇后さま同様にあなたのことも大切にしてくださるでしょう。側室とはいえ皇帝陛下の妃となるのですもの。お義母かあさまもお喜びになりますわ」

 なにやら勘違いしたまま話を進める陽媛を慌てて止め、明麗は不敵に紅いくちびるの端を引き上げる。

「早とちりをしないで、義姉さま。わたしは陛下の妃嬪になるつもりなどこれっぽっちもないの」

「だけれど、たったいま後宮へ行くと……」

 陽媛が戸惑うのも無理はなかった。ずっと以前から李宜珀が明麗を皇帝の妃にしようとしていたことは、この家の者なら知らぬ者はいない。たとえすでに埋まってしまった正妻の座には就けなくとも、嫡子となる皇子を産めばその影響力は皇后をも凌駕することになる。

 だからこその入宮話ではなかったのか、と。

「もちろん父さまたちは、そのつもりでわたしに女官の話を持ってきたのでしょうけれど、思い通りになんてなるものですか」

「女官ですって? 李家の姫が後宮勤めをするというの?」

 目を丸くして驚いた陽媛に、明麗は口を尖らせて不平を漏らした。

「官吏として陛下にお仕えするのだったら、一も二もなく、たったいまからでも皇城に駆けつけたいくらいなのに」

 領土の拡大を図った先帝の御代は、周辺各国との戦が絶えなかった。十四年前にその望界帝が没し、二十五歳で帝位を継いだ苑輝えんきは、争いを終結させただけでなく、長く続いた出兵で疲弊していた民衆の生活を取り戻すことを一番に政を進めている。

 戦に怯える暮らしからこの国の民を解放した皇帝に、明麗は心酔していた。だからといって妻になりたいわけではない。

「でもね、明麗。女子おなごには女子にしかできないこともあるのよ。そう、たとえば子を為すとか」

「それはわたしの仕事ではないわ。陛下の御子をお産みになるのは百合后さまよ」

「そうはいっても……」

 陽媛の言わんとすることは理解している。明麗とて、このままの状況が続けば国のためにならないことくらい重々承知だ。

 だが、皇后は御年二十三と聞く。結論を出すには時期尚早ではないだろうか。嫁いでから三年しか経っていないのだ。どうしてこう、世の男どもは結果を焦るのか。

 あと数年静観してなお皇帝と皇后の間に子が望めないというのなら、そのときは側室を設けることも必要になるかもしれない。だけれどそれは、子を産める女子であれば明麗でなくてもよいことだ。この国の頂点に立つ者の妻になりたい娘など、他にいくらでもみつかるだろう。

「わたしは、わたしにしかできない仕事をしたい」

 自分も父や兄と共に、陛下の下でこの国と民のために力を尽くせたら――。

 幼い頃から抱く明麗の望みは、いくら周りに声を大にして訴えたところでいまの葆では叶えようがない。想いばかりが空回りする現状に、明麗は苛立ちを通り越して怒りすら覚えていた。

 ところが、自身も名門こう家の出である陽媛には、夫以外の誰かに仕えるという思考がそもそも不足している。典型的な貴族の女だった。

 それなりの家に生まれた女子ならば、だれもが一度くらいは思い描くであろう皇帝の妻という地位。それが容易く手に届くところにあるにもかかわらず、まったくの興味を示さない義妹に、陽媛は苦笑を隠しきれないようだ。

 やれやれといった風に頭を振って歩揺ほようをしゃらしゃらと鳴らした。

「あなたは昔からそうだったわね。刺繍や箏を習うよりも史書や経書を読みたがるって、旦那さまがよくこぼしていらしたのよ」

「義姉さまは、生まれたときから許嫁……兄さまとの結婚が決まっていて、お嫌ではなかった?」

 明麗の問いに、陽媛は水仕事などただの一度もしたことのない滑らかな白い手を頬に当てて小首を傾げた。その様は、博全と二つ違いの二十四になるというのに、まだ少女のようなあどけなささえ感じる。

「困ったわ。博全さまと結婚する人生以外なんて、考えたこともないもの」

 心の底からそう思っているらしく額に八の字を寄せているのを見れば、明麗は自分の思考が普通の娘とは少し異なっているのではと思わなくもない。それでも、彼女には曲げられない信念がある。

「わたしは誰かに決められた人生なんてまっぴらごめん。自分の道は自分で決めさせてもらいます」

 とは言ったものの、このままでは父は、いつまでたっても明麗を皇帝の妻にすることを諦めないだろう。ならば、向こうからその必要はないと言わせればいい。

 要は、皇后に子が生まれさえすれば万事解決する。

 授かりものとはいえど、こちらから天の向かって一刻も早くと催促できる秘法があるかもしれない。それさえわかれば、異国の地でたったひとり、皇宮に巣くう人の皮を被った狐狸妖怪に怯えている皇后の手に、己と血の繋がった我が子を抱かせ、孤独から救い出して差し上げることができる。

 そして無事成功した暁には、皇帝からきっぱりと父に入宮の断りを入れてもらう。さらにあわよくば、女の身でも政に関われるような職を設けてもらえないか、と奏上するという算段だ。

 明麗は自分の起てた完璧すぎる計画を夢想し、満足げにうなずく。

「そこで、後宮に行く前に、義姉さまにお聞きしたいことがあるの」

「あら、なあに? 私などがあなたに教えてあげられることなんてあるのかしら」

 義妹いもうとに頼られ嬉しそうに身を乗り出してきた陽媛の耳に、明麗は手を当てて真剣な面持ちで囁いた。

「赤子を、できれば男子を授かる秘術をご存知ではない?」

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