富貴天に在らず、吾に在り

浪岡茗子

起筆

父兄の画策《1》

 牡丹の精。芙蓉の姫。ほうの至宝。

 明麗めいれいにつけられた数多くの二つ名は、彼女の姿を一目見れば決して誇称でないことがわかるだろう。

 咲き誇る牡丹に喩えられる華やかなかんばせに黒曜石の如き輝きを湛える瞳の凜とした佇まいは、生まれながらの姫である。その、月季花の花びらのように可憐な唇を閉じていれば、という但し付きなのだが――。

 今も柳眉を逆立てて、父である宜珀ぎはくにかみついていた。

「後宮に上がれとは、どういう事でしょうかっ!?」

 へや中に響くほどの大声に、宜珀が白髪の交じった眉をひそめる。

「どうもこうも、そのままの意味だ。陛下のお傍でお仕えしろと申しておる」

「わたしが妃嬪に? ふざけたことを仰らないで。陛下には皇后さまがいらっしゃるではないですか。その上でわたしになにをしろと?」

 即位以来独り身を貫いていた皇帝の后妃の候補として、明麗の名が挙げられていたのは数年前の話。当時、まだ年齢が若すぎると消えたはずの縁組だ。今ではその直後に同盟国から嫁いできた、百合后という立派な皇后がいる。

「そなたこそ、あれだけ書物を読みあさっていながら、後宮の意義も知らぬとは情けない。皇恩を賜るのは、なにも正妻のみではない。脇腹から産まれた皇子が帝位に就いた例など、掃いて捨てるほどあるわ」

「ええ、よく知っています。その陰にある血で血を洗うおぞましい話もいっしょに」

 一人娘を皇帝とはいえ側室に差し出そうとする父に、明麗は心底呆れていた。宰相の地位についてなお欲しいものがあるというのか。

「この話を否と申すなら、急ぎ嫁ぎ先を見繕う。家の役に立たぬ者をいつまでも養っておくつもりはない」

「わたしは父さまのまつりごとの駒ではありませんっ!!」

 女にも官人になるための採試さいしを受ける権利があればいいのに。

 ぎりりと歯噛みし嫌悪感を隠さない妹を、傍らで成り行きを見守っていた博全はくぜんが、仕方ないといった体で宥める。

「そのように険しい顔をしていると、若い身空で眉間のシワが取れなくなるぞ。父上も、いささか話を飛ばしすぎです」

 忠告を受け、明麗が慌てて無意識に寄せていた眉間のシワを指で延ばしながら、兄へと疑問の視線を向けた。

「兄さま、どういう意味でしょう」

「なにも、皇后さまと寵を競えと言っているのではない。こう考えてはどうだ? 女官として、この国の役に立つ、と」

「わたしが女官に?」

 今度は別の意味で、怪訝に眉をひそめる。

「わたしに、皇后さまが召し上がるお茶を淹れたり、御髪おぐしを結えとおっしゃるのですか」

 ガタンと、珍しく動揺した宜珀が茶杯を取り落とした。博全がこぼれた茶を素早く手巾で拭き取ると、何事もなかったかのように妹に向き直る。

「そのようなことはおまえに期待していない。いや、むしろ手を出すな」

「では、いったいなにをすればよいのでしょう。ほかに女官の務めなどあるものでしょうか」

 日常の雑事はそれこそ下働きの者が山といる。まあ明麗としては、やれと言われればそれがたとえ雑巾がけだとしても抵抗はないのだが、葆国の名門、李家の一人娘にそれをさせようとする強者がいるとは思えない。

 嫉妬や妄執が渦巻く女の地獄とも、一度足を踏み入れたら戻れない墓場ともいわれる後宮などには近寄りたくもないというのが、明麗の本音である。

 だが、彼女のそんな思考は博全たちにとっては筒抜けの事項で、それを丸め込む手筈も抜かりなく用意されていた。

「皇后さまが西国から単身で嫁せられたことは知っているな」

 なにをいまさら、と思いつつも頷きを返す。

 皇后は、親睦の証として祖国から遠く離れた葆の皇帝に嫁いだのだ。明麗としては、国同士の繋がりを強めるための政略結婚さえも忌まわしく思える。

「周囲から、一日も早くお世継ぎをと望まれてすでに三年。いまだ、そのような慶事に恵まれていない」

「赤子など天から授かるものです。周りがとやかく言ってどうにかなるものでもありません」

 明麗の賢しらな答えを聞き、博全が「釣れた」と口角を僅かに上げたことには気づかない。

「並の人ならそれでも構わん。だが、陛下の御子となれば話は変わってくる。このままでは、この国の世継ぎ問題に発展しかねないのだからな」

 嫡子なきままに、恐れ多くも皇帝に万が一のことがあれば、跡目を巡って国が乱れないとも限らない。君主にとって跡継ぎを残すことは、政務のひとつといっても過言ではないのだ。

「差し出がましくも、皇后に望めないのなら妃嬪をと奏上したところで、陛下にはそのつもりはないと一蹴される始末。百合后さまにおかれてはそのお立場上、おつらい毎日を過ごされているとのこと。誠においたわしい限り」

 口元を押さえ目を伏せた兄の姿に、明麗は会ったこともない貴婦人の胸の内を思い眉を曇らせた。

「……そんな、ひどいわ。きっと好きこのんで、こんな遠くにお嫁入りなされたわけではないのでしょうに」

 裙を握る手が義憤に震える。男たちの身勝手に、世の女たちがどれほど苦汁をめさせられているいるのか、彼らは知っているのだろうか。

「ご心労を重ねられていては、授かるものも授かれない。せめて、皇后さまのお気が紛れることでもとは思うのだが、我ら男ばかりが額を集めていても、妙案が浮かぶはずもなく」

 はぁ、と憂いに満ちた嘆息が兄の口から吐き出され、明麗は大きな眼をさらに見開く。このまま彼らに任せていては、皇后はそう遠くないうちに心を壊されてしまうのではないかという不安が、明麗の中で頭をもたげはじめていた。

「わかりました、兄さまっ! わたしで務まるというのなら、ぜひとも百合后さまのお力になります!!」

 指を揃えた右手をかかげて天に誓うと、父兄は同じように眉間にシワを寄せつつうなずいた。

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